実事役者・初代白鸚
*本稿で幸四郎とあるのは現・九代目、吉右衛門とあるのは初代を指します。
初代白鸚(八代目幸四郎)が亡くなって・早いもので今年(平成20年)で二十七回忌になるそうで、2月には歌舞伎座で追善興行が行なわれました。白鸚を名乗っていた時期が短かったせいもあり・吉之助は八代目幸四郎と言った方が実感がありますが、本稿では白鸚と呼ぶことにします。吉之助は白鸚にはどうやら間に合って・幸いその主要な役どころを生(なま)で見ることが出来 ました。白鸚は見た目も重厚で・スケールの大きい時代物の座頭格の役柄を得意としましたから、世間から「英雄役者」と呼ばれたものでした。確かに線が太く・大きいというイメージ がありました。しかし、今考えてみると英雄役者というのは白鸚という役者の本質を突いていない言い方だと吉之助は思っています。英雄役者という見方をされて・白鸚は損した面があったと吉之助は思っています。
まず昭和36年(1961)に松竹から東宝へ電撃移籍して物議を醸した件です。この時に東宝が欲しかったのは実は染五郎(現・九代目幸四郎)で・白鸚ではなかったことはどうやら事実ですが、菊田一夫はついに戯曲のなかで白鸚を生かしきれませんでした。その原因は白鸚を英雄役者として・スケールの大きい役柄を与えておけばそれで良いと菊田 一夫が単純に考えていたところにあったようです。白鸚の持ち味はその実直さにあるので・男臭く実(じつ)のあるリアルな役どころを演じさせればそれで良いのに、やたら主人公のスケール感にこだわって・そのため人物描写を空疎にしたところがあったようです。この辺の事情は千谷道雄氏の「幸四郎三国志」(文藝春秋)という本に詳しく書かれていますから、興味ある方は是非読んでみてください。(ただし古書店でないと手に入らないと思います。)
千谷道雄:幸四郎三国志―菊田一夫との四〇〇〇日
三島由紀夫の最後の歌舞伎作品「椿説弓張月」(昭和44年11月国立劇場)での主役・為朝で白鸚が成功しなかったことも同じような理由に拠るようです。吉之助はこの 初演の舞台を生では見てませんが、映像記録を見ると・何だか舞台で白鸚がその大きな存在を持て余しているような感じで気の毒に感じました。三島自身は為朝役に染五郎を強く希望していたようです。それが何かの理由で叶わず、国立劇場は恐らく 「弓張月」は時代物で為朝は英雄だという理由で、白鸚を為朝に当てたようです。世間の図式から見ればそういうことになるわけです。しかし、三島の「弓張月」の為朝にはそこに始めから願望が実現されないことを本人が 覚悟している悲壮感が必要で・こういう青白い輝きは白鸚にはないものでした。三島は白鸚が主役に決まった時点でやる気が失せたようです。これは白鸚に責任があるわけじゃないのですが、やはり白鸚は英雄役者というイメージのお陰で損をしたと思います。(後年の国立劇場での再演で現・幸四郎が為朝を勤めています。)
ですから白鸚はもちろんスケールの大きい役者ではありましたが、そのスケールとは形容の大きさを言うのではなく・内がぎっしり詰まった実質のあるところの重みの裏付けのある「大きさ」なのです。ですからやはり実事(じつごと)役者という表現の方が白鸚の芸風を表わすのにより適当であると吉之助は思います。そういう白鸚の良さが一番出ていたのはやはり「仮名手本忠臣蔵」の由良助 、そして実説であるところの「元禄忠臣蔵」の内蔵助で ありました。これは本物の・史実の内蔵助もこんな人物だったのかなあと思わせるものでした。誰よりもその人柄の重厚さを感じさせ、この人が「行け」というのならばそりゃ行かねばならないだろうなあと思わせる内蔵助でありました。いろいろな役者で見ましたが、この二役に関しては・吉之助はやはり白鸚をまず一番に思い起こします。同じことが「井伊大老」(北條秀司作)にも言えます。
もうひとつ・白鸚の映像を改めて今見直すと感じることは、歌舞伎ですから感情をあからさまに出すことはしなかったにせよ・歌舞伎の型のなか から感情を如何にして熱く表出させるかということを強く意識していた役者であったということです。それは眉の動き・眼付きに非常によく現れていて・白鸚は表情が驚くほどよく動 きます。これは由良助でも弁慶でもそうでした。時にそれが生(なま)に出て来てハッとすることがあります。むしろ現代の役者よりも表情豊かな感じさえします。こういうことはその当時に実際の舞台で見た時には遠くの客席から見ていたせいか・さほど強い印象として残っていなかったのですが、映像で確認すると「なるほどそうであったのか」と思うところが随所にあるのです。あるいは時間を置いたことで・その本質がはっきり見えてきたのかも知れません。しかし、白鸚にこういう生な印象が強いことは 、昭和40〜50年代の大幹部のなかでもちょっと特異であると感じます。歌右衛門を除けば・他の大幹部はそれぞれ持ち味が違うとは言え・概ね形から入っていこうとする傾向が強いように思われます。(現代の役者は形から入る傾向がさらに強いことは言うまでもありません。ただし、そのこと自体は悪いことでもなんでもありません。そういう方法論だということのみです。)白鸚にこういう生な感じが強いのは岳父・初代吉右衛門の芸風から来るものだと吉之助は考えています。吉右衛門の遺された映像を見ても・吉右衛門もやはり感情のリアルさを求めた役者であったからです。
このことは指摘しておきたいのですが、白鸚の長男・現・九代目幸四郎は感情表現過多で・演技がバタ臭いとしばしば言われます。これは幸四郎が新劇・ミュージカル畑の影響を受けているせいだと思われているようですが・必ずしもそうではなく、実は初代吉右衛門から白鸚に引いた線の延長線上にあるものだと吉之助は思っています。このことが白鸚の演じる由良助や弁慶の映像を見ていると改めてよく分かります。幸四郎の由良助や弁慶も親子だから似るのは当然とは言え 、白鸚の感情表現の細かいところを幸四郎はよく継いでいます。特に眉の動き・眼付きの変化です。ただし、白鸚の場合は思わず眉が動いてしまうという感じですが、幸四郎の場合は眉の動きで感情を表現しようと意識している感じがする点が異なっているかも知れません。恐らく幸四郎にお手本を「なぞろう」という意識がどこかにあるので・感情の表出ベクトルが逆に働いている部分があるのだろうと思います。型ものを演じる幸四郎の動きに乖離した印象を持つことがあるのはそのせいであると吉之助は考えています。その辺に現代の歌舞伎役者の「型」に対する芸の意識の違い・世代の違いが出ているのです。幸四郎は正統の意識がとても強い役者だと聞いていますが、幸四郎の自信の根拠がそこにあるのだろうし・それは故ないことではないと思っています。
いずれにせよ戦後歌舞伎における白鸚の本質は英雄役者ということではなく・その本質は実事にあり、白鸚の芸は初代吉右衛門と現・九代目幸四郎とを結ぶ線上において考えた時にその歴史的な位置を見出せると吉之助は考えています。
(H20・3・9)