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ぺルティレの「朝の歌」〜ムーティの「イタリア・オペラ・アカデミー・2023」


例によってオペラの話から入りますが、そのうち歌舞伎の話に絡んでいくと思います。現在・2023年度の東京春音楽祭の「イタリア・オペラ・アカデミー」の最中で、吉之助も聴講の機会を得ました。昨日(25日)で1週間ほどのリハーサルが終わり、明後日28日が本番となります。イタリアの名指揮者リッカルド・ムーティが若い音楽家たちにヴェルディの歌劇「仮面舞踏会」を伝授するという・またとない機会です。

歌舞伎のサイトを持っているせいもありますが、吉之助は音楽を聴きながら「ここは歌舞伎で云うならば・・」と考えたりすることが多く、オペラ(特にイタリア・オペラ)に関しては、これと歌舞伎を区別して考えたことはまったくないのです。洋の東西を問わず、真理はひとつと考えています。今回も示唆を受けたことはいろいろあるのですが、先日21日のソリストとのピアノ・リハーサルでムーティが、

「アウレリアーノ・ペルティレの録音を聴いたことがありますか?トスカニーニが最も信頼したテノールです。素晴らしいテノールですよ」

と言っていたので、本稿ではペルティレの録音をひとつ紹介したいと思います。吉之助はペルティレを知らないではなかったが、今回ムーティに言われて・改めてその録音を聴き直してみましたが、なるほどトスカニーニが・そしてムーティがペルティレを評価する理由がよく分かりました。これでムーティがヴェルディのオペラ演奏のなかで何を理想としているか感覚的に理解出来た気がしました。

音楽でも歌舞伎でも、「パフォーマンス芸術は生(なま)が絶対で、ビデオや録音では生(なま)の息を伝えることは出来ない」ということを言う方は少なくないと思います。しかし、それは息に乗せてビデオを見ようとしない(息に乗せて録音を聞こうとしない)から分からないのです。分かる人から言わせれば、例え映像なしの・アコースティック録音であっても、伝えるべきものは確実に伝わるのです。実際優れた音楽家は、他の人の古い録音を実によく聴くものです。「聴いた」と公言しないだけのことです。もちろんなかにはお手本として良くない演奏もあるわけで、ピアノ・リハーサルでもムーティが歌手の間違いを指摘して「どのテノールの録音を聞いた?」と掴みかかるおふざけをしていたけれども・言っていることは真剣で、いろんななかから「この表現は正しい・これは正しくない」(注:好き・嫌いではない)を判断出来るレベルにならないと、どんな分野でも一流にはなれないです。歌舞伎でも、昔の名優の映像・録音があれば、金払ってでも絶対見る(聞く)べきだと申し上げておきます。

そこでアウレリアーノ・ペルティレ(Aureliano Pertile)のことですが、ペルティレは1920年代から30年代・トスカニーニのミラノ・スカラ座音楽監督時代に重用された名テノールでした。遺された録音は決して多いと云えませんが、どの録音からもペルティレの名歌手たる理由が納得出来ます。そのなかから、本稿では、レオンカヴァルロの「朝の歌」を紹介したいと思います。「朝の歌」は超有名曲ですから、Youtubeでもいろんな有名歌手の歌唱を聴くことが出来ますから、是非聴き比べて下さい。伸びやかな声で・輝かしく・闊達に・心地よく歌う歌唱はいくらでもあります。しかし、ペルティレほど、気品を持った・そこはかとない香気を感じさせる・落着きのある歌唱は他にないのではないでしょうかね。しっかり足取りが取れて、テンポが揺れることがない端正な歌唱です。これが100年前の録音とは信じられないほど・古びない歌唱です。

レオンカヴァルロ:「朝の歌」
歌唱:アウレリアーノ・ペルティレ (1928年録音)

この歌唱の気品の高さはどこから出てくるのかを考えると、それは「曲が求めるイタリア語として正しい発声をしているからだ」と云う結論に落ち着くのです。テンポが揺れないから気品が出るのではないです。それは結果に過ぎません。イタリア語の発声として正しいから(つまり発声に無理なところがまったくないから)テンポを揺らす必要がない、無理するところがないからゆったりと息が取れる、ゆったりと息が取れるから喉に負担がかからない、だから無理なく朗々たる声が出ると云うことです。何とも言えない気品は、そこから立ち昇るものです。まったく歌唱のお手本のような録音ですね。この録音だけだとペルティレはリリック(抒情)系の歌手かと思われるかも知れませんが、他の録音をお探しになれば分かりますが、ペルティレはオテロのようなドラマティック系の役柄の激した場面でもまったく音が割れることなく・歌唱が揺れるところがありません。まったく畏れ入った大テノールです。

