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「双蝶々曲輪日記・引窓」床本


八幡里引窓の段


出で入るや月弓の、八幡山崎南与兵衛のお祖母、わが子可愛かナ金を出せサと諷ひしを、思ひ合はせばその昔八幡近在隠れなき、郷代官の家筋も、今は妻のみ生き残り、神と仏を友にして秋の半ばの放生会。夜宮祭と待宵と掛荷うたる供へ物。母は神棚しつらヘば嫁は小芋を月代へ、子種頼みの米団子、月の数程持ち出づる
「コレ嫁女。月見の芋は明日の晩、けふは待宵殊に日のうちからは早い/\」
「これはしたり。お前が明日の放生会を、今日からお供へ遊ばすゆゑ、なんにもかも宵日からすることと、ヲヽ笑止」
「コレその『笑止』は、やっぱり廓の詞。大坂の新町で都といふた時とは違ふ。今では南与兵衛が女房のおはや。近所の人が来たと、煙草吸ひ付けて出しゃんなや。今でこそおちぶれたれ、前は南方十次兵衛といふて、人も羨む身代。連れ合ひがお果てなされてから与兵衛が放埒。郷代官の役目も揚り内証も仕縺れ。こなたの手前も恥かしいことだらけさりながら、この所の殿様もお代はりなされ新代官はみな揚り、古代官の筋目をお尋ねにて与兵衛もにはかのお召し、昔に帰るはこの時と、雑行なれども神いさめの供へ物。蚤の息が天とやら、お上の首尾が聞きたいの」
「イヤモウそれはお気遣ひ遊ばすな。お前のそのお心が通じて、御出世でござりましょ。はやう吉左右聞きましたや」
と待ち兼ね見やる、表の方編笠にて顔隠し世を忍ぶ身の後や先、見廻し立ち寄る門の口
「ヲヽ嬉しやこゝぢゃ」
とづっと入る母は見るより
「ヤア長五郎か」
「母者人」
「濡髪さんか」
「都殿。これはしたり。さては願ひのとほり与兵衛殿と夫婦になってか」
「マア悦んで下さんせ。わしを請け出した権九郎は根が贋金師で牢へ入る。殺された幇間は、盗人の上前取りで追剥になって殺し徳。なんの気がゝりなう添ふてゐやんす」
「ソレハ幸なこと。同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと、ハテ幸なことぢゃの」
「イヤコレおはや。しみ/\とした話ぢゃが、そなた衆は近付か」
「アイ廓でのお近付」
「あの与兵衛もか」
「イヤこれはつい一目知る人ぢゃが、また長五郎様がお前を、母様と仰しゃる訳はえ」
「ヲヽ不思議なは道理々々。どうで一度は云はねばならぬ。この長五郎は五つの時養子に遣って、わしはこの家へ嫁入る。与兵衛は先妻の子で、わしとはなさぬ仲ゆゑに、その訳知っても知らぬ顔あそこやこゝの手前を思ひ、かつふつ音づれもせなんだが、去年開帳参りにふと大坂で見つけ、年たけても父御の譲りの高頬のほくろ。もしそなたは長右衛門殿へ遣った、長五郎ではないかと、問ふつ問はれつ昔語り。養子の親達も死失せ相撲取になった話。帰って与兵衛に話さうかと思ふたれど、以前を慕ひ尋ねても往たかと、思はれるが恥かしさに隠してはゐたが、かうしらけてきたからは戻られたら引き合はし、兄弟の盃。負はず借らずに嫁ともに子三人。わしほど果報な身の上はまたと世界にあるまい」
と、悦ぶ親の心根を思ひやるほど長五郎。『あすをも知れぬわが命と、知られぬ母の痛はしや』と、思へばせき来る涙を隠し
「イヤ申し母者人、与兵衛殿がお帰りあらうと拙者がことお話し御無用」
「なぜ/\」
