(TOP)     (戻る)

知るも知らぬも逢阪の関〜「積恋雪関扉」の舞台


1)「あふみ」と逢阪の関

令和元年12月に滋賀県大津市周辺を訪ねました。

折口信夫が「近江歌及びその小説的な素材」(昭和7年)のなかで、近江の国(現在の滋賀県)という語は、しほ海(塩海)に対して琵琶湖の淡海(あわうみ、あふみ、あうみ)という意味であるが、或る時代の民間語源説では、「あふみ」は会う所、或いは「逢ふ路」と考えられた時代があったと思われるとして、「逢ふ路」とは逢阪(逢坂)の関を連想せしめたのではないか、それは関所で人が出会うという考え方から来るのだろうと書いています。

『「阪むかへ」という習慣が昔行われていたが、その人を迎えるところは、きつと阪(さか)であることを条件とした。京の都でいえば、逢阪である。もしこうして阪に迎えないと、峠の逆髪(さかがみ)の神に邪魔されて帰れないという信仰があって、これが部落生活では、少なくとも一度は繰り返されていたから、これが物語化し、歴史化されない訳はなかった。その迎えにゆくものは女であり(昔の、巫女が神を迎えに行くという信仰から)、迎えられるものは男であると考えられる。そこで、この行き逢いの形の伝説が出て来る。すべては逢阪の関を中心に考えると、だいぶ分かって来る。 「これやこの ゆくも帰るも 分かれては 知るも知らぬも 逢阪の関」という歌と似た歌が万葉集にも見られる。 「これやこの 大和にしては わが恋ふつ紀州(きじ)にありといふ 名に負う背の山」(巻1 35) かくの如く類似している。この「これやこの」も、神を讃めそそのかして、欺きとおるという信仰から来た、讃め言葉であったと見て間違いない。』(折口信夫:「近江歌及びその小説的な素材」(昭和7年)

例えば説教「をぐり」の物語では、水汲み女小萩(実は照手姫)が餓鬼阿弥となった小栗判官を乗せて土車を引きます。小萩が辿るのは、美濃から近江の大津までの中山道の道程です。(この後も檀那衆によって土車は引き継がれ、小栗判官は熊野へ送り届けられます。別稿「小栗判官とは何だろうか」を参照ください。)折口に拠れば、「をぐり」で小萩の車引きが近江の大津で終わるのは、「あふみ」(=近江)が関連しているだろう、つまりこれは生き別れになった男と女がやがて再会する、女は知らなかったが、男の方は知っていたという、伊勢物語などに見られる古(いにしえ)からの歌(和歌)物語のパターンから来ていると云うのです。(後に蘇生した小栗判官は照手姫と再び出会うことになります。)そのような歌物語は、生き別れした男と女が後に再会すると云う形の話が初めにあって、これに近いイメージを連想させる歌と結びついて、そして歌物語を形成していく、つまり元々歌はその話と関係がなかったのに、歌を後付けで合理化するような形で歌物語が出来上がって行くのです。

舞踊「積恋雪関扉」は、天明4年11月江戸・桐座の顔見世狂言の、「重重人重小町桜」(じゅうにひとえこまちざくら)の二番目大切浄瑠璃として上演されたものです。見た目は王朝時代の故実を枠組みにしていますが、実際やっていることは、江戸の写実の(つまりは初演当時の天明期の)傾城買噺です。それは「嘘と実(まこと)の手管(てくだ)の所訳(しょわ)け」なのです。天明期は、遊廓全盛の世でした。傾城遊女の歓心を得るために持ち物・衣装から言葉遣いまで詳しく述べた女郎買のハウツー本まで出版されたそうです。ですから「関の扉」は古怪な大きさよりも・洒脱さや軽みの方が大事なのだろうと考えますが、しかし、題材が「六歌仙の世界」だから当然ですが、ここでも歌(和歌)が重要な役目を果たしています。下世話な要素を持つ「関の扉」も、しっかり歌物語の伝統を引いているのです。遊女の仕方噺が、逢阪の関の「あふみ」のイメージと結びついて、別れろ別れないの男と女の切なさの表現に自然に展開していく、そして後の再会が予感されている、ここに何とも不思議な伝統芸能の精神回路があるなあと思うわけです。

逢阪の関は、先に触れた百人一首の蝉丸の和歌「これやこの ゆくも帰るも 分かれては 知るも知らぬも 逢阪の関」で有名ですが、山城国と近江国の国境にある関所です。東海道と東山道(後の中山道)の二本が逢坂の関を越えるので、古来より旅人が頻繁に行き来する交通の要所とされました。近世に道が掘り下げられたため、逢阪の関の正確な場所が分からないそうですが、現在は滋賀県大津市大谷町の国道一号線沿いに「逢坂山関址」の碑が建てられています。

