女形
〜歌舞伎における「バロック的なるもの」・その1
*本稿は「バロック的なる歌舞伎・その4:永遠に女性的なるもの」の関連記事です。
別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎・その1・時代にいきどおる役者」において、歌舞伎400年の歴史のなかで・これが「節目」であったと思われる象徴的事件がふたつあったと書きましたが、そのうち・ひとつ目の「節目」が、寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止です。この節目において歌舞伎は女優を奪われ・写実の演劇であることができなくなりました。つまり、その時点で歌舞伎は理念上死んだのです。
*上の写真は六代目歌右衛門の「本朝二十四孝」の八重垣姫 。昭和を代表する名女形であると同時に、世間に女形芸を認知させた功績は計り知れません。明治以来絶えることがなかった「女形不要論」を封じ込めてしまったのは歌右衛門の功績であると言ってよろしいでしょう。この八重垣姫の袂の使い方をご覧下さい。姫の優美さと・殿御を思う気持ちが様式のなかに見事に表現されています。
週刊誌に「逆説の日本史」を連載中の井沢元彦氏は「かぶきは女性が始めたものにも係わらず・幕府の禁令によって女優というものが一切禁止されたために・男だけが演じるものになってしまった ・これほどの大変化は芸能史上他に例を見ない・制約があるがゆえに歌舞伎は最も日本的な芸能になった」と書いておられます。まったくご指摘の通りです。歌舞伎の変質においては「女優の禁止」こそが決定的な要因であって、他の要因は付随的なものだと言い切ってもいいほどなのです。もし女優が禁止されていなければ、歌舞伎は今のような形態の演劇では絶対にあり得なかったでしょう。「女優の禁止」とは歌舞伎という演劇にとってそれほどの大事件なのです。だから、歌舞伎の本質を理解するためには「女優の禁止によって・歌舞伎は一度死んだ」という認識から出発する必要があるのです。
女優を使うことができなくなってしまった時点で、創成期の歌舞伎は最初の目標であった「写実の演劇」を部分的にあきらめざるを得なくなりました。この「部分的に」というのが大事なところです。それ以後の歌舞伎においても、目指すところは「写実」 なのです。「かぶき的心情」において、自分が自分であること・自分の人生とは何かを写実に表現していこうということは、それ以後も歌舞伎の本質です。この点においては歌舞伎は何も変わっていません。しかし、歌舞伎の「表現の手法」は変わらざるを得なかったのです。(これについては別稿「女形の哀しみ」・「バロック的なる歌舞伎・その4:永遠に女性的なるもの」をご覧下さい。)
*左の写真は初代芳沢あやめ。初期の女形芸を代表する名優。初代藤十郎とともに写実の演技を志向した初期の歌舞伎において、あやめは「見も心も女性に成り切る」ことを目指しました。女形芸は女性の剽窃・模倣から出発したのです。芸談「あやめ草」 からそうしたあやめの血の滲むような努力が偲ばれます。
歌舞伎の女形は「女 」を表現するために独特の技法を編み出しました。身振り手振りを工夫して、「しな」を作ってみたり・内輪歩きをしてみたり、そういうことで「女」を表現しようとしました。しかし、それとてもやはり「女形の哀しみ」を形象化するものでしかなかったのです。それは「概念としての写実」・「気分としての写実」には違いないのですが、現実にはやっぱり「様式化」であり「反写実」であったのです。
*左の写真は、五代目岩井半四郎(杜若半四郎)。「目千両」と言われた美貌の女形で、悪婆ものを得意としました。半四郎は江戸歌舞伎の女形芸の完成期を代表する女形です。文化文政期にほぼ様式的な完成を見た女形芸は、さらに写実を目指して変化していきます。悪婆の「悪」とは本来の様式的な女形の感覚からすれば「あり得ない」要素を示すものです。いわば写実と反写実のズレを意識的に利用しようとするもの、それが悪婆の芸です。
歌舞伎の本質が「写実」を目指しているにも係わらず、その表現手段のある部分が「様式・反写実」になってしまったのです。この自己矛盾が歌舞伎の女形の独特の色合いと魅力になっているのです。もちろんそれは幾多のハンデ・障害を乗り越えてそれを克服してきた歴代の歌舞伎役者たちの苦労あっての賜物なのですが。
*写真は五代目歌右衛門の代表作「沓手鳥孤城落月」の淀君。坪内逍遥のこの作品は、明治後半の・すなわち幕府の女優禁止令ももはや過去のこととなり・歌舞伎が女形を守り続ける必要もなくなった時代の作品です。むしろ女形を守り続けることが「歌舞伎が時代遅れであることの証拠」であるとさえされた時代の作品です。
逍遥はもちろんそのことを意識して作品を書いています。そして演じる側も否応なしにそのことを意識せざるを得ないのです。もはや守り続ける名目がないものを守り続けるための「必然」を、明治から昭和の女形は常に自らに問わねばならなかったのです。
(H17・7・3)