追悼・七代目中村芝翫
*七代目中村芝翫は、平成23年(2011)10月10日没。
今月10日未明に人間国宝・七代目中村芝翫さんが亡くなったとのことです。先月(9月)新橋演舞場興行では「沓手鳥孤城落月」の淀君を勤めましたが、初日だけで休演ということで心配はしていましたが、結局、これが最後の舞台となりました。本年1月の五代目富十郎といい・これまで幾多の舞台で慣れ親しんできた役者さんの訃報を続けて聞くのは寂しいことです。
芝翫といえば、吉之助の場合は、どうしても歌右衛門と対の印象で浮かんできます。「廿四孝」ならば歌右衛門の八重垣姫に芝翫の濡衣、「籠釣瓶」ならば歌右衛門の八つ橋に芝翫の九重ということになります。歌右衛門の陽に対して芝翫の陰ということになりましょうか。陰と云っても暗いということではなく、派手さを抑えた控えめな(慎ましい)美しさということです。それが歌右衛門との組み合わせであるとちょうど良いバランスであったと思います。梅幸・歌右衛門亡き後、芝翫は否応なしに女形の頂点に押し上げられていきます。主役にはもちろん主役としての立ち位置があるわけですが、そういう意味では平成の女形トップとして芝翫が強烈な印象を残したということは必ずしもなかったかも知れません。しかし、振り返ってみて・やはり「芝翫は良い舞台を残してくれた・・」という深い感慨があるのは、立ち位置をわきまえた・つまり役の規格をしっかりと心得た演技から来るものです。このような立ち位置をわきまえた演技は、六代目学校で仕込まれたものだと思います。
芝翫は六代目菊五郎のことを「親父」と呼んで・よくその思い出話をしたものでした。芝翫は幼い時に実父・祖父を亡くしてとても苦労しましたから、預かってくれた菊五郎のことを養父同然に感じていたのでしょう。この辺は「芝翫芸模様」という芸談集に語られていますから、それをお読みになれば良いと思います。「娘道成寺」の芸談などとても面白いもので、芝翫が一世一代で「娘道成寺」を踊ったのはいつのことでしたか、本人には「俺の道成寺は親父直伝」という自負が確かにあったと思います。
芝翫については古風な風貌ということが良く言われます。まあそれは確かにそうかも知れませんが、そのせいでその芸は古風な味わいに思われていることが多いようです。しかし、それらは見掛けに捉われ過ぎた印象論なのです。芸風ということになれば、芝翫の芸はむしろ役の規格をしっかりと持った・かつきりとした芸であって(つまりそれは六代目菊五郎に通じるものであって)感覚的には新しいと言えるものでした。「娘道成寺」でもそうであったと思いますが、芝翫の道成寺は真女形の道成寺には違いないですが・決して嫋嫋としてナヨナヨした不健康なものではなかったのです。六代目菊五郎は兼ねる役者の道成寺でしたが、それに近い健康的な感覚であったと思います。
このことは「菊畑」の虎蔵・「車引」の桜丸・あるいは「四段目」の判官などを見ればより明確に分かると思います。これらの役で芝翫は真女形が演じているということを感じさせません。(同じことは七代目梅幸にも言えます。)これらの役を真女形が演じることの有利さは身体の線・身のこなしの柔らかさとなって確かに現れているのですが、そのことがしっかりと技巧として位置付けられており、余計な性差(女形の臭味)を感じさせない。そのような芸でありました。 ご冥福をお祈りします。
(H23・10・16)