ラース・フォークト・ピアノ・リサイタル2015
一般的な音楽史では、シェーンベルクやウェーベルンのような十二音音楽・いわゆる無調音楽は、バロック音楽時代に確立された調性音楽が古典派〜ロマン派と発展し試行錯誤を繰り返すなかで次第に行き場を失い、中心のない曖昧で不安的な響きを志向するようになる、つまり調整音楽が崩壊して行き着いた先が十二音音楽(調性音楽の終焉)であった という捉え方をされるわけです。しかし、吉之助はエウヘーリー・ドールスの「バロック論」を借りて、バロック的な要素と古典的な要素との「揺らぎ」と見ます。そのような視点からするとロマン派芸術は古典派の形式を崩していくことで表現の自由を得るかのように見えますが・次第にそのなかに隠れていたバロック的な本質が 露わに見えてくるという過程を経ることになるのです。つまり、後期ロマン派・いわゆる19世紀の世紀末美術はロマン的表現手法の行き詰まりなのではなく・ロマン的表現のなかのバロック的な本質が露呈したという風に見ることができると考えます。つまり吉之助は十二音音楽をバロック的要素が非常に強い音楽 だと捉えるわけです。(これについては別稿「かぶき的心情とバロック」を参照ください。)
エウヘーリー・ドールス:バロック論
そう考えるとワーグナーやマーラーの作品のなかに局所的に出てくる無調的な要素・あるいはリズム が喪失しているかに聞こえる箇所がフォルムの揺らぎ(局所的にバロック的な方向へ揺らぐ)としてスンナリ理解ができるようになります。何より大事なことはワーグナーやマーラーの先の、シェーンベルクやウェーベ ルンら新ウィーン楽派との精神的な連続性がつかめて来ることです。十二音音楽のなかに、調性を探し求める感覚・あるいは明確な旋律性を探し求める蠢(うごめ)きとして感じ取れるようになります。吉之助にとって新ウィーン楽派は長い間疎遠な存在でしたが、そのように考えるようになってから は、ゆっくりしたペースですが十二音音楽が吉之助の新たなレパートリーとなりつつあります。
このようなことを書いたのは、先日(6月29日)紀尾井ホールで若手ピアニスト・ラース・フォークトのリサイタルのプログラムで、フォークトがシェーンベルクの6つのピアノ小品・作品19を、シューベルトのピアノソナタ第19番とベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番それぞれの直前に拍手無しで二回演奏するという試みをしたからです。フォークト(プログラムの言)に 拠ると「こうすることでこれらふたつのソナタがどれほど幻想性に富んでいるかが実感できるはずだ」ということです。確かにとても興味深い試みでした。
シェーンベルクの6つのピアノ小品・作品19は長くても二十小節程度の短い曲が6つ連なったもので、吉之助は初めて聴きましたが、簡潔性と非連続性のなかに何やら俳諧のような「わび・さび」の世界が感じられて、 これをすこぶる面白く聴きました。断片の・調性もリズムもない霧のような音楽が拍手なしでシューベルトあるいはベートーヴェンに続くと、やもやしていた想念が、或るきっかけで突如形を成して・明確なリズムと旋律 が生まれるかの如くに聴こえます。ここではそれがたまたまシューベルトあるいはベートーヴェン であったということです。それはどんな形を取ることもできるのです。そう考えることで、シューベルトあるいはベートーヴェンの音楽のバロック的な側面を強く意識できることになりま した。それは一般的には革新性とか様式の破壊と云われるものですが、これがバロック性ということです。そのベクトルは新ウィーン楽派へ向かっているのです。
フォークトは久しぶりにドイツが生んだ俊英ピアニストとして今後が大いに期待できそうです。シューベルトもベートーヴェンも骨太い演奏で立派なものでした。吉之助にとっては、シェーンベルクが俳諧に聞こえたところに新ウィーン楽派がだいぶ親しくなってきたことが実感できて嬉しかったですね。
(ちなみに6月29日・紀尾井ホールでのプログラムは以下の通りでした)
- シェーンベルク:6つのピアノ小品 Op.19
- シューベルト:ピアノ・ソナタ 第19番 ハ短調 D958
(休憩)- シェーンベルク:6つのピアノ小品 Op19
- ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111
(H27・7・20)