十七代目勘三郎の熊谷直実
1)熊谷の「物語り」の構造
いつ頃のことか正確な時期が分からないのですが、初代吉田栄三が「熊谷陣屋」の直実役の人形を遣った時のことです。熊谷の有名な物語りの件において、熊谷直実が敦盛の遺言を語り出し「・・・と申し上ぐれば、御涙を浮め給い、父は浪濤におもむき給い、心にかかるは母人のおん事、昨日に変わる雲井の空・・・」という箇所の「母人のおん事」の時に、栄三は相模に向って直実の横目を引いてみせたと言います。それは武智鉄二に言わせれば「古典演劇を近代精神のなかでとらえ直そうという再検討運動の出発点にさえなったほどの影響を後世に与えた」と言います。それからは誰が直実の人形を遣ってもこの引き目をやります。
ご存知の通り、この熊谷の物語りは二重構造になっています。「物語り」は一の谷の戦いにおいて熊谷が敦盛の首を打ち落とす経過を語るものですから、この科白を敦盛のものと聞けば、父というのは宗盛・母とは藤の方のことを指しています。しかし「須磨の浦の場」で熊谷は実は我が子小次郎を打ったわけで(このことはこの時点では観客には明かされていない)、とすれば熊谷は「物語り」をしながら実は我が子の首を落とした情景を語っていると考えれば、父は直実自身・母は相模を指していることになります。熊谷は藤の方に話をしながら、「母人のおん事」のところでじろりと横目を遣って相模を見るわけです。
この熊谷の「物語り」ですが、実は梶原平次が敦盛の死を疑っておりその真相を探りに陣屋の奥の間に来ていますので、熊谷は藤の方に話をしながら梶原に対してわざと聞こえるように敦盛を討った経過を話しているのです。さらに奥では義経もまた熊谷の話を聞いています。したがって『熊谷の「物語り」は陣屋奥の間にいる梶原に聞かせる肚でやる』という口伝も昔からあります。この口伝から見ますと、栄三の型は「底を割っている(本心をバラして劇的効果を損ねている)」ということになるだろうと思います。
しかしここで「底を割る」危険を冒しても栄三が表現せざるを得なかった熊谷の心情ということを考えたいと思います。熊谷は藤の方に(あるいは奥にいる梶原に)須磨の浦での出来事を語ります。本当に討ったのは我が子小次郎であるにもかかわらず、この場では熊谷は討ったのは敦盛であると言い張らねばなりません。しかし横で聞いている妻相模がいる。相模は悲嘆にくれる藤の方に同情して泣いているが、やがて知れるが実は討ったのは我が子なのだ。「心にかかるは母人のおん事」、この科白を須磨の浦で刀を手にした父親を前にして小次郎が言ったに違いありません。「心にかかるは母人のおん事」、この時に熊谷の胸に去来するものは須磨の浦で彼が行なった事実であり、その時に熊谷は悔恨かあるいは憐憫か ・チラリと妻相模を見やるということになります。
確かにここで横目を引くのは「討ったのはホントは我が子なんだよ」と観客に示唆しているわけですから、これは「底を割る」行為には間違いありません。しかしそれでも、熊谷の心理からこの劇を読み返していった場合に、熊谷の父としての・夫としての心情を思えば「この場面の熊谷はこうでなければならない」という結論に、栄三は思い至ったということなのです。
2)人間味ある熊谷
さて前置きが長くなりましたが「勘三郎の熊谷」のことです。昭和59年(1984)1月歌舞伎座での「熊谷陣屋」の配役は、勘三郎の熊谷・歌右衛門の相模・梅幸の義経・芝翫の藤の方・仁左衛門の弥陀六という大顔合わせでありました。勘三郎にとってはほとんど十八年ぶりの久びさの熊谷です。時代物の熊谷は勘三郎にとって確かに本役ではなかったと思いますが、しかし、吉之助にとって勘三郎の熊谷は忘れ難い役のひとつです。なぜなら勘三郎の熊谷は、その「物語り」において熊谷が相模のことを気に掛けていることを他のどの熊谷役者よりもはっきりと見せた熊谷であったからです。
