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バーンスタインの陽と陰


レナード・バーンスタイン(1918〜1990)と云えば、20世紀後半の重要な指揮者であり、「ウェスト・サイド物語」などの作曲家でもありますが、同時に音楽の啓蒙普及・解説の方でも多大の功績がありました。テレビ放送での「オムニバス」(1954〜58年にかけて断続的に放送)、「ヤング・ピープルズ・コンサート」(1958年〜73年にかけて断続的に放送)などの番組はクラシック音楽の堅苦しいイメージの解消にずいぶん役立ちましたし、そこから音楽に興味を持った人も多かったと思います。もちろん吉之助が日本でこれらの映像を見ることが出来たのはかなり後になってからのことでした。番組はかなりの時間と手間を掛けてシナリオを練り上げたうえで制作されています。この頃のレ二ーは、親しみやすくって、カッコ良くて、確かに戦後アメリカの良いところのイメージを体現している感じです。例えば「ヤング・ピープルズ・コンサート」の第1回「音楽って何?(What does Music mean?)」(1958年)で、バーンスタインがチャイコフスキーの交響曲第4番・第1楽章の展開部を子供たちを相手に解説しているのが次の映像です。

バーンスタインが”I want it, I want it・・”(お願いだ、お願いだ・・)と歌うこの映像は、とてもインパクトがあります。チャイコフスキーのこの旋律が秘めた情念はまさにそういうものであったかと 感じ入ります。純器楽の旋律に言葉を付して解説することはひとつのイメージに決め付けてしまう危険があるのであまりお薦めは出来ないと思うけれども、ピッタリとはまった場合には何とも説得力があります。しばらくの期間、吉之助はこの曲のこの箇所を聴く度に、バーンスタインの”I want it, I want it・・”という声が頭にちらついて、とても困った記憶があります。

音楽家バーンスタインを語る時に、音楽啓蒙の功績は必ず言われるところですが、おかげで巷間のバーンスタインのイメージは、身体いっぱいに音楽の喜びを表現して、いつもエネルギッシュで親しみやすくって、芸術だからと言ってお高く止まったりしない、まさに「アンクル・レ二ー」という感じなのです。何たってあのミュージカル「ウェスト・サイド物語」の作曲家でもあります。マスコミの喧伝するところはそういうところばかりであったので、それでバーンスタインは得した面もありますが、軽く見られるところもあって損した面もあったかも知れません。実際、バーンスタインは紹介される冒頭で毎度「ウェスト・サイド物語」の作曲者と言われることをとても嫌がったそうで、ホントは自分はシリアス・ミュージックの作曲家なんだと言いたくて仕方なかったようです。

バーンスタインにそのような陽の部分は確かにあったと思いますが、誰にだって陰の部分があるものです。そのようなバーンスタインの影の部分を見せたのが、下の映像です。1973年にバーンスタインが母校ハーバード大学で行なった公開講座は映像に収められていますが、「ヤング・ピープルズ・コンサート」で見せた親しみやすいレ二ーの姿は ここにはまったくなく、学生に理解し易く・面白く話そうなんてことは全然考えていないので、驚かされます。ひたすら理屈っぽく・観念的で・執拗で、おまけに暗い講義なのです。次の映像は「音楽的音韻論(Musical Phonology)という難しいもの。音楽的音韻論って何だ?これは日本語字幕付きでないと、どうにもなりません。

ハーバードの連続講義(6回)はテーマも、音楽的音韻論・音楽的統語論・音楽的意味論・・・などと、何だか取っ付き難い。この講義を聴くにはなかなか忍耐が要りますが、付き合う価値はあります。それにしても、「いつもの通り音楽を交えて楽しくお話しして下さい」と言いたくなりますが、講義を聞きながらだんだんと分かって来ることのひとつは、どうやらこの根クラの方が、バーンスタインのホントの素顔であるらしいということです。こういう小難しいことをいつも考えていた人なんだなあということが、よく分かります。やっと摑んだ何かから「ヤング・ピープルズ・コンサート」 の為のエキスがヒョコっと出てくるのでしょうねえ。ちなみに、このハーバードの講義のなされた1973年前後の数年というのは、改めてバーンスタインの生涯を俯瞰してみると、彼のキャリアのなかの停滞期・あるいはスランプ時期と云ってよい時期でして、この理屈っぽい講義はそのようなバーンスタインの当時の欝的な精神状況を反映しているようにも思われます。

