1)バレンボイムのブルックナー・交響曲第8番
吉之助はリンツの聖フローリアン教会へも参ったくらいですから、ブルックナーの交響曲を愛聴すること人後に落ちないつもりですが、それでもこのオーストリアの片田舎の朴訥なおっさん(ブルックナーのこと)がどうしてこんな途法もないスケールの交響曲群を思い付いたのか、もしかしたらブルックナーはとんでもない神の如くの狂人なのかと思うことはよくあります。アルプスの高峰を見渡すような清冽な神々しい気分にされますが・いつもそんな平和な静かな気分ばかりではなく、暗闇のなかに電光が炸裂するような悪魔的で奇怪な瞬間があります。ブルックナーという人の・どういうところからこういう衝動が生じるのかはまことに興味のあるところですが、残念ながら時間もないのでブルックナーの伝記など読むところまではしていません。そういうことを忙しいせいにしているといけないと思いますが、今回(平成28年2月)ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレ来日公演を聴いて、またそういうことを思いました 。
もう二十年ほど前(1995年6月)になりますが、吉之助はバレンボイムとシカゴ交響楽団の来日公演でブルックナーの交響曲第8番を聴きました。曲の進行に合わせてテンポを巧みに伸縮させて旋律のコントラストを明確に付けた演奏で、実を言うと吉之助はテンポを頻繁に動かすブルックナーはあまり好みではないのですが、ジェット・コースターに乗っているかのように勢い良く展開する光景が、シカゴ響の合奏力ならではと云うべきで したが、説得力があって・今でも記憶に鮮明に残っています。当時もバイロイトでワーグナーを次々振って八面六臂の活躍でしたが、今や巨匠としての風格漂っており何を振っても向かう所敵なしといった雰囲気です。そこで今回(平成28年2月18日:ミューザ川崎・シンフォニー・ホール)でのバレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレで同じブルックナー・交響曲第8番を21年ぶりに聴いたわけです。
これはたまたまということですが、吉之助は先月(1月)リッカルド・ムーティ指揮シカゴ響で演奏会を聴いて・まだその響きが耳のなかに残っていたせいか、今回(2月18日)のベルリン・シュターツカペレは吉之助には最初のうち若干響きが粗く聴こえました。ひとつにはホールと吉之助が座った位置のせいもあったかも知れません。サントリー・ホールならば楽器の響きが溶け合ってマイルドに調整された感じになる・言い換えると響きの輪郭が甘くなる(これはサントリー・ホールでの20日の演奏会で確認できました)が、ミューザ川崎では楽器の響きがもう少し正直に出ます。だから吉之助はミューザ川崎の響きの方が好きなのですけどね。それにしても・しばらくは、ここは金管の強奏がちょっと濁るなあ・ここは弦は出だしをもっとニュアンス豊かにして欲しいとか、これがシカゴ響ならば・・・ということがチラチラ吉之助の脳裏をかすめましたが、第1楽章が進むにつれて・そういう不満も感じなくなりました。まあ良く云えばベルリン・スターツカペレの響きには、荒削りでも素朴な味わいがあったということが言えると思います。バレンボイムの解釈は全体的に細かなところにこだわらず・音楽の流れを大きく掴む方向にあったようで、スケルツオなど動的な楽章ではオケを煽る場面も見られました。(これは20日の・第9番でもそうでした。)金管 ・特にホルンは良く鳴っておりましたね。テンポは第3楽章まではあまり揺らす印象がしなかったのは、この20年のバレンボイムのブルックナーの大きな変化だと思います。その成果が出たのが第3楽章アダージョで、息の深いゆったりとしたテンポで実に懐の大きい音楽を作っていました。ベルリン・シュターツカペレの弦が旋律を太く歌っていたと思います。真の巨匠の音楽というべきで、これには心底感動させられました。それにしてもこのアダージョ楽章は何という大きい音楽なのでありましょうか。若い頃の吉之助はブルックナーのスケルツオ楽章が好きだったものですが、歳を取って吉之助もやはりブルックナーは緩徐楽章が良いと思いますし、第8番の交響曲ではやはり第3楽章を頂点と見たいと思います。