まず「物語り」の時に、熊谷は藤の方に心持ち向いた形で座り、相模へ一瞥さえしないのが通例です。勘三郎の熊谷は座る向きからして相模の方向(つまり熊谷から見て右手)の方へ通常よりも若干5度か10度くらい、これは3階席からでもはっきり分かるほどに向いていました。「物語り」の間も勘三郎は少し首を傾けてチラリチラリとしばしば相模の方へ視線を動かしているのがよく分かりました。これはちょっと視線を動かすのが多過ぎで、相模を気にし過ぎの熊谷ではありました。これだと「物語り」のスケールが小さくなってしまう感じもあったかも知れません。相模へチラリは一度だけ(「母人のおん事」の部分だけ)の方が効果的であったようにも思います。
しかしそれにしても情味のある熊谷であったと思います。人によっては「情味あり過ぎ・底を割っている」と言うでしょうが、いいんです。たしかに奥にいる梶原に聞かせる心だと口伝では言いますが声を張り上げれば良いという訳じゃない。声を張り上げなくたって梶原も一言も聞き逃すまいと耳をそばだてている訳ですから。まずは熊谷としては目の前の藤の方と妻相模を「物語り」でだまし通さねばなりません。それにしても横に妻がいるとどうしても息子のことがチラついてやりにくい、相模が不憫で仕方が無いという感じが勘三郎の熊谷にはありました。勘三郎の熊谷では相模の存在が非常に重要であると感じます。相模によって熊谷の悲劇がより一層浮き彫りにされるという感じがありました。(この時の歌右衛門の相模がまた良ろしかったのですが、これは別の機会に。)
幕外での引っ込みも同じく、息子を殺したことの我が身の定めにただ涙なみだの熊谷です。陣触れ太鼓が鳴ると、普通の熊谷ですとこれを耳にして思わず武者の心に返り勇み立つような感じですが、勘三郎の熊谷はその音に「あの忌まわしい思い出が蘇って」身震いするような感じがありました。そしてその涙を振り払うように花道を駈けるという引っ込みで、まさに「俗界から逃げ去る」と言った感じの引っ込みでありました。「泣き過ぎの熊谷」と言われれば確かにその通りではありましょう。しかし、ある意味では熊谷の心理にスポットを当てた団十郎型をとことん突き詰めて、その悲劇を現代的感性から読んでいけばこうなったというものを感じるのです。
勘三郎の熊谷のもうひとつの特徴はその顔から芝翫筋を取リ去ったことです。そのメーキャップについての意味は別稿「熊谷陣屋における型の混交」に記しましたからご参照ください。いかにも歌舞伎味があり武者らしいメーキャップを捨てて真実味のある実事のメーキャップに変える、これもまた団十郎型を突き詰めたところから発したものだと思います。こうした勘三郎の熊谷の役作りは、前述の栄三の「熊谷の横目引き」と同様の近代的精神から役を読み直す発想に基づくものだと思います。
この勘三郎の熊谷は世評では必ずしも好評というわけではなかったようです。ちょっとセンチメンタルな熊谷に過ぎて、勇壮な武将にはあまり見えないということであったろうかと思います。熊谷の「物語り」では、底を割っているということも言えましょう。しかし、そうした部分はまさに団十郎型が内面に含んでいる要素なのでして、勘三郎の場合はそれをはっきりと表面に出して見せたということで、 吉之助はこれを高く評価したいと思うのです。現行の団十郎型はまだ中途半端な部分を含んでおり、型として完成途上であるという感じがしてなりません。その意味では、むしろ勘三郎の熊谷は他のどの熊谷役者よりも団十郎型を突き詰めて人間味のある熊谷像を作り出していると積極的に評価したいと思 います。
勘三郎の頭の中には、あの当たり役であった兄である初代吉右衛門の熊谷があったと思います。吉右衛門の「熊谷陣屋」はもちろん団十郎型であり、近世歌舞伎の代表的な舞台とされたものです。勘三郎自身は熊谷を本役とせず、何度も演じたわけではありません。しかし、兄吉右衛門の熊谷のイメージが勘三郎の中で長い時間をかけて熟成しこのような形に変化したと、そんな風に感じられた熊谷でありました。
渡辺保:中村勘三郎
(H13・7・8)