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音楽・演劇における基調のテンポ

*本稿は「吉之助の音楽ノート・リスト:ピアノ・ソナタ・ロ短調」としてもお読みいただけます。


○音楽・演劇における基調のテンポ・その1

NHK教育テレビで放送(平成18年秋)の「スーパー・ピアノ・レッスン」が面白くて・毎回見ています。10月はドイツ・ロマン派やフランス近代楽派を得意にするピアニスト・ミッシェル・ダルベルト氏によるリストのピアノ・ソナタロ短調のレッスンでした。とても充実したレッスンで、ピアノを専門に勉強する音楽学生だけでなく・一般の音楽ファンにもとても役に立つ番組に仕上がっています。(なお11月は同じくダルベルト氏によるシューマンの「謝肉祭」で・これは吉之助の大好きな曲なので・これも楽しみです。)

リストのロ短調ソナタは技巧的に難しいということもさることながら、曲想がバラエティに富み・構成が非常に難解です。曲は四つの楽章から成りますが、楽章は切れ目なく演奏され・全体でひとつのソナタ形式を成すと考えても良いわけです。ソナタ形式を逸脱したところの・幻想曲(ファンタジー)としてもう少し自由な形式として解釈することも可能ですが、リストがあくまでこの曲を「ソナタ」としたことは重視せねばなりません。この作品はとにかく統一感を持つ演奏をすることが至難で、うかうかするとバラバラの印象を与えかねません。

生徒のフランソワ君は優秀な学生ですが、ダルベルト先生はなかなか鋭い指摘をしますね。ダルベルト先生がお手本で生徒と同じ部分をさらってみせると・その演奏がまるで見違えるような骨格の明確な音楽で・音のひとつひとつの陰影がはっきりした立体的な響きなのです。これはフランソワ君が下手ということではないのです。ただフランソワ君は曲想の変化を気分で・色合いの変化として捉えようとする傾向があるようで(ペダルを使い過ぎのような気もします)、局面は見ているのですが・曲全体を見通す一貫した筋のようなものが若干弱いようです。言い換えるとスクリーンに映る映像のような感じで・実体が乏しいように聴こえるわけです。しかし、レッスン聴いてますと第4回目辺りからフランソワ君の演奏が変ってきて・音楽がしっかりしてきたのがはっきりと分かって・ダルベルト先生も嬉しそうでしたね。

ダルベルト先生が頻繁に指摘したのはテンポの問題です。「なぜ君はそうしばしばテンポを変えるのかね」、「どうしてこの旋律をふたつのテンポで弾くのですか」という具合です。曲の中間部をレッスンしていた時に、ダルベルト先生が突然「曲の最初の部分を弾いてごらん」と言いました。フランソワ君が弾いて見せると「冒頭部の指定はレント・アッサイ(非常に遅く)ですね。中間部のこの部分の指定はクワジ・アダージョ(アダージョに近い速さで)ですよ。それが君のテンポでは大体同じなんですか。」 この指摘にはフランソワ君もギャフンでしたね。つまり、細部の構築にこだわっているうちに、建築で言えば・気がつけば主柱が曲がってついていたというようなものです。

特に重要なのは左手の使い方であったかも知れません。通常は右手が主旋律を受け持ち、左手はその伴奏と言うか・基調になるリズムなど音楽の骨格の役割を受け持ちます。ダルベルト先生が弾くと、旋律の対位法的構造がはっきりわかって・主旋律の線が浮き上がって来て・音楽に立体感が生まれてきます。基調になるテンポが常に意識されているので、ある部分でリズムが微妙も変化しますと・空間が一瞬ふっと揺らめくように感じられます。つまり、リズムの変化の妙が際立つのです。(注:音楽でテンポあるいはリズムと言う時はほぼ同じことを指していると考えて良ろしいです。ただテンポと言う時は速度を意識し、リズムと言うと刻みを意識するという違いがあるかも知れません。

(H18・11・6)