「イヤ相撲取と申す者は、人を投げたり放ったり喧嘩同然。勝ち負けの遺恨によって、侍でも町人でも、斬って/\斬りまくりぶち放して、マアそんなこと私は致しませねど、男をたて過して一家一門へ難儀のかゝることもあるもの。マアこの商売仕舞ふまでは、お前ともあかの他人、倅持ったと思し召して下さるな。なん時知れぬ身の上。これがお別れにならうも知れず、おはや殿。与兵衛殿へも母のこと、頼みまするといふて下され。長崎の相撲に下りますれば、長うお目にかゝりますまい。随分御息災でお暮し」
と、打ち萎るれば
「ヤレそんな商売せいで叶はぬか。長崎へもどっこへも往かずと、このうちにゐて、与兵衛とともに問ひ談合。そのかっぷくではなにさしたとて仕兼ねはせまい、ノウおはや」
「さうでござりますとも、御兄弟と云ふことを主も聞かれましたら悦ばれましょ。マアお茶漬でもナお袋様」
「イヤ/\初めて来たもの。鱠でもしませう。あの体へは牛蒡の太煮、鮹の料理が好きであらう。気が晴れてよい二階座敷。淀川を見て肴にして一つ呑みゃ。うぢ/\せずと往きゃいの、どりゃ拵へよ」
と俎や薄刃の錆は身より出で、死出の出立の料理ぞと、思へばいとゞ胸塞がり
「申しなんにもお構ひなくとも、欠碗で一杯ぎり。ついたべて帰りましょ」
と、母の手盛を牢扶持と、思ひ諦め煙草盆。提げて二階へ萎れ行く


人の出世は時知れず見出しに預かり南与兵衛。衣類大小申し請け伴ふ武士はなに者か所目馴れぬ血気の両人。家来もその身も立ち止り
「これが貴公の御宿所とな。イザ御案内」
「御先ヘ」
と互ひに辞儀合ひ、南与兵衛。いそ/\としてうちへ入り
「母者人女房。たゞ今帰った」
「ヤアお帰りか」
「戻りゃったか。シテお上の首尾はどうぢゃの/\」
「お悦びなされ極上々」
「ソレハ嬉しい」
「すなはちかくのごとく衣類大小くだし置かれ、名も十次兵衛と親の名に改め下され、昔のとほり庄屋代官を仰せ付けられ、七ケ村の支配」
「ヤレ/\それは目出たいこと。ム、見れば表にお歴々が見えるがアリャマアどなたぞ」
「あれは西国方のお侍。密々に仰せ合はさるゝことあって御同道。さして隠す程のことではなけれど暫く母人も御遠慮。女房も用事あるまで差し控へよ」
と云ひ渡し、表へ出づれば嫁姑
「今からは武士附合ひ、遠慮が多い」
と物馴れし、母と嫁とは立別れ奥と口とへ入りにけり「イザおとほり」
と両人の、武士を上座へ押し直し
「今日殿の御前にて仰せ付けられしひそかの御用。仔細は各々方に承れとの儀。まづそのお尋ね者の科のやうす、お物語り」
と尋ぬれば、年長なる侍取り敢ヘず
「拙者は平岡丹平、これなるは三原伝蔵と申して、主人の名はお上にもよく御存じ。当春大坂表にて両人の同苗どもを殺され、方々と詮議いたせど、討ったる相手行方知れず。この間承ればこの八幡近在に由縁あって立ち越えたと申す。さるによって当役所へお頼み申せしに『兄弟の敵随分見付け召し捕られよ。しかし夜に入っては当地不案内、所に馴れたる者に申し付け、縄かけ渡さん』とあってナソレ、貴殿へ仰せ付けられた。仔細と申すはかくのとほり」
と、語るを一間に母親が、耳そばたつればこなたには女房おはやが立ち聞きの虫が知らすか胸騒ぎ、与兵衛はなんの心もつかず
「しからば敵討同然、隠密々々。もしさやうの儀もあらうかと母女房まで退け、御内意を承はるがなんと、その討たれさっしゃった御同苗のお名はな」
「身が弟は郷左衛門」
「手前が兄は有右衛門」
「アノ平岡郷左衛門、三原有右衛門とな」
「いかにも」
「フム」
「御存じかな」
「アイヤ承ったやうにも。ムヽしてその殺したる者はなに者」
「サアその相手は相撲仲間で隠れもなき、濡髪の長五郎」
と、聞いて母親障子をぴっしゃり、おはやは運ぶ茶碗をぐゎったり
「ハテ不調法な」
と叱る夫の傍に坐し、なほもやうすを聞きゐたる
「シテ御両所はいづくを目当て」
「まづこの丹平は、当所を家捜しが致したい」
