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三井寺の鐘


本稿は、昨年(令和元年)12月の滋賀県・大津市旅行に関連した記事です。

四代目鶴屋南北の「金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)」は文政12年(1829)11月江戸・中村座での初演。南北は上演中の11月27日に亡くなった為に、本作が絶筆となりました。(近年では三代目猿之助十八番のひとつとして、改訂された形でたまに復活上演されることがあります。)本作は世界を「前太平記」に取っています。朝廷に謀反を起こして死んだ平将門の娘滝夜叉と坂東太郎実は藤原純友が再起を企てる話を主筋としています。これに源頼光(安珍)に恋した末に、母如月尼の手にかかって死ぬ娘お清(清姫)と、頼光の許嫁七綾姫に横恋慕したあげく悶死する藤原忠文などを絡ませました。南北らしく筋が入り組んで複雑で、ちょっと読んだだけでは分かりにくい作品です。将門の霊が滝夜叉に宿って、清姫の怨念と忠文の亡魂が合体、二組の男女双面(ふたおもて)をみせた「道成寺思恋曲者(こいはくせもの)」と云う所作事が評判となりました。これがいわゆる「双面道成寺(ふたおもてどうじょうじ)」です。(双面とは、ふたつの人格が合体した亡霊が同時に舞台に出現して、最後のその一方が正体を現わすと云うもので、変化物の趣向です。この趣向を取り入れて後に創られたのが「奴道成寺」です。さらにまた双面の趣向と隅田川ものが結びついて、「隅田川続俤(法界坊)」の大喜利「双面水照月」が創られました。)

「双面道成寺」の舞台は、近江国三井寺です。源頼光は、龍宮から引き上げた釣鐘を鐘楼に上げて、清姫や忠文の霊を弔い、七綾姫と祝言を挙げることにしました。そこに花子と名乗る美しい白拍子が現れて、舞を奉納したいと申し出ます。実はこれが清姫と忠文の霊で、舞を舞うにつれて白拍子は本性を現わし、怨みの炎に燃えて頼光と七綾姫を祟り殺そうと迫ります。

まあ筋の細かいことは、本稿ではどうでも良いのです。いつもの「道成寺」だと思って見ても、大筋は大体似たようなものです。細かいことが分からなくても雰囲気がつかめるのが、歌舞伎の趣向の良いところです。吉之助が面白いなあと思うのは、題名が「〇〇道成寺」と称しているのに、平気で近江国三井寺を舞台にしていることです。観客も煩いことを言わないのです。もちろんこれは安珍清姫の筋を綯い交ぜしているからに違いないですが、それならば舞台を紀州道成寺に持っていけば良さそうなものなのに、それにも係わらず舞台を近江国三井寺に設定しているのは、これは「鐘」あるいは「女の恋の恨み」が主題に絡まってさえいれば、これもまた「道成寺」だと云う、柔軟な(イヤ大まかなとでも云うべきか)論理があるのでしょうねえ。これも興味深いことです。かように近江国三井寺は「鐘」とご縁が深いお寺なのです。みんなそのことを知っているのです。

園城寺(おんじょうじ・滋賀県大津市園城寺町)は別称を三井寺(みいでら)とも云い、天台寺門宗の総本山です。「三井寺」の名の起こりは、当寺金堂の傍に、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があって「御井(みい)の寺」と呼ばれたことから来るそうです。

写真上は、三井寺(園城寺)の仁王門。写真下は、三井寺の金堂。

三井寺に伝わる鐘(梵鐘)には、初代と二代目があります。もしかしたら、この初代と二代目の梵鐘があると云う経緯が、同じく初代と二代目の鐘の逸話を持つ道成寺との親和性を産むのかもしれませんね。

まず初代の梵鐘は、奈良時代の製作と云われ、「弁慶の引摺り鐘」と呼ばれています。言い伝えに拠れば、承平年間(十世紀前半)に俵藤太秀郷がムカデ退治の時に龍宮から持ち帰り、当寺に寄進したものだそうです。その後、比叡山との争いで武蔵坊弁慶が奪って山上に引き上げ撞いてみると、「イノー・イノー」(関西弁で「帰りたいよォ」の意味)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺へ帰りたいのか」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったと云う逸話が残っています。現在は鐘は撞かれることもなく霊鐘堂に安置されていますが、鐘にはその時のものと伝えられる傷跡やヒビが残っています。

写真上は、霊鐘堂。写真下が「弁慶の引摺り鐘」(初代の梵鐘)です。鐘にすり傷のような跡が確かに見られます。

二代目の梵鐘は、近江八景「三井の晩鐘」として良く知られているものです。慶長7年(1602)豊臣家による当寺復興事業の一貫で鋳造されたものだそうです。この鐘は音色が良いことで有名で、宇治の平等院の鐘・京都の神護寺の鐘と並んで「日本三銘鐘」とされているそうです。

上の写真が鐘楼で、下の写真が二代目の梵鐘になります。吉之助も撞かせていただきましたが、深い音色で残響が長く続いて、確かに素晴らしい響きですねえ。

ところで謡曲「三井寺」には、時はまさに中秋の名月、行方知らずの我が子を探して三井寺にたどりついた物狂いの母親が、「山寺の 春の夕暮れ来てみれば、入相の鐘に 花ぞ散りける げに惜しめども など夢の春と暮れぬらん・・・ うきねぞ変はるこの海は 波風も静かにて 秋の夜すがら月澄む 三井寺の鐘ぞさやけき」と鐘を撞きながら舞い狂う場面があります。やがて鐘のご縁で、生き別れになっていた母子が巡り会います。本作は作者不詳とされていますが、世阿弥の若い頃の作品であるとの説もあるそうです。

写真上は、三井寺の観月舞台。謡曲「三井寺」では、中秋の名月と、月光に明るく照らされた琵琶湖の湖面、三井の晩鐘の響き、これらの三つが重なって幽玄な情景が浮かび上がります。この場所から眺める琵琶湖の景色は絶景だと云う話でしたが、無粋なことに今は乱開発のマンションが立ち並んで琵琶湖を隠してしまって景色は想像するしかありません。

混乱してしまいますが、謡曲「三井寺」で謡われている「入相の鐘」と云うのは、二代目の鐘のことではありません。二代目の鐘は慶長7年の製作なのが明らかですから、謡曲の成立年代と時代が合いません。これは謡曲に「秀郷のやらんがの龍宮より取りて帰りし」鐘と謡われているので、明らかに初代の「弁慶の引摺り鐘」のことです。そうすると、世阿弥の時代(室町期)には初代の鐘が鐘楼に懸かっていて・良い響きを聞かせていたわけで、すると今度は、「弁慶が引きずって鐘が鳴らなくなった」という逸話と矛盾が生じて来ることになります。ホントのところは、初代の鐘と弁慶は全然関係がなくて、天台宗の山門と寺門のふたつの宗派の争いが激しくて、それで何か事件が起きて初代の鐘が傷付けられたと云うのが真実であったようですね。

*写真は令和元年12月10日、吉之助の撮影です。

(R2・2・26)



  

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