過去の舞台映像を見ることの意義
「舞台映像(ビデオ)見ても・そこに演者の呼吸やタイミングなどは記録されていない」なんてことを言う方が未だにいるらしいことは、困ったことだと思います。まあ他人様のことはどうでも良いですが、そう仰る方は映像から呼吸を読もうとする気が端からないだけのことです。吉之助は映像から演者の呼吸を読むことは出来ますから、批評の材料に映像を積極的に取り入れています。「十八代目中村勘三郎の芸」は勘三郎の舞台映像を改めて見直して書きましたが、吉之助も故・勘三郎を約40年見てきたのだから、記憶だけで書いてもそれなりに書ける材料は持っています。 それでも「映像を材料にした解析」を全面に出したのは、生(なま)信仰の強い歌舞伎批評に一石を投じたいから、敢えてそうしたのです。生の舞台なら息が分かるけど、映像ではそれが分からないなんてことは絶対にありません。
八代目三津五郎が武智鉄二と一緒に、豊竹山城少掾の古い録音(古靱大夫時代)を聴いていて、「アッ、(相三味線の三代目)清六さんは息を詰めて弾いてはる」と叫んだそうです。これは別に三津五郎が名人だから録音を聴いても呼吸を読めたということではありません。自分の呼吸を音曲の呼吸に合わせて聴いてさえいれば、当然の如く分かることなのです。大正時代の・貧弱な音質の録音であっても、そういう情報はちゃんと入っているのです。自分の呼吸を対象の呼吸に合わせるなんて御大層なことに思うかも知れませんが、みなさんが好きな音楽を気持ち良く聴いている時は、みんな自分の呼吸が音楽の呼吸に合っている、だから気持ち良いわけですね。逆に言いますと、気持ち良くない場合は、何かの理由で自分の呼吸が対象の呼吸に微妙に合わないわけです。その呼吸が合わない理由を自分のなかで突き詰めて行くならば、批評が書けます。その理由を突き詰めないで「気持ち良い・気持ち良くない」だけで終わるならば、それはただのご感想です。批評と感想の違いは、そこだけです。
最近の役者さんの間では、過去の先人の映像をポータブル・ビデオなどで再生して台詞や動きを参考にするという方が増えているようです。それをとやかく言う人がいますが、漫然と見て手順だけ を真似るのなら、確かに効果はないでしょう。しかし、それならば舞台袖で芝居を見ても同じことです。(そう言えば黒衣も着て袖で先輩の舞台を見て学ぶなんて風景は近頃あまり見掛けないようであるが。)しかし、自分の呼吸を対象の呼吸に合せることが出来るならば、 効果は確実にあるのです。昔ならば、御曹司は芝居を良く知っているお弟子さんなどに教えてもらえて・駄目出しもしてもらったわけでしょうが、今の御曹司はそういう人がいないのだから、 現代においては伝統を継ぐということも孤独な作業であるなあと思います。吉之助は、残念ながら、伝統芸能は過去の名人の映像や音源を頼りにして芸を取っ掛かりを自ら求めて行かねばならない時代に入ったと思います。これは鑑賞する側にとっても同じことで、だから過去の映像が、ますます大事になってくるのです。とにかく大事なことは、自分の呼吸を対象の呼吸に合せようとする気持ちです。
故・十二代目団十郎がテレビのインタビュー番組でこんなことを語ったのを見て、えらく驚いたことがあります。十二代目が初役で助六を勤めることになった時、助六の出端の踊りの振りが分からない。父親(十一代目)はとっくに亡くなっていて、教えてくれる人がいない。それで途方に暮れていたら、誰かが十一代目の舞台の8ミリフィルムを探して来てくれた。それで動作は分かったが、音声がないので今度は振りの細かいところが分からない。それでまた困っていると、しばらくして、NHKに十一代目の舞台映像が音声付きで残っていることが分かって、それで事なきを得たと、十二代目が笑って 語ったのです。
多分十二代目団十郎は冗談っぽく面白おかしく脚色して語ったのだと信じますが、吉之助が驚いたのは、元禄から続く市川宗家に助六の出端の踊りの記録が何もないらしい?十一代目が亡くなったら周囲にそれを知っていて教えてくれる者が誰もいないらしい?というお寒い現実を知ったということもあります(イヤ伝統芸能というのは危なっかしいところに立っているものだね)が、もっと驚いたのは、十一代目の舞台の8ミリフィルムでは「音声がないので振りの細かいところが分からない」と十二代目団十郎が笑って言ったことです。助六の出端の河東節は分かっているのだから、8ミリフィルムを見て想像すれば、振りの息は分かるはずではないのか。これで分からないのなら、振り付け帳を見ても踊りが分からないのではないか?音曲の呼吸から想像するならば、音声がない8ミリフィルムを見ても舞台の息は推測出来るはずではないか。十二代目団十郎さんも悪い冗談はやめて欲しいと思います 。
そういうわけで、あの十二代目団十郎の・・ということは必然的に現在の十一代目海老蔵もそういうことになるわけですが、もしNHKに十一代目の舞台映像が音声付きで残っていなければ、助六の出端の踊りの振りが、今とは全然違ったものが出来ていたかも知れないと云うことを想像してみると、ちょっとゾッとして来ませんか。(H26・4・6)