○音楽・演劇における基調のテンポ・その2

ダルベルト氏がお手本としてさらって見せた断片の演奏で感心したのは、その断片だけを聴いても・それが全体のなかのひとつの一片(ピース)であることが明確に感じられることです。断片それぞれがひとつの線につながっていて、その位置に断片をはめ込めば全体にピッタリ納まるという感覚があります。つまり、全体の構成がはっきり見えていて・その確信に揺るぎがないということです。こういう感覚があるのは、曲の基調にあるテンポがはっきり意識されているということに他なりません。だから、ある曲想においてテンポを変えたとしても・以前のテンポに移った時に「戻った」という感覚があるわけです。

ここで音楽における基調のテンポについて考えてみます。このことは大脳生理学的に裏づけされます。例えば階段と言うと・普通は同じ高さの段差が続くものですが、実験で・ある段だけ例外的に何センチか高くする・あるいは低くするという細工をするとします。大抵の被験者がこの階段を上りますと・注意して足元を見ているつもりでも、蹴躓(けつまづ)くか・あるいは空脚(からあし)を踏んで転びます。これはどう言う理由であるかと言うと、大脳が階段の段差を最初の何段かで感知して・次の段はこの高さで続くという予測を無意識のうちにしているということです。だから、目で階段を注意して追っているつもりでも(つまり意識では分っていても)・大脳の予測(無意識の予測)と食い違うので・身体がうまく反応しないと言うことだそうです。

音楽のリズムでも同じことが言えます。音楽をしばらく聴いて・大脳はその音楽の基調になるリズムを感知し・次のリズムの打ちを無意識に予測しているのです。この大脳の予測に実際の演奏のリズムがピッタリはまれば・リズムは心地良く感じられます。しかし、ここで実際の演奏のリズムが突然リタルダンド(遅くなる)・あるいはアッチェレランド(早くなる)しますと、大脳の予測とこれが違ってきますから、この差異が不思議な心理的効果を生み出します。たとえばグッと深い情感に連れて行かれる 感覚がしたり、急きたてられて興奮に煽られる感覚が起きたりします。このような現象を効果的に聴き手に引き起こすためには、音楽の基調になるテンポをしっかりと聴き手の大脳に植えつけることです。

基調のテンポと言うことは構成が比較的単純な小曲であるとその効果はさほど明確に見えませんが、ソナタあるいは交響曲のような形式を大事にする作品においては基調のテンポを意識することは非常に重要なことになります。基調のテンポとは作品全体を貫くひとつの大きなテンポです。音楽の場合はそのひとつのテンポを見出すことが大事です。それは作品構造のバランスに関わる問題であることだからです。

基調になるテンポがしっかり見出されてる演奏はがっちりした古典的な印象を受けますが、あまりそれが強過ぎると枠にはめられた窮屈な感じになることもあります。がっちりした印象をあまり強く出さない演奏では呼吸が自由に感じられる利点もありますが・失敗すると構成が弱くダラダラした感じになります。そこの兼ね合いが難しいところです。

ダルベルト先生はリストのロ短調ソナタのレッスンの最後で「この曲は幻想曲のようにも取れますが・リストはソナタとして書いたのです・そのことを忘れてはなりません」と言っていました。このことは重要なことで、形式感のある曲を解釈する場合には構成を意識しながら・全体に枠をはめて行くようなことをしていく方がうまく行くようです。ダルベルト先生の模範演奏はそのことをよく教えてくれる演奏であったと思います。

一般的には構成ががっちりした曲ではリズムを自由に持つことに意識を持つ方がとうまく行く場合が多く、逆に構成が弱い曲の場合は基調のリズムをより強く意識する必要があるようです。組曲形式の作品・例えばシューマンの「謝肉祭」のように・小曲の断片が寄り集まって・モザイクのように大きなひとつの絵が現われるような作品においても基調のリズムを意識することが必要になります。しかし、全体から枠を強引にはめて掛かると自由度が損なわれてしまいます。そこが難しいところですが、これは前曲との関係(バランス)によって生まれてくるものでしょう。

別稿「芝居のバランスを考える」において、お芝居のバランスのことを考えましたが、大脳理論についてはまったく同じことが言えると思います。クラシック音楽を聴くことはバランス感覚の習得にとても役立つので・吉之助としては是非音楽を聴くことをお薦めしたいところです。

(H18・11・9)


 

 

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