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カラヤンの録音(1973年7月〜12月)

1973年夏:ザルツブルク音楽祭でオルフの「時の終わりの劇」の初演指揮。
1973年10月:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率いて来日公演。


 ○1973年8月28日ライヴ

マーラー:交響曲第5番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(ザルツブルク、ザルツブルク祝祭大劇場)

熱い演奏で、すべての響きが意味のあるメッセージとして聴き手に向かってくるような感じがします。ライヴだけに・確かにスタジオ録音とは違って音のズレなど感じなくはありませんが、それだけに音楽は熱く感じられます。カラヤンはマーラーの音楽の細部の心の揺れを真摯に描きだしています。そのテンポの微妙な揺れ、旋律に歌いまわしにスコアを入念に読み込んだカラヤンの眼を感じます。ベルリン・フィルの色彩感も素晴らしいと思います。第4楽章のアダージェットの弦の響きの繊細さは特に印象的です。明滅するような音楽の流れのなかにマーラーの心象風景を感じさせ、このアダージェットがあるからこそ圧倒的な第5楽章のダイナミズムが生きてくるのです。第1楽章前半はまだエンジン全開とは行っていない感じがありますが、曲が進むにつれて音楽は歩くなり、フィナーレは圧巻です。この演奏の頂点は第4〜5楽章であると感じますが、第2・3楽章の激しいリズムのオケの動きも印象的で、この交響曲の転回点としての意味を明らかにしています。


〇1973年9月ライヴ

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番

アレクシス・ワイセンベルク(ピアノ独奏)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(ベルリン、ベルリン・フィルハーモニー・ホール、ユニテル映像)

テンポをやや早めに取って、ともすれば甘くなり勝ちなラフマニノフの旋律をキリッと引き締めて演奏しているので、両端楽章は意外と骨太で古典的な印象に仕上がりました。ただ録音のせいもあると思いますが、ワイセンベルクのピアノがオケの響きに埋没する印象で、カラヤンのリードに終始する感じに聴こえます。圧巻はゆったりしたテンポで息長く旋律が歌われる第2楽章で、ベルリン・フィルの弦の夜曲風の静かで柔らかい調べに乗ったワイセンベルクのピアノの澄んだ響きが煌めくようで実に美しく、ここではワイセンベルクの美質が生きています。この楽章はロマンティックの極みです。カラヤンは旋律を心ゆくまで歌わせ、しかもベトつくような甘さをまったく感じさせない見事な棒さばきです。


○1973年10月26日ライヴ

ブルックナー:交響曲第7番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(東京、NHKホール)

まず感心させられるのはしっかりと刻まれる音楽の足取りの確かさです。テンポが揺れないので音楽に安定感があり、音楽に一本筋が通ったものを感じさせます。それがこの長大な交響曲の引き締まった古典的な印象を与えているのです。しかも旋律は実に伸びやかに歌われていて、刻々と変化する微妙な色合いの変化を繊細に描き出しています。ベルリン・フィルは高弦の澄んだ響き、金管の抜けるような輝かしさで、第1楽章はまさに晴天の空にそびえたつアルプスの高峰のような神々しさを感じさせます。第2楽章アダージョはじっくりしたテンポのなかに情感が溢れており見事な出来です。第3〜4楽章もベルリン・フィルの性能をフルに生かした演奏で、輝かしいフィナーレで締められます。


○1973年10月27日ライヴ−1

ドヴォルザーク:交響曲第8番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(東京、NHKホール)

まず感じられるのは交響曲らしいがっちりした構成感と重量感です。中間2楽章はちょっと重めの感じなしなくもありませんが、それより両端楽章のスケールの大きい音絵巻になっていて聴き応えがあります。真正面から交響曲作曲家としてのドヴォルザークのスタイルを追及したと言えましょうか。第1楽章の勢いがあって・スリリングな展開、第4楽章のリズムの乱舞などベルリン・フィルの合奏能力がフルに生かされています。第3楽章ではベルリン・フィルの弦の艶やかさが印象的ですが・決して甘くはなく、この交響曲の転回点たる位置を明確にしています。


○1973年10月27日ライヴー2

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」〜前奏曲と愛の死

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(東京、NHKホール)

出だしからベルリン・フィルの響きはまさにそのために創られたとさえ思えるほどにイメージピッタリです。その響きは艶やかではなりますが・渋く暗めの輝きを放っており、リズムはしっかりと刻まれ・骨格はしっかりしているのに、旋律はリズムを崩す限界までめいっぱい息長く歌われ、響きが充実しているのです。この曲においてもベルリン・フィルの響きが聴き手を官能のうずに巻き込んで行きますが、聴き終わった印象は古典的とも感じられるような密度の高い・凝縮された感覚なのです。これ以上はちょっと考えられないような演奏に思えます。


