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リッカルド・ムーティ指揮シカゴ交響楽団来日公演2016


日本のクラシック音楽ファンは好みがヨーロッパの演奏家に偏りがちのようです。クラシック音楽はヨーロッパが本場だというイメージが根強いのでしょう。このためアメリカ系の演奏家は人気がいま一つ盛り上がらないようです。レコードの売り上げもカラヤンとバーンスタインでは比較にならないほどの差があるそうです。(音楽家としての評価とは無関係であることは言うまでもありません。)非ヨーロッパ系で日本で非常な人気がある例外的な演奏家はグレン・グールドくらいのもので す。しかし、第2次大戦以降は、ビジネス面で云えば音楽の本場はむしろアメリカだと言うことは疑いありません。残念ながら凄まじい反対運動が起きたために破談になりましたが、もしフルトヴェングラーのシカゴ交響楽団音楽監督就任が実現していれば、日本のクラシック音楽ファンのアメリカ評価も だいぶ変わっただろうと思いますが。

かく言う吉之助も長らくベルリン・フィルとウィーン・フィル中心の音楽歴でした(これは吉之助がカラヤン崇拝なので何となくそうなったと言っておきます)が、もちろんアメリカのオケもよく聞きます。録音を聴いていると、これはベルリンもウィーンも敵わないなあと感じることはよくあることです。そのせいかカラヤン時代ならばいざ知らず 、吉之助もいろんなオケを聴いてだんだんベルリン・ウィーン偏重ではなくなって来ました。アメリカのオケは技術のレベルが違う。そう感じることはクリ―ヴランド管でもフィラデルフィア管でもあ ることですが、何と言っても凄いのがシカゴ 交響楽団であるのは疑いありません。金管の輝かしさは言うまでもないですが、木管のニュアンスの豊かさ、弦の滑らかさかなど言えば尽せません。そういうわけで、今回(2016年 1月)久しぶりのシカゴ響来日は大いに期待してました。しかも指揮者が円熟期のリッカルド・ムーティとなれば、 これは聴かないわけに行きません。

今回のムーティ指揮シカゴ響で言えば、例えばベートーヴェンの交響曲第5番「運命」はヨーロッパのオケと比べれば、渋くくすんだ・どこか湿り気を帯びた音色ではなく、どこまでもクリアに澄んだ明るい音色であって、精神性とか哲学性とか云う言葉を使いたがる向きはアッケらかんとして深みに欠けるということを言うかも知れぬとは思います。しかし、低重心で力強い響きはそのバランスにおいて理想的で、古楽器奏法の影響を受けて響きが軽くなったヨーロッパのオケ(これはベルリン・フィルなども含む)のベートーヴェンと比べても、吉之助にとっては昔懐かしい感じがして「こういうベートーヴェンが聴きたかったんだ」という思いがするわけです。もちろんそこにはヨーロッパ(イタリア)からムーティが持ち込んだものがあるにしても、鳴るべき音がそのように鳴ってさえいればそこに正しいフォルムが現出するんだという当たり前のことが思い出されます。

このことはマーラーの交響曲第1番「巨人」やチャイコフスキーの交響曲第4番であるともっと明確に分かります。シカゴ響は排気量が大きくてサスペンションの効いた最高級車のようなもので、高速で走ってもエンジンが唸る感じがまったくないのですねえ。スーッと滑るように走って揺れをまったく感知させません。どんな早いテンポ・難しいパッセージでも涼しい顔をして弾いていて、息が荒く熱くなるということがない。シカゴ響というのはまったく次元が異なる凄いオケだなあと感嘆されられます。下手をすれば派手に鳴りまくって騒がしいだけの音楽になりそうなところですが、決してそうさせないところがムーティの手腕ということかと思います。結局、楽譜が要求するところの音符がその通りに思いっきり鳴っていることの爽快感に打ちのめされたと云うか、「あっぱれじゃ!」という満足感に浸れたのは、実に久しぶりのことでありましたね。

(H28・1・31)


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