そこで大津市街から旧東海道を歩いて、「逢坂山関址」まで歩いてみることにしました。大津市街中心部から歩いても、それほど長い道のりではありません。

2)旧東海道・大津宿跡

写真下は旧・大津宿本陣があった場所。(現在の大津市御幸町。京阪電車大津線の上栄町駅付近。)大津宿には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠71軒があったそうです。大津宿は、宿場町と琵琶湖の物資が集散する港町の機能を併せ持ち、東海道五十三次の宿場の中でも最大の人口を有し大変賑わいました。本陣の遺構は現存しませんが、明治天皇ご休息の地であったことを示す「聖跡碑」がここに建っています。現在はほとんど上演されませんが、歌舞伎の「ひらかな盛衰記」の「逆櫓」の前場に「大津宿の場」があります。権四郎・およし・槌松の家族が宿泊して、槌松と駒若君の取り違え事件が起きるのが、この近辺と云うことになりますかねえ。

3)大津市長安寺(関寺霊跡)

長安寺(大津市逢坂2丁目、京阪電車大津線の上栄町駅付近)は、以前の名称を関寺と云いました。関寺は、創建年代は不明ですが、文献では逢阪の関の近くにあったとされる大寺院でした。慶長の兵火に羅災の後、寺の名称を長安寺と改めました。能「関寺小町」で年老いた小野小町が昔を回想して舞を舞いますが、その舞台が近江の関寺(つまり現在の長安寺)です。「関寺小町」は、「桧垣」・「姥捨」と並んで能の三大老女物のひとつであり、能でも最高の秘曲とされています。

「関寺小町」の粗筋:関寺の僧侶が稚児たちを連れて、近くに住む老女に昔の和歌の話を聞きに来ます。文屋康秀と小野小町のエピソードの話題になった時に、老女がそれは自分が詠んだ歌だと話したことから、老女は小野小町であると分かってしまいます。今はすっかり老い衰えた小野小町は舞を舞って過ぎ去った昔を懐かしみ、やがて夜明けになると杖にすがって庵に帰って行きます。

百年(モモトセ)の姥と聞こえしは 小町が果ての名なりけり〜 小町が果ての名なりけり〜

上の写真は長安寺本堂。下の写真は小野小町の供養塔です。この辺りで年老いた小野小町が舞ったと想像してください。

下の写真は、大津市街から、長安寺・蝉丸神社下社を過ぎて、旧・東海道を京都方面へ、逢坂の関へ向かう緩い坂道をゆっくり登って行きます。もう少しで国道一号線との合流地点になります。逢阪の関はもうすぐです。

4)蝉丸神社・三社

蝉丸神社(せみまるじんじゃ)は大津市大谷町にある神社ですが、近くにある関蝉丸神社の下社と上社と三つ併せて、「蝉丸神社」と総称される場合があります。蝉丸大神は音曲を始めとする諸芸道の祖神です。諸芸能を生業とする人々に崇敬されました。

有名な和歌 「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢阪の関」を詠んだ歌人が、蝉丸です。蝉丸は平安期の醍醐天皇第四皇子とされますが、定かではありません。 盲目の琵琶の名手であったといわれており、逢坂の関付近に庵をむすびました。蝉丸亡き後、逢坂の関では関の明神として蝉丸を祀るようになりました。その後、蝉丸伝承は時代と共に全国各地へ広まって、能「蝉丸」と言う演目にも取り上げられて、芸能の祖神として人々の崇敬を集めています。

「蝉丸」の粗筋:醍醐天皇は、盲目の第四皇子・蝉丸を逢坂山に捨て、出家させよと臣下に命じる。蝉丸は、わが身の後世を思えばこその帝のお考えであろうと承諾すし、髪を落とし、蓑笠と杖を受け取り、ひとり山に残ります。一方、天皇の第三子であり、蝉丸の姉である逆髪(さかがみ)は、生まれつき逆立った髪をもち、その苦悩から狂人となり、浮浪者となっていた。ある日、山の藁屋から琵琶の音が聞こえました。訪ねてみると、それは弟の蝉丸でした。二人は我が身の不幸な境遇を語り合い、慰め合います。しかし、それぞれ授けられた運命に従い、涙ながらに再び別れの時を迎えます。

上の写真は関蝉丸神社・下社。下の写真は関蝉丸神社・上社。共に旧・東海道沿い。

下は蝉丸神社(大津市大谷町、京阪電車大津線の大谷駅近く。)

5)逢坂山関址

逢坂山関址(大津市大谷町、京阪電車大津線の大谷駅近く。)に着きました。逢坂の関の正確な場所は分かっていませんが、大体この辺だろうと推定されるところに石碑が建っています。付近は国道一号線の車の往来が結構激しいところで、六歌仙の昔を懐かしむ雰囲気はまったくありません。まあわざわざ行ってみる価値があったかどうか分かりませんが、この辺が「積恋雪関扉」の舞台だったのだなあと思うことにして、写真をパチリ。

*写真は令和元年12月10日、吉之助の撮影です。

(R2・1・19)



  

  (TOP)        (戻る)