今回のバレンボイムの第8番では第4楽章だけはテンポの緩急が若干大きくなり、若い頃のバレンボイム・シカゴ響の演奏を思い出しました。コーダをテンポを速めて追い込み掛けるのは まあ音楽に勢い付ける効果もあるとは思います(これをやる指揮者は多いですがね)が、ここはテンポをゆっくりインに取った方が絶対スケール大きくできるのになあなどと思いながら聴きましたが、多分これがバレンボイムらしいということなのでしょう。そういうわけで全曲通してみると若干不満を感じる箇所もないではなかったのですが、第3楽章の深さにバレンボイムの成熟を確認できたということで吉之助には十分満足できる演奏会であったのでした。
(H28・2・21)
2)バレンボイムのモーツアルトとブルックナー・交響曲第9番
1970年前後バレンボイムがイギリス室内管弦楽団とモーツアルトの協奏曲を弾き振りで録音を始めた頃にバレンボイムがこれほどの大指揮者になることを予見した人がどれだけいたでしょうか。1984年に吉之助はパリ管弦楽団と共に来日したバレンボイムを聴きました が、その頃も既にバイロイトにデビューしていたわけですが、それでもまだ「ピア二ストとしての活動の傍らでよくやるわい(もっとピアノに専念してくれないかな)」という感じであったと思います。それが21世紀に入ったらもう押しも押されぬ大指揮者です。ピアノと交響曲とオペラのすべてにこれだけ高水準の演奏を提供し続ける演奏家がかつていたでしょうか。現在のエネルギッシュな活躍ぶりには感嘆する他ありません。
2月20日・サントリー・ホールでの演奏会は、バレンボイムの卓越した音楽性を再認識する機会となりました。モーツアルトのピアノ協奏曲第23番はバレンボイムの弾き振りによるもの。オケは最近よく聴く・ちょっと軽めの響きではなく、低重心でやや暗めの厚い響きです。バレンボイムのピアノもこれもやや暗く重めの・内省的な響き で、これも良い。しかし、全体的に若干テンポが早めの感じがしましたねえ。もう少しテンポを遅くじっくり旋律を歌わせてくれれば、この曲のメランコリックな側面が生きた気がしますが。そこはちょっと残念でしたが、それにしても素晴らしかったのはアンコールの2曲、モーツアルトのピアノ・ソナタ第10番の第2楽章と第3楽章でした。今回来日公演でのバレンボイムはどの曲 においても緩徐楽章が実に息が深いことに感心させられましたが、この第2楽章も内省的で息の深い歌い廻しが実に見事なものでした。もしかしたらロマンティックな演奏という形容がよりふさわしいかも知れません。ちょっと昔風のモーツアルト だと言えると思います。観客の途切れない拍手に即された感じで弾いた第3楽章もひとつひとつの音符を大事にした演奏で朴訥な感じなのですが、旋律が素直なだけに美しさがビンビン心に響いて来る感じで、イヤ正直なところモーツアルトのソナタでこれほど感動させられたのは久しぶりのことでした。これからはピアニストとしてのバレンボイムの成熟にも注目して行きたいところです。
モーツアルトにメロメロになったまま休憩後のメイン・プロのブルックナー:交響曲第9番に入ったせいで、後半の吉之助はもう完全にバレンボイムに打ちのめされた 気分になりました。これは第9番が緩徐楽章のアダージョで終わっている(未完)のせいもあったと思います。それほどまでにバレンボイムの振った第3楽章は素晴らしかったのです。じっくりしたテンポで歌い上げる旋律から濃厚なロマン性が渦巻くようでした。吉之助が滅多に使わない表現ですが、「神々しい」という言葉を使いたくなる演奏でした。それにしてもブルックナーは何と云う巨大な第3楽章を書いたのでしょうかねえ。この楽章に相応しい第4楽章なんかあるのでしょうか。やはりこの曲は未完になるべくして・そうなったのだという感じがします。曲が静かに終わった時はもう動けない感じで、しばしホールが鎮まり返りましたが、この日はフライング・ブラボーもなく行儀の良いお客さんばかりでしたねえ。(最近はマナーの悪い客が多くて困るんですよ。)ベルリン・スターツカペレもこれがブルックナー・チクルスの最終日であったせいか・もう出力全開という感じで、第2楽章ではバレンボイムがオケをかなり煽る場面もありましたが、オケはとても良く鳴っておりました。バレンボイムは細部では曲想に応じてテンポを微妙に伸縮させていましたが、その変化もあざとくなく・スケール大きく仕上がりました。これは吉之助がこれまで聴いてきた演奏会のなかでも、ちょっと忘れがたいものになりました。ホント有難うと言いたい気分でしたよ。
(H27・2・26)