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本コーナー「義太夫狂言を読む」について
1)「原典主義」ということ
「原典主義」という言葉をご存知かと思います。たとえば、音楽で言えば原典は楽譜です。演奏という行為は「作曲者のイメージを如何に忠実に再現するか」というのが演奏家の態度です。それでは 演奏家は「作曲者のイメージに忠実である」ということをどうやって証明できるのかと言うと、そこに信頼すべき何らかの基準が必要であるということになります。まず第一に信頼すべきは「自らの感性・自らの芸術家としての誠実さ」ということになりましょう。しかし、それだけではどうしても主観的なものに陥りがちです。もっと客観的な拠り所が必要になってきます。それが楽譜なのです。楽譜のなかに楽曲解釈の手掛かりのすべてがある・ただ楽譜だけを信頼して虚心に追求していけば必ず作品の核心を掴むことができる、それが原典主義の基本的な態度です。
演劇で言えば、頼るべき基準は脚本ということになります。しかし、演劇の脚本というのはいわば生もので、役者の顔ぶれで書き換えられたり・仕勝手で変えられたりすることが珍しくありません。演劇というのは、音楽よりも生もの的要素がより強い芸能なのです。
本「歌舞伎素人講釈」の師である武智鉄二(面識もないのに勝手に師にしております)は原典主義の人でした。オリジナルに帰る・基本に帰るというのは、伝統芸能の場合には非常に重要な態度だと思います。原典主義というのは、判断に迷った時に振り返って基準となるべき出発点を見直すことができるということなのです。
歌舞伎を見てみますと、歌舞伎オリジナルの作品はまさに生ものであって、一座の役者の個性にはめて書かれており・すべて上演のたびに手直しされて書き替えられるのを前提にしていると言ってよいものです。こうなると原典としての脚本の意味合い(信頼性)は少々異なってきます。並木五瓶・鶴屋南北や黙阿弥のようなしっかりした狂言作者の作品は別にして、一般的に作者の作意というのは低い感じです。歌舞伎オリジナル作品の批評はどうしても作品を論じるというよりは役者の芸を論じる印象批評になってしまうという感じがします。
しかし、義太夫狂言の場合は丸本(つまり原作である人形浄瑠璃のテキストです)という原典を持 っています。丸本は戯曲作品としてもしっかり書けているものが多いのですが、一字一句がおろそかにされていない・煮詰めて書かれているという感じがします。おそらくは浄瑠璃の音曲としての性格が より安定した構成感を要求しますし、字句を変えることを安易に許さないからでしょう。だから原典としての信頼性も高いということになります。
このように義太夫狂言は常に丸本に立ち返ることで その解釈の正しさを軌道修正し再確認することができるわけです。この点が非常に大事なことなのです。義太夫狂言の批評は印象批評ではない・確固とした批評が可能であるのです。つまり、義太夫狂言は「解釈の楽しみ」が味わえるお芝居なのです。
もちろん何が何でも「丸本通りがいい・丸本通りに演るべし」ということなど絶対にありません。歌舞伎の場合は人間が演じるわけですから人形とは間合いが違いますし、芝居としてのバランスも変わってきます。また、その改変の必然性なども検討すべき材料になってきます。歌舞伎独自の解釈・工夫に感心させられることも稀ではありません。そのすべてが「解釈の楽しみ」であります。
2)本コーナー「義太夫狂言を読む」について
そこで本「歌舞伎素人講釈」ではこれから原典主義の態度に則って歌舞伎の義太夫狂言を読み直してみるという試みをしていきたいと思います。そして、インターネットの特性を生かして、歌舞伎・文楽あるいはその他の史料にリンクして、多角的に作品を検討していこうということです。
本コーナーは「歌舞伎で上演されている義太夫狂言を原典から読みなおして・解釈の可能性を考える」ということを目的としています。あくまで現行の歌舞伎上演を深く見るためのガイド的なものを考えています。脚本の逐語解釈・あるいは型 (というか演技の手順)の検討比較などは考えていませんが、作品解釈の線から思わぬところに筆が伸びることはあるかも知れません。また舞台写真が利用できればさらに面白いとも思いますが、肖像権などの問題もありますし、写真を使うことは考えていません。
もとより私も素人のことでありますから、まだまだ勉強不足の点があるので、この機会に読み直してお 遊びしてみようというほどのものです。読者の皆様の参考に多少でもなれば幸いです。
3)本コーナーで使用する床本について
「床本」というのは文楽で使用される上演用台本のことで、厳密に言えば原典である「丸本」とは字句が異なったり・場面が省かれている場合があります。しかし、素人が入手できる丸本には限りがありますし、歌舞伎と文楽との比較がひと通りできれば、ある程度の目的は達せられるものと考えています。
また本サイトに掲載する床本は読みやすくするために句読点を付してありますが、丸本(床本)は文章が句読点なく記されているものです。また台詞(と思われる部分)も、人物がリアルにしゃべる科白と旋律を伴って表現される科白に分かれます。つまり、厳密に言えば丸本分析は音曲(旋律)の検討にまで至らなければならないわけです。
本コーナーで使用する床本は、鶴沢八介メモリアルサイト「ようこそ文楽へ」のデータベースにある床本をお許しをいただきまして若干のアレンジをして使用しています。
なお、歌舞伎を見る上で、文楽を並行して見ていくことは理解を深めるために非常に役に立つことです。機会があれば、歌舞伎ファンの皆様には文楽を見ることを是非お勧めします。
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