市川雷蔵のこと〜中川右介著「市川雷蔵と勝新太郎」
本年(2021)は、市川雷蔵(昭和6年・1831〜昭和44年・1969)の生誕90年だそうです。このタイミングで「市川雷蔵と勝新太郎」(中川右介著)という興味深い本が出版されましたので、本稿でこれを紹介することにします。歌舞伎のサイトなので雷蔵が中心になってしまいますが、勝新ファンにはご容赦いただきたい。
市川雷蔵の名前は、武智鉄二の弟子を自称している吉之助は武智歌舞伎の絡みで、もちろん承知しています。吉之助は年齢的に「眠狂四郎」など雷蔵主演の映画を同時代で見た世代ではないですが、吉之助にとっての雷蔵は、どちらかと云えば歌舞伎役者と云うよりも時代劇映画スターでした。昭和24年から27年頃のことですが、武智は歌舞伎再検討公演(今から見れば武智主宰の歌舞伎塾みたいなものでした)を行ないました。「武智歌舞伎」と云うのは、当時のマスコミが勝手につけた呼び名で、それが通称となったものです。武智歌舞伎が輩出した名優と云うと、まず扇雀(後の四代目藤十郎)・鶴之助(後の五代目富十郎)・延二郎(後の三代目延若)・・・それに後に映画で活躍した雷蔵もいましたね・・・と云う言い方に、実は吉之助もなってしまうことを正直に告白しておかねばなりません。残念ながら、歌舞伎史での雷蔵の印象は淡いものです。しかし、本書を読んで、「歌舞伎役者・八代目市川雷蔵」ということを改めて考えてみることになりました。後年・武智は、自分が武智歌舞伎をやってみる気になったのは、扇雀・鶴之助のこともあるが・彼らはいわゆる御曹司であるので・放っておいてもそのうち役も付くだろう、自分としては脇役の子であった雷蔵のことが大きかったと語っています。雷蔵は歌舞伎役者としては不遇でした。なお武智は、武智歌舞伎時代の雷蔵のベストとして、「妹背山婦女庭訓・道行」の求女を挙げています。
本書はいろいろな読み方が出来ると思います。もちろん映画ファンは、大映の時代劇映画最盛期を支えた二大スターを軸にした映画興亡史(昭和46年に大映は倒産)として読むでしょうし・そちらの読み方が本来ですが、吉之助は別角度から見た戦後歌舞伎史として興味深く読みました。というのは、雷蔵が歌舞伎から映画界へ移籍し・大スターとなっていく背景として、林長二郎(後の長谷川一夫)の移籍とそれに絡むゴタゴタ、二代目鴈治郎の移籍(後に歌舞伎に戻ることになりますが)とそれに絡むゴタゴタ、中村錦之助(後に萬屋錦之介)の移籍とそれに絡むゴタゴタなど、それらも含めて詳細に経時的に記述されており、雷蔵の移籍が彼個人の事情を越えて、歌舞伎史の流れのうえにある出来事であったことが、よく分かるからです。それらのエピソードは断片的な情報としては吉之助にもありますが、こういう風にクロニクル風に整理してもらえると、戦後の歌舞伎と映画とのせめぎ合いが、はっきりと見えて来ます。
ご承知の通り、当時の時代劇映画のスターの多くは、歌舞伎出身でした。(勝新太郎は歌舞伎役者ではないですが、長唄三味線方の出ですから、彼も歌舞伎の関係者です。)歌舞伎と映画とのせめぎ合いとは表面上は役者の取り合いですが、詰まるところは観客の奪い合いである。昭和20年から30年代、歌舞伎は観客を映画にどんどん奪われていました。しかし、昭和40年代に入ると、歌舞伎も映画も、今度はテレビの方に観客を奪われて行きます。そして映画下り坂のなか、昭和44年に雷蔵が亡くなったわけです。
(本書にはありませんが)雷蔵夫人が武智に語った話に拠れば、雷蔵は死の病床でしばしば武智歌舞伎時代の思い出話しをして、懐かしそうに「やっぱり武智先生の言やはったことは、ほんまやったなあ」としきりに言っていたそうです。(武智鉄二:「歌舞伎役者雷蔵」・昭和45年7月) 雷蔵は自分は歌舞伎役者だという意識(と云うか誇り)は生涯捨てなかったと思います。
吉之助には昭和50年代の・歌舞伎座三階席のガラガラの光景が目に浮かんで来ました。夜の部終演近くになると(帰りの電車の関係で)途中で観客がどんどん帰ってしまって、最後には、あのだだっ広い三階席に数十人パラパラということも珍しくありませんでした。(あの頃の歌右衛門・勘三郎・幸四郎など役者は素晴らしかったのですが。)本書を読みながら、ここに描かれた戦後の歌舞伎と映画とのせめぎ合いの果てが、あの寂しい光景であったのだなあと思うのです。しかし、雷蔵はもちろんですが、他の時代劇スターも歌舞伎が嫌いで映画へ走った人はいなかったと思います。皆それぞれ何かしらやむを得ない事情があったのです。そこら辺に歌舞伎興行のシステムの教訓(待遇・役者の育て方・或いはスターの育て方など)があろうかと思いますが、松竹は、あの時の経験からちょっとは何か学んだでしょうかねえ・・・まあここでは言わんことにしておきます。今またテレビも、スマホやインスタグラム・Youtubeなどに視聴者を奪われて凋落が激しい。平成期には回復したかと見えた歌舞伎興行にも再び陰りが見え始めています。目下のコロナ状況はまだ先が見えない。こういう時だからじっくり考えて見なければならないことがあるかも知れませんね。
中川右介:市川雷蔵と勝新太郎 (角川書店単行本)
(R3・10・30)