「御尤も/\。伝蔵殿には思し召し寄りはなんと」
「手前が存ずるには、最前そこ許へお頼み申した絵姿を、村々へ配り置き、油断の体に見せ、どか/\と踏み込み、牛部屋柴部屋あるひはコウ二階などを吟味致したいテハヽヽヽ」
「それも尤も。アヽ大きな体、下家にはをりますまい。とかく二階が心許ない。ガまづ御両所は楠葉橋本の辺を御詮議なされ。夜に入らば拙者が受け取り、たとへ相撲取でござらうが柔術取でござらうが、見付け次第に縄打ってお渡し申さん。その段そっとも」
「ヤレ/\その詞を聞いて安堵々々。イザ丹平殿楠葉辺へ参らうか」
「いかさま日のうちは随分われ/\働き、夜に入ってお頼み申すが肝心。はやお暇」
「しからばまた晩程役所にて御意得ませう」
「さやう/\」と
目礼し、二人の武士は立ち帰る。おはやは始終物案じ差し俯いてゐたりしが
「申し与兵衛様。味なことを頼まれなされ、長五郎とやらを捕って出そとの請け合ひは、そりやマア、お前ほんの気かえ」
「ハテ気疎いものゝ云ひやう。あの侍に由縁もなく、元より長五郎に意趣もなけれど、いまの両人が願ひによってお上よりこの与兵衛に仰せ付けられたその仔細は、関口流の一手も、覚えゐることお聞き及びあって、『ナニ役人どもに申し付くる筈なれども、当所へ来て間もなく不案内。住み馴れたその方に申し付くる。日のうちはあの方より詮議せん。夜に入ってはこの方より隅々まで詮議しなにとぞ搦め捕って渡せ、国の誉』とあってのお頼み。イヤモ一生の外分。召し捕って手柄の程をみせたらば、母人にもさぞお悦び」
「イエ/\なんのそれがお嬉しからうぞ」
「なぜ」
「ハテ昔はともあれ、きのふけふまでは八幡の町の町人。生兵法大疵の基と、ひょっとお怪我でもなされた時は、お袋様の悲しみ。なんのお悦びでござんせう」
「ヤアいらざる女の差出。わりゃ手柄の先折るか」
「ムハテ折るも一つはお前のため」
「ヤアこいつが、なんで濡髪をかばいだて。たゞしはおのれが一門か。なんにもせよ御前で請け合ひ見出しに逢ふたこの与兵衛。今までとは違ふ。詞返さば手は見せぬ」
と、きっぱ廻せば
「ヤレ夫婦の争ひ必ず無用」
と、母は一間を立ち出で
「最前からのやうす残らずあれにて聞きました。ガなんとその濡髪長五郎と云ふ者、そなたよう見知ってか」
「サレバ一度堀江の相撲で見受け、その後色里にて一寸の出会ひ、イヤモ隠れもない大前髪。エたしか右の高頬にほくろ。ヲヽ見知らぬ者もあらうとあって、村々へ配る人相書。コレ御覧なされ」
と懐中より、出して見せたる姿絵を
「どれ」
と見る母二階より、覗く長五郎、手洗鉢、水に姿が映ると知らず目ばやき与兵衛が、水鏡きっと見付けて見上ぐるを敏きおはやが引窓ぴっしゃり、うちは真夜となりにける
「コリャなんとする女房」
「ハテ雨もぼろつく、もはや日の暮れ、燈をともして上げませう」
「ハテナ、面白い/\。日が暮れたればこの与兵衛が役。忍びをるお尋ね者。イデ召し捕らん」
とすっくと立つ
「それまだ日が高い」
と引窓ぐゎらり、明けて云はれぬ女房の、心遣ひぞせつなけれ母は手箱に嗜みし、銀一包み取り出し
「これはコレ御坊へ差し上げ、永代経を読んで貰ひ未来を助からうと思ふ大切な銀なれども、手放す心を推量して、なんとその絵姿私に売ってたもらぬか」
「母者人二十年以前に御実子を、大坂へ養子に遣はされたと聞いたが、なんとその御子息は今に堅固でござるかな」
「与兵衛村々へ渡すその絵姿。どうぞ買ひたい」
「ハア鳥の粟を拾ふやうに溜め置かれたその銀。仏へ上げる布施物を費しても、この絵姿がお買ひなされたいか」
「未来は奈落へ沈むとも、今の思ひには替へられぬわいの」