このペルティレの録音から、ムーティがヴェルディ演奏に何を求めているか(まあホントはヴェルディだけのことではないが、ムーティにとって特にヴェルディなのです)、はっきり見えてきます。それはヴェルディの音楽が持つ「気品」のことです。リハーサルでも、ムーティは

「イタリア語はレガートな言語なのです、常にレガートを意識するように」

「フォルティシモでも常に音楽的でなければなりません、バーンとピストルを鳴らすようなことをしてはいけない」

「オーケストラと一緒に歌ってください、室内楽のように」

としきりに言っていました。もちろんイタリア語と日本語はまったく違う言語ですけれど、音曲や台詞において、「テキストが求める言語として正しい発声をしているか否か」と云うことになれば、オペラと歌舞伎に何の違いもないと思います。

(R5・3・26)


〇ぺルティレの「朝の歌」・続き

歌舞伎のサイトにイタリア・オペラの話が入ると引く方は少なくないと思いますが、吉之助の頭のなかでヴェルディの音楽がまだ鳴っていて・なかなか歌舞伎脳に戻らないので、もう少しリッカルド・ムーティの「イタリア・オペラ・アカデミー」の話を続けます。ムーティは

「イタリア語はレガートな言語なのです、常にレガートを意識するように」

と何度も言っていました。ぺルティレの歌唱を聴くと、イタリア語のレガートを生かすコツは、母音の使い方にあると、つくづく思いますねえ。例えば「朝の歌」の最初の一節は、

L'aurora di bianco vestita   白い衣装をまとった暁

ですが、ぺルティレは、Aurora(アウロラ、夜明けの光・暁)diディ、〜の)を大きく一括りにして膨らませる感じで歌っています。〜ロラディで三段上がりに声が段々高く上がって行くイメージですかね。vestita(ヴェスティタ、衣装を着た)の歌い方も特徴的です。〜ティ-タァと感動の溜息を漏らすように柔らかく丸めて歌っています。これらは他の歌手の歌唱にあまり見られない工夫です。おかげで言葉のニュアンスがふっくらと丸く立ち上がる感触に聴こえるのです。まさにムーティが望む「レガート」な言葉遣いです。これは義太夫節で云うならば、まさに「三段起こし」と「産み字運び」の技法だなあと思うのです。ムーティは、

「音楽的・楽譜的に正しいだけでなく、演劇的にも正しく歌ってください。これは演劇なのですから。そのために歌詞が求めているカラーをはっきり出してください。」

とも言っていました。これは前回(2年前)ムーティが言っていたことですが、

「Glorious(グローリアス)」には、「栄光の」と云う意味と・「美しい」と云う意味がある。一体どちらなんですか?「栄光で美しい」じゃないですよ。どちらなのかカラーで示して下さい。」

と云うことです。ぺルティレの歌唱はカラーが明確に聴こえて、音楽的かつ演劇的にも正しいと感じるのです。コツは母音の使い方ですねえ。こういうことは言語学的に母音の数が少ない(と思われている)日本語では事情が異なると仰る方が居そうですが、例えば武智鉄二はこんなことを言っていますね。

「五十音表を見ますと、ヱやンの字までいれて51字しかないわけですから、日本語は51の言葉の組み合わせだと思われているかも知れないが、実際に用いられる言葉はそうではないのです。子音の方はほとんど動きませんけど、母音の方は非常に動くのです。(中略)母音を五つの感情、「アハハ」と笑い、「イヒヒ」と笑う、「ウフフ」「エへへ」「オホホ」がそれぞれ微妙な感情(愉悦とか猜疑とか陰険とか軽蔑とか抑制とか)の差異のなかでとらえ、それを本来の5音、アイウエオと掛け合わせたら、5X5=25,つまり25種類くらいの母音を、日本語は実際には持っているということです。実際にはもっと無限に変化するでしょうけど、基本的には抑制、悲劇的な時にはウの型になるし、喜ぶ時はア、驚く時はオという風に、母音の使い方は感情と結びついて、さまざまに変化するのです。(中略)音遣いと云うことを義太夫などでも申しますが、これはいろいろな要素があると思いますが、そのひとつに、やはり風情の変化に伴う母音の変化も含まれていると思います。」(武智鉄二:日本語における「母音と子音」の問題、昭和54年4月、定本「武智歌舞伎」第5巻)

つまり義太夫では、25の母音の使い方で感情のカラーを出すということです。イタリア・オペラの世界では「音遣い」という概念はないと思いますが、イタリア語の特性下においてぺルティレは「音遣い」と同じことをやっていることに気が付いて、吉之助なんぞはそのことに思わず感動してしまうのです。そしてオペラと歌舞伎に何の違いもないと改めて思うのです。歌舞伎の台詞でも、このこと大事だと思いますよ。カラーをはっきり出すことが大事、そのコツは母音の使い方にあり、ですね。

(R5・4・2)





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