(TOP)            (戻る)

五代目歌右衛門とその時代


1)五代目歌右衛門の淀君

平成12年(2000年)は五代目中村歌右衛門の没後六十年にあたり、早稲田大学内演劇博物館で関連の展示会が行なわれました。その関連企画として10月28日に、「五代目中村歌右衛門 芸と人」と題して中村芝翫家に遺されていた当時としては珍しい8ミリ・フィルムなどを見る講座が催されました。

このうち昭和9年4月歌舞伎座での「沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)」の糒庫(ほしいぐら)の場面の映像は、ごく短いフィルムながら歌右衛門の淀君の表情がアップでとらえられておりその芸の雰囲気を垣間見ることができます。「周囲を圧倒する威厳と存在感」と評された歌右衛門の淀君は当たり役でしたが、この頃の歌右衛門は鉛毒で身体の自由が利かなくなっていたので、初めから歌右衛門の淀君が舞台にいる特殊な演出になっています。また、同じ場面の録音(ポリドールのSP録音、録音時期不明)の一部が会場で流されましたが、このおかげで映像の印象が補強されてより鮮明なものになったと思います。

まず映像での歌右衛門で印象に残ったのは、その狂乱した淀君のひきつったような笑顔です。歌右衛門は精神病院を訪問し、意味もなく笑う狂った婦人の姿を観察して淀君の演技を工夫したと言われています。その演技は歌舞伎の女形の演技に「笑い」を導入したことでまさに画期的なことでした。

またSP録音での歌右衛門の科白まわしに強く感じられたのは、歌右衛門があまり声を作ろうとせずに無理せず自然な発声を心掛けているということです。もちろん女形ですから地声というより高い部分の声を使っているわけですが、現在の女形たちがどちらかと言えば喉を絞って高いか細い声を作ろうとしているのとは根本的に違います。喉を絞った発声に頼ると、どうしても科白まわしは間延びして不自然な抑揚がついたものになってしまいがちです。

歌右衛門の発声は無理がないのでその声はよく通り(従ってマイクがその声をクリアに拾っている)、またその科白まわしはスッキリとして写実で淀君の感情の高ぶりが直接的に感じられるように思われました。その表現と息は、むしろ歌舞伎というより新劇的な感じさえするほどでした。坪内逍遥の文体を理解しその新しいスタイルをよく自分のものにしており、これでこそ新歌舞伎だと感心させられます。

これと全く対照的なのが、氏家内膳を勤める七代目市川中車です。中車も口跡では定評のある人でしたが、ここでの内膳はまったく旧態依然の歌舞伎の科白術で処理されており、逍遥の新しいスタイルの文体を自分のものにしているようには思えません。その声の流れ(抑揚)は耳には心地よいものの写実にはほど遠く、意味のある科白として人間の生の感情を表現するには至っていないと思いました。


2)歌右衛門と富国強兵

フィルム上映に先立つ講演で評論家の渡辺保氏が「五代目歌右衛門の芸の背景には富国強兵という明治国家の目標があった」と言っていました。結論から申せばそれはまったく正解であると思います。時代を生きる役者の芸はその時代とは無関係ではなく、また歌右衛門は確かにその時代を象徴できるだけの名優でありました。しかし歌右衛門の芸のどこが富国強兵なのでしょうか。

淀君のような「おすべらかし」の役は江戸時代の歌舞伎にはなく、これは明治になって歌右衛門が創造した女形の役柄です。「歌右衛門は淀君や牧の方のような烈婦烈女によって富国強兵の時代にふさわしい女性像(軍国の母)を提示したのである」というようなことは本にも書いてあるし、それはそれで理解できます。あるいは、歌右衛門が九代目団十郎のあとをついで女形でありながら歌舞伎座の幹部技芸委員長として歌舞伎俳優の頂点に立ち、千駄ヶ谷御殿と呼ばれた大邸宅に住む豪奢な生活のイメージも「富国強兵」に結びつくのかも知れません。

しかし歌右衛門は淀君だけを演じたわけではなく、むしろ数多い古典の役々で同時代の女性たちの熱狂的な支持を得てきたのでしょうから、まず歌右衛門という役者の芸の姿・演技・科白のどこが「富国強兵」とつながるのかを考えてみなければならないでしょう。

もちろんこの淀君の断片的な印象だけで歌右衛門の芸を断じるわけにもいきません。しかし歌右衛門の芸を想像し考える手掛りはこれだけでも十分に得られます。「富国強兵」は歌右衛門のそのスッキリとして写実的な芸にこそあったのではないでしょうか。

当時の日本では歌舞伎はまだ娯楽の頂点にありましたが、同時にある意味で明治以前の江戸時代の名残りを強く残す古臭い演劇形態として否定され追われるべき存在でした。歌舞伎を時代と共に生きるものにしようとする試みは、黙阿弥の散切り狂言、九代目団十郎の活歴などでおこなわれましたが定着した流れにはなりませんでした。そして坪内逍遥に始まる新歌舞伎もそうした同時代の歌舞伎を創造する試みであったと思います。

そしてその中で名優たちはその登場人物たちに時代の空気を吸わせ、リアルな感情を吐露させようと努力してきたのです。五代目歌右衛門もそのひとりであり、歌右衛門の演じる役々、淀君だけでなくそれがお軽やお三輪・八重垣姫であっても、その女性像は明治に生きる女性たちを活写していたのです。同時代の女性たちを映し出した歌右衛門の芸が明治・大正という時代の「富国強兵」と結びつくのでしょう。


3)現代における五代目歌右衛門の意味

歌右衛門がまだ鉛毒に犯される前の若い頃の人気はいまも語り草になっています。「娘道成寺」を踊った時、白拍子花子が花道で口紅を拭いた懐紙を捨てますが、この懐紙を拾いたいばかりに花道七三のところの土間にプレミアムがついたという話が残っています。歌右衛門は人気だけでなく、もちろん九代目団十郎に見込まれその相手役に抜擢されるほどの実力を持っていました。

歌右衛門の時代には人々の服装も和装が多かった時代であり、歌舞伎はまだまだ最高の娯楽・最大の関心事として大衆と共にあったのでした。そうした時代においては、歌右衛門の写実の芸は創造的であり同時代的であり得たと思います。

このことは想像にすぎませんが、歌右衛門が九代目団十郎の死後に、七代目中車・七代目幸四郎・十五代目羽左衛門などといった団十郎門下を差し置いて歌舞伎界の頂点に立ったのは、もちろんその政治的手腕によるものですが、その政治的手腕も時代の流れを的確にとらえるそのセンスと嗅覚に負うところが大きいのではないかと思いました。その意味で五代目歌右衛門はまさしく明治・大正を象徴する名優であったのだと思います。

しかし現代の歌舞伎は、結局は時代の流れに取り残され固定化せざるを得なくなってしまいました。そのなかで歌舞伎における「芸の写実」のあり方も当然変化せざるを得ません。

歌右衛門が声を作らず地声で女性を表現できたことが今ではリアルだと感じられなくなってしまって、喉を絞って声に様式的なしなを作る方がリアルだと感じられる時代となったわけです。これを「歌右衛門が正しい、今の役者は間違っている」と簡単に言い切ってしまっては間違いでしょう。時代の流れにともなった美学の変化だと考えるべきでしょうが、しかし考えさせられる問題ではあります。

(H13・1・12)


 

 

(TOP)          (戻る)