「ヘッエ是非もなや」
と大小投げ出し
「両腰差せば十次兵衛。丸腰なれば今までのとほりの与兵衛。相変はらずの八幡の町人、商人の代物、お望みならば上げませうかい」
「アノ売って下さるか、それではこなたの」
「アイヤ日のうちは私が役目でござりませぬ」
「ハア忝や」
と戴く母。袖はかはかぬ涙の海、嫁は見る目を押し拭ひ
「イヤ申し与兵衛様。あまり母御様のお心根が痛はしさに、大事の手柄を支へました。さぞ憎い奴不届者とお叱りもあらうが、産みの子よりも大切に、可愛がって下さる御恩。せめてはお力にと共々に隠しました。常々からも万事の品、包むと思ふて下さんすな」
と、中に立つ身の切なさを、言訳涙に時移り、哀れ数そふ暮れの鐘、隈なき月も待宵の光映ゆれば
「ヤ夜に入れば村々を詮議するわが役目。河内ヘ越ゆる抜道は、狐川を左に取り、右へ渡って山越えに/\、よもやそれへは行くまい」
と、それと知らして立ち出づる。情も厚き薮畳。折から月の雲かくれ忍びて、やうすを窺ひゐる。堪へ兼ねたる長五郎二階より飛んで下り、表を指して駆け出すを母は抱き止め
「ヤイ狼狽者どこへ行く」
「イヤ最前より尋常に縄掛からうと存じたれども、あまりと申せばお志のありがたさ。眼前歎きを見せませうよりは、この家を離れてと、モ堪へに堪へてをりましたが、与兵衛殿の手前もあり、後より追付き捕られる覚悟。御赦されて」
と駆け出すを取って引き据ゑ
「ヤイこゝな物知らずめ。おればかりか嫁の志。与兵衛の情まで無にしをるか罰当りめ。なさぬ仲の心を疑ひ、絵姿を買はうと云ひかけたは、『見遁してたもるか給らぬか』と、胸のうちを聞かうため売ってくれたその時の嬉しさ。おりゃ後影を拝んだわい、/\。まだその上に河内へ越える抜道まで教へてくれた大恩を、おのりゃなんと報じやうと思ひをるぞいやい。コリャヤイ死ぬるばかりが男ではないぞよ。七十近い親持って、喧嘩口論。人を殺すと云ふやうな、不孝な子が世にあらうか。来るとそのまゝ欠碗に、一膳盛と望んだは、おのりゃ牢へ入る覚悟ぢゃな。それが/\どう見てゐられうぞ。せめて親への孝行に、遁れるだけは遁れてくれ。コリャ生きられるだけは生きてたも。なんの因果で科人に、なったことぢゃ」
とどうと伏し、前後不覚に泣き叫ぶおはやもともにせきのぼす、涙押ヘて
「申し/\、泣いてござるところぢゃないぞえ。夜が明くれば放生会で人立が多い。今宵のうちに落とす思案。どうぞ姿を変へるしやうはあるまいかな」
「ヲヽそれも心付いて置きました。ガマア目に立つこの大前髪、剃り落としましょ。ドレ剃刃」
「アイヤ申し母者人。姿を変へて縄かゝらば、モ『よく/\命が惜しさに』と、云はれるも無念な。侍を殺した場で、すぐに相果てやうと存じましたが、死なれぬ義理にて生存へ、一日々々と親のことが身に染み、マ一度お顔が拝みたさに、お暇乞ひに参ってかへって思ひを掛けまするわい。アイヤ/\やっぱりこのまゝで与兵衛殿へ、お渡しなされて下さりませ」
「ムヽスリャどう云ふても縄掛かる気ぢゃな」
「覚悟いたしてをりまする」
「よいは勝手にしをれ。われより先に」
と剃刃を
「申し母者人危い/\。危い/\。謝りました/\」
「サアそんなら剃って落ちてくれ」
と母が手づから合はせ砥に、かゝる思ひのあらうとは神ならぬ身の、白髪のこの身。剃るべき髪は剃りもせで、祝ふておとす前髪を、涙で、揉んで剃り落とす老いの拳の定まらず、わな/\震ふて刃先がぎつくり
「アヽ申し二所までお顔に疵が」
「ハアひょんなことしました。幸ひ血止め」
と硯の墨、べったりつけて顔打ち眺め
「大方これで人相が変はった。ガ肝心の見知りは高頬のほくろ。剃り落とさん」