○1973年10月27日ライヴー3

ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲とヴェヌスベルクの音楽

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(東京、NHKホール)

じっくりとしたテンポのなかで、金管によって奏される巡礼の合唱の旋律の凄まじいまでの咆哮・崇高なほどの感動が素晴らしいと思います。さらにヴェヌスベルクの熱狂的な色彩の饗宴でとどめを刺されます。ベルリン・フィルの合奏能力の極致を見る如くです。


○1973年10月28日ライヴ−1

モーツアルト:交響曲第41番「ジュピター」

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(東京、NHKホール)

「ジュピター」の名にふさわしい壮麗な演奏です。響きは力強く、テンポ配分も申し分なく・造形的にも見事です。しかし、この頃のカラヤンのモーツアルトの傾向ですが・全体にフォルムへの意識が強く・きっちり整然とした感じが強すぎるようです。これはベートーヴェンだと似合うのですが、モーツアルトだとちょっと窮屈な感じがつきまといます。第2楽章はゆったりした柔らかい流れが欲しい感じです。その意味では両端楽章は音楽の性格がカラヤンの行き方にも近く・スケールの大きい演奏になっています。


○1973年10月28日ライヴー2

チャイコフスキー:交響曲第5番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(東京、NHKホール)

フォルムへの意識の強いカラヤンのコンセプトがこの交響曲では見事に効果を発揮しています。もちろん旋律は十分に歌い込まれ・音楽の流れは大事にされていますが、音楽の枠組みをしっかりと意識するなかで・そこから熱い感情がほとばしるように感じられます。したがって、テンポを明確に刻んでいながら・窮屈な感じがまったくしないのです。とにかく四つの楽章の連関が緊密に感じられます。両端楽章が素晴らしいのはカラヤン/ベルリン・フィルの合奏能力からすれば当然ですが、この演奏の重量感をぐっと高めているのは中間2楽章のテンポを遅めにしたテンポ設計です。特に第2楽章の遅いテンポでホルンの深々と響かせ、これだけの緊張感を持たせるのは素晴らしいと思います。第3楽章ワルツも深い味わいです。第4楽章終盤ではちょっとテンポを緩めて・劇的高揚を煽るようなところを見せています。


○1973年11月1日ライヴ

シェーンベルク:浄められた夜

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(東京、NHKホール)

テンポはやや早えで・粘ることがなく・造形は思いのほかスッキリしています。古典的にまとめられた印象もありますが、逆にその枠のなかで思い切り叙情的であり・ロマンティックなのです。息を呑むように美しく繊細な弦の響きのなかに・微妙な感性の揺らぎを感じさせるのもベルリン・フィルならではです。同年12月のスタジオ録音より響きの艶という点では譲りますが、曲のなかに一本通った芯というものはこちらの方があるかも知れません。この曲の持つ虚無感・不安感を実に正確に映し出している鏡のような感じで、これがカラヤンの凄いところであると感じ入ります。


〇1973年12月ライヴ

チャイコフスキー:交響曲第4番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(ベルリン、ベルリン・フィルハーモニー・ホール、ユニテル映像)

コンサート形式の映像収録と云うこともあって、熱気がある演奏に仕上がっています。四つの楽章が緊密に連関していますが、特に両端楽章がカラヤンがベルリン・フィルをぐいぐい引っ張る印象があって、スケールが大きく聴き応えがします。ここでのベルリン・フィルは機能性の持てるところ全開と云う印象です。圧巻は第1楽章で、聴き手を追い込んでいくような迫力があり、ベルリン・フィルの弦のうねりが素晴らしい。一方、中間の2楽章をやや抑めにして、ホッとさせる設計も納得できるものがあります。第3楽章のスケルツオも軽みがあって見事。第4楽章はカラヤンがテンポを煽って、手に汗握るスリリングな仕上がりになりました。


○1973年12月6日

シェーンベルク:浄められた夜

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(ベルリン・フィルハーモニー・ホール、独グラモフォン録音)

この曲をロマン派音楽の延長線上に捉えた演奏を予想していたのですが、予想に反して・これはまったく作品に真正面に対峙した演奏であると感じ入りました。カラヤン/ベルリン・フィルのことですから弱音の澄んで美しいことは比類ないのですが、これが身震いするような鋭さと凄みを以て聴き手に迫ってくるのです。その重低音はまるで暗黒の世界が口を開けて迫ってkるようであり、この曲の持つ世紀末的な不安感を実感させます。カラヤンはスコアを十二分に読み込んで、この曲の美しさのなかに潜む崩壊寸前の感性の震えを繊細なタッチで描き出しています。スコアにあるものがそのまま・あるがままに表現されていると感じさせます。この曲がロマン派の残渣を引きずっているのではなく・未来に向けた革新性を持っていることをこの演奏ほど聴き手に実感させる演奏は他にありません。


 

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