「マネジメントの父」が愛した水墨画〜ピーター・ドラッカー・コレクション
「現代経営学・マネジメントの父」とも呼ばれた経営学者ピーター・ドラッカー(1909〜2005)は日本でも多くの読者を持っています。吉之助もビジネスマンですからもちろん名前はよく知っていますが、時間もないので・あまりドラッカーの本を読んだ記憶がありません。そんなところで先日Eテレの「日曜美術館」の「日本美術へのラヴレター」という番組で、現在千葉市美術館で開催されている「ピーター・ドラッカー・コレクション展」の紹介をしていて、ホウと思ったわけです。「またいつもの日本好きの外人の収集か・・」と思って見ていたら・どうしてそんなものではなく、ひとつの明確な審美眼によって或る線で選ばれているのが明らかなものでした。それでも普通の美術通 の収集なら「大したものだなあ」で終わるのですが、これが「マネジメントの父」のドラッカーの収集であるので、吉之助もちょっと興味を持って展覧会を見てみようかということで千葉市美術館まで行って来ました。
若い頃のドラッカーは仕事に疲れるとしばしば美術館へ行って水墨画に見入っていたそうです。ドラッカーは「正気を取り戻し、世界への視野を正すために日本画を見る」と言ったそうです。吉之助も現役ビジネスマンですから販売計画やらで日々頭を痛めていると、日常でない世界へ逃避したくなる気持ちはまあ吉之助にも分からなくはない。ドラッカーの気持ちはそういうことなのでしょうか。そういう側面も確かにあっただろうと思いますが、ドラッカーほどの人が水墨画は私生活の楽しみで・経営学は仕事であると 分けた思索活動をするはずがない。そこには何かの関連が生じるに違いない。これは吉之助が自分と照らし合わせてそう云える。ドラッカーの水墨画好きが何かの形で彼の現代経営学のなかに反映しているに違いないと、吉之助は思うわけです。特に室町期の水墨画や江戸期の禅画や南画の画家たちの感性と、現代日本の代表的な経営者たち、たとえば井深大や本田宗一郎・松下幸之助といった偉大な経営者たちの感性との間に、精神的な連続性を見出さないはずがない。それはドラッカーの経営モデルにどんな影響を及ぼしただろうかと考えます。これは非常に興味深いテーマで、吉之助はそういうことがやたらと気になります。残念ながら今の吉之助には改めてドラッカーにまで手を伸ばす余裕がありません。しかし、御専門でドラッカーを研究されている方はそういうことに少しでも思いを馳せて欲しいと思います。きっと面白い材料が見つかるに違いありません。
ドラッカーは膨大な著作をものしてますが、そのなかに日本美術に関する文章はほとんどないようです。「すでに起こった未来〜変化を読む眼」という論文集の第11章に「日本画に見る日本」という文章がありますが、この他には、今回の展覧会目録に収められた講演録・文章くらいしか目立ったものはないようです。大学で美術の講座を持ったこともあるようですが、基本的には自分の水墨画好きをあまり語ることをしなかったようです。その態度も謙虚なコレクターに徹していて好感が持てるところです。
ピーター・ドラッカー:すでに起こった未来―変化を読む眼
展覧会での展示された水墨画などを見ますと、ドラッカーが自らの審美眼で選び抜いた作品ということで、そこに確かな一貫性があって、そこにドラッカーの人柄というものが出ているのでしょう。たまたまでしょうが、今回の千葉市美術館ではドラッカー・コレクション展と並んで「歴代館長が選ぶ所蔵名品展」というのがありまして、そちらの展示室に入ると目に入いるのは写楽・広重・北斎といった浮世絵版画群で、吉之助が思わず口から出たのは「ホッとするなあ」という言葉で、いやドラッカー・コレクションがホッとしなかったというわけではないのですが、ドラッカー・コレクションには多くの外国人収集家が嬉々として買い漁る浮世絵群がばっさり抜け落ちている(ドラッカーは浮世絵には大きな関心を示さなかったらしい)ということに、改めて思い至りました。つまりその辺にドラッカーの審美眼を考える取っ掛かりがあるでしょう。
もうひとつは吉之助自身のことで、浮世絵の展示室に入って思わず「ホッとするなあ」と呟くところに、サイト「歌舞伎素人講釈」の主催者たる所以が見えるということでしょうかね。吉之助はやっぱり俗人なのだろうと思います。まあ水墨画が高尚趣味ということは決してないのですが、ドラッカーの集めた絵の作者はみな隠者(世捨て人)なのであって、つまり俗世から離れて・世の中を一歩離れたところから見ている人たちであって、彼らは束縛から離れて真の自由人であるということは確かに言えます(ドラッカーの数少ない日本画についての文章を読んでもそういうものに対する憧れが非常に強いようです)が、世を拗(す)ねるというか・俗世を見下ろしている感じもなくはなく、まあ吉之助にとっては浮世絵の方がやっぱり自分の目線であるということが言えそうです。
たとえばドラッカー・コレクションのなかの若冲を見てもその凄い抽象性と斬新性に驚かされますが、そういうものは同時代の・俗気がある浮世絵にも共通してある要素なので、吉之助はこれまで北斎と若冲を分けて考えたことはなかったのだけれど、なるほど隠者の美術という線の引き方があるのかもなあと思いました。ドラッカーは隠者なのかも知れませんね。もちろんこれもひとつの審美眼としてあることです。吉之助はそこまで隠者にはなりきれません。
ところでドラッカー・コレクションは、静謐な雰囲気を湛えているものが多いようです。静かな想念を引き起こす作品が多くて、動的な作品が少ないと思います。そこでドラッカー・コレクションのなかではちょっと異色に思われる、吉之助にとっては動的な音楽的な感覚を引き起こされる作品を三つ挙げておきます。逆に言うと「この作品を選んだ時のドラッカーは気分がいつもと違ったのでないかな」と思える三つです。(画像をアップしてお見せできないのが残念です。)
ひとつは、鎌倉時代の「二十五菩薩来迎図」(筆者不明)で、菩薩たちがゆっくりゆっくり踊りながらこちらへやってくる光景が描かれています。この動的な感覚は平安時代の仏画にはないもので、鎌倉期であることを考えれば菩薩が念仏踊りを踊っているかに見ても良いでしょうかね。妙なる楽の音が聞こえてくるようです。
江戸期の谷文晁の「月夜白梅図」も素晴らしい。夜間の月明かりに照らされた白梅を描いています。これにも音楽性を感じます。樹木から想念がジワジワと湧き上がって来るようです。ちょっとたじろいでしまう妖気を感じます。これにはじっとしていられないものがあります。
江戸期の長沢芦雪の「娘道成寺図」は、「歌舞伎素人講釈」をやっている吉之助ならば取らずにはいられません。解説では「鐘が少し上がって変身した蛇体の着物の端がチラリと覗く瞬間を描いている」ように書かれていますが、踊り手が鐘のなかに吸い込まれるように宙に浮いて描かれてますから、これは白拍子花子の上に鐘が落ちて来る瞬間を描いていると思います。
ところで絵を見る時に展示ケースのガラスに鼻を付けるように絵をご覧になっている方ばかりでしたが、それでは筆のタッチは観察できても、絵の良さは分からないと思います。そんな距離で見たら若冲なんてただの刷毛の跡です。掛け軸が床の間に飾ってあるイメージで3メートルほど離れて見た方が良ろしいかなと思いますね。
千葉市美術館
ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画
「マネジメントの父」が愛した日本の美
2015年5月19日(火)〜 6月28日(日)(H27・6・13)