このようなことを思ったのは、最近、バーンスタインの死の一ヶ月前のインタビュー本(ジョナサン・コット著:「レナード・バーンスタイン、ザ・ラスト・ロング・インタビュー」)を読んだからです。吉之助が読む限り芸談として は特に目新しいことはないのだけれど、バーンスタインの人となりが良く出ているインタビューだと思います。かしこまった問答ではなく、ディナーを交えた長時間の雑談なので、そのようなレ二ーの 多面体的な人間性が巧く引き出せたと思います。上記の理屈っぽく観念的なバーンスタインのことを念頭に入れておけば、その面白さがよく分かると思います。興味深いのは、話題が多方面にあちこち飛ぶことです。話題が豊富・知識が豊富ということもありますけれど、レ二ーという人はこういう場面での長い沈黙が苦手なのだろうと感じます。こういう時に黙りこくってしまう人と・やたら能弁になる人がいますが、バーンスタインは明らかに後者です。あれこれ話題を出して沈黙を埋めようとする。よく言えばサービス精神旺盛、逆に云えば、人に厭な顔されるのが怖いから決して人をそらさないのです。そこにバーンスタインの敏感な・傷つきやすい繊細な神経から来る心遣いが感じられます。この時のバーンスタインは若干躁的な感じですね。

これは、吉之助は、昨年亡くなった十八代目勘三郎にも同じような印象を持っています。インタビューでも勘三郎も決して人をそらしませんでした。表面は明るく冗談 ぽく・元気いっぱいに振舞っているけれど、勘三郎は意外と理屈っぽくて根クラな人だなという感じを吉之助は持っているのです。これは勘三郎の舞台をずっと見続けてきて、吉之助が持っている印象で、一般に云われる勘三郎のイメージと吉之助のそれとはかなり異なるかも知れませんが、特に芸術家というものは陽の側面だけでは良い仕事は決して出来ないと思っています。

ところで、バーンスタインは、ヨーロッパ・コンプレックスが結構強かったように思いますね。バーンスタインが初めてウィーン・フィルを振った時のリハーサルで、バーンスタインは開口一番、「モーツアルトはあなた方の音楽です。私はあなた方からモーツアルトを教えてもらうためにウィーンに来たのです」という意味のことを言ってウィーン・フィルの楽団員の心を摑んだのですが、これはまんざら社交辞令というわけでもなかったのかも知れません。晩年のウィーン・フィルとの一連のライヴ録音はもちろん悪くない演奏なのだけれども、こういう重厚な巨匠然とした演奏を何もわざわざバーンスタインで聴かなくても・・・などと思ったものでした。あまりかしこまらないで、もうちょっとフレッシュな魅力を発散してくれても良かったという気がしました。晩年のバーンスタインの演奏スタイルは、テンポが遅くゆったりとした巨匠風スタイルで、若い頃(60年代)のキビキビして生きの良いスタイルとは一変していて、これは音楽ファンの間でも好みが分かれるところです。吉之助の場合も、どちらかと云えば、若い頃のバーンスタインの方を評価する方ではあります。それは兎も角、吉之助の数少ないバーンスタイン生体験は晩年のもので、1985年9月イスラエル・フィルと来日した時の演奏ではブラームスの第1番の方はあまりにテンポが遅く間延びがして退屈に感じたものでしたが、同じ時のマーラーの第9番は実に素晴らしく、これは今でも吉之助の大事な思い出のひとつです。

(H25・10・15)


 

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