と剃刃を、当てことは当てながら
「これこそは父御の譲り、形見と思へば嫁女。私はどうも刺りにくい。こなた頼む、剃り落として下され」
「私ぢゃとてむごたらしうそれがどう剃らるゝもの。こればかりはお赦しなされて下さりませ」
「アヽ思へば/\、親の形見まで剃り落とすやうになったか。エヽ心からとは云ひながら、可愛いのものや」
と取り付いて『わっ』とばかりに泣き沈む。折もこそあれ門口より
「濡髪捕った」
と打ち付くる、銀の手裏剣高頬にぴっしゃり
「はっ」
と身構へ母は楯、おはやは燈火立ち覆ひ
「今のはたしか連れ合ひの声。ヲ長五郎様。顔のほくろが潰れたぞえ」
「ヒャア、ほんに/\。これも情」
と母親は表を拝みゐたりしがかねて覚悟の長五郎。思ひ設けてどっかと坐し
「サテ母者人。お前のお手で縄をかけ与兵衛殿ヘお渡しなされて下さりませ」
「コレ長五郎さん、お前は気が逆上ったか。『捕った』と顔へ打ち付けて、ほくろを消した連れ合ひの心またこの打ち付けた銀の包みに、『路銀』と書いた一筆。そこにお心付かぬかえ」
「アヽイヤその書付けもほくろを消した心も、骨にこたへ肝にとほり、あんまり過分忝さに、母の歎きも御意見も、不孝の罪も、思はれず、不具な子が可愛いと、義理も法も弁へなく、助けたい/\と母人の御慈悲心。暫くはお心休めと詞に随ひ、元服までいたしたれども、一人ならず二人ならず四人まで殺した科人。助かる筋はござりませぬ。なまなかな者の手に掛からうより形見と思ひ母者人。泣かずとも縄をかけ、与兵衛殿へ手渡して、ようお礼を仰しゃれや。ヤコレさうなうてはこなた、未来の十次兵衛殿へ、立ちますまいがの」
「ヲヽ謝った長五郎。よう云ふてくれたな。アいかさま思へば私は大きな義理知らず、まことを云はゞわが子を捨てゝも、継子に手柄さするが人間。畜生の皮被り、猫が子を銜へ歩くやうに、隠し逃げうとしたはなにごと。とても遁れぬ天の網一世の縁の縛り縄。おはやその細引でも取って下され」
「イヤそれでは連れ合ひの心を無になさるゝと申すもの。唐天竺へござっても、この世にさへござれば、どうしてなりともまた逢はれる。なにかはなしに落としまして下さんせ/\」
「イヤなう、一旦匿ふたは思愛。今また縄掛け渡すはなさぬ仲の義理。昼は庇ひ、夜は縄掛け、昼夜と分ける継子本の子。慈悲も立ち義理も立つ。草葉の蔭の親々への言訳。覚悟はよいか」
「待ちかねてをりまする」と、おはやを取って突き退け/\手を廻すれば母親は幸ひありあふ窓の縄、追取って小手縛り。突き放せば引縄に、窓はふさがれ心も闇くらき、思ひの声張り上げ「濡髪長五郎を召し捕ったぞ。十次兵衛はゐやらぬか、受け取って手柄に召され」
と呼ぶ声に与兵衛は駆け入り
「お手柄/\さうなうては叶はぬところ。とても遁れぬ科人。受け取って御前へ引く。女房どももう何時」「されば夜中にもなりましょか」
「たわけ者めが。七つ半は最前聞いた。時刻が延びると役目が上がる。縄先知れぬ窓の引縄、三尺残して切るが古例。目分量にこれから」
と、すらりと抜いて縛り縄、ずっかり切ればぐゎら/\/\。さし込む月に
「南無三宝夜が明けた。身どもが役は夜のうちばかり。明くればすなはち放生会。生けるを放す所の法。恩にきずとも勝手においきやれ」
「ハヽッ」
と悦ぶ嫁姑合はす両手の数よりも、九つの鐘六つ聞いて
「残る三つは母への進上」
「拙者が命も御自分ヘ」
「それも云はずとさらば/\」
『さらば/\』の暇乞ひ別れて、こそは、落ちて往く

 


 

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