(TOP)     (戻る)

江戸歌舞伎旧跡散策・その4

八百屋お七の史跡

江戸歌舞伎旧跡散策・その3:黒船稲荷〜四代目南北宅跡の続きです。


1)お嬢吉三と八百屋お七

黙阿弥の「三人吉三廓初買」三幕目・巣鴨在吉祥院の場は、「侠客伝吉因果譚」が大きな展開をみせる重要な場面です。ところで吉祥院は和尚吉三が住んでいるお寺と云うことになっていますが、吉祥院は実在のお寺ではありません。和尚を訪ねてきたお坊吉三が、「以前は立派な寺だそうだが、久しいあいだ無住(住職がいないの意味)になって、見る影もなく荒れ果てたが、しかし、狐狸やお尋ね者、昼間徘徊(はいかい)出来ねえ者が、隠れているにやァ妙な(絶好の)ところだ」と言っています。

上の写真は、「三人吉三」吉祥院の場の現行舞台面。

いくら芝居のことでも、もし実在のお寺ならば、お坊吉三はこんなことは言えませんね。ですから吉祥院は架空のお寺なのですが、芝居を見る人は吉祥院と云うと、多くの人が何となく駒込の吉祥寺(実在)を連想してしまうと思います。これは根拠が全然ないことではなく、俗説に拠れば、八百屋お七の一家が火事で焼け出された時に避難した(そこで美しい小姓・吉三郎と出会って一目惚れしたとされる)お寺が駒込の吉祥寺だとされているからです。しかし、これは誤りだそうです。お七の一家が住んでいたのが本郷だとすると、そこから吉祥寺まではちょっと遠過ぎる。その後の調査では、(これが史実であるならば)お七の一家が避難したのは、白山の円乗寺(実在)か、あるいはもう少し吉祥寺に寄ったところにあった駒込の円林寺(廃絶)だろうと推測されています。

それにしても江戸民衆のお七=吉祥天(吉祥寺)の連想には、どこか強固なものがあるようです。お七と吉祥天が結び付いていくのは、お七が11歳の時に額を奉納したと云う谷中の感応寺(その後天王寺と改称して実在)の境内に吉祥院という塔頭があったからだそうです。(塔頭とは本寺の境内にある小寺のこと。なお谷中の吉祥院はその後移転して廃絶。) 火付けの罪で捕らえられたお七は、14歳ならばお咎めなしなのに15歳だと分かって火焙りの刑に処せられたわけですが、お裁きでお七が15歳であることの証拠となったのがこの吉祥院の奉納額だったとされています。それで民衆の間にお七=吉祥天のイメージがあったのです。

写真下は、谷中の天王寺。(元の感応寺)

これを利用して黙阿弥は「三人吉三」のなかに吉祥院と云う架空のお寺を登場させて、欄間から顔をのぞかせたお嬢吉三の姿と、八百屋お七のイメージをダブらせたわけです。この趣向が、次の大切・火の見櫓の場でお嬢吉三が太鼓を打ち鳴らす場面で一層利いて来ます。(八百屋お七が打ち鳴らすのは半鐘です。)


2)八百屋お七の史跡

八百屋お七については、不明なことが多いようです。お七の時代の幕府の処罰の記録には、お七の名前が見当たらないそうです。生年も分からず、家が八百屋だったかどうかも不明です。芝居や小説・講談などでお七の話がこれほど有名であるにも関わらず、分かっているのは、「お七と云う娘が放火して処刑されたことがあったらしい」と云うことだけだそうです。お七が処刑されたとされるのは天和3年(1683)3月28日ですが、その3年後の貞享3年(1686)に大坂で活躍した井原西鶴が「好色五人女」のなかで八百屋お七を取り上げたことで、お七の名前は世間に広く知られることになりました。(「好色五人女」ではお七と吉三郎が出会った場所が吉祥寺になっています。お七が一目惚れしたお小姓の名を「吉三郎」としたのも「好色五人女」から来ます。)

そこで本駒込周辺を散歩して八百屋お七の史跡を巡って来ました。

a)本駒込の大圓寺

本駒込の大圓寺(だいえんじ)は曹洞宗のお寺で、ここにはお七供養の焙烙地蔵のお堂があります。焙烙(ほうろく)とは素焼きの土鍋のこと。焙烙地蔵は、火付けをしたお七の罪を救うために焼けた焙烙を頭にかぶって自ら焦熱(しょうねつ)の苦しみを受けているのだそうです。これは享保4年(1719)に渡辺九兵衛と云う人がお寺に寄進したものです。その後は、頭痛・眼病・耳や鼻の病気など首から上の病気に霊験あらたかなお地蔵様として親しまれているそうです。

写真上は大圓寺の山門。お寺の向こうは都立向丘高校です。

お七供養の焙烙地蔵は、焼けた焙烙を帽子みたいに頭に被っています。地元の人々に愛されている理由が分かりますね。

b)白山の円乗寺

白山の円乗寺(えんじょうじ)は大圓寺からほど近いところにあるお寺です。円乗寺は天台宗のお寺で、(これが史実であるとすれば)八百屋お七の一家が火事で焼け出された時に避難して、吉三郎と出会った宿命のお寺です。ここにはお七の墓があります。ただし当時は罪人はお墓を作ることが許されませんでしたから、これは後に作られた供養墓です。

お寺の本堂は最近鉄筋のビルに建て替えられたばかりで、ちょっと風情がないのが残念。お七のお墓は以前はお寺の入り口付近にありましたが、奥の方へ移転されていました。

お墓は3基あって、中央のお墓はお寺の住職がお七の供養のために建てたもの。右のお墓は、初代岩井半四郎がお七を演じて好評を得たので寛政5年(1793)にお寺に寄進したものです。左のお墓は町内有志がお七の二百七十回忌の供養で建立したものだそうです。

円乗寺の前の坂道は、於七坂とも呼ばれています。

c)本駒込の吉祥寺

本駒込の吉祥寺(きちじょうじ)は曹洞宗のお寺で、ここにはお七吉三の比翼塚があります。ただしこれは昭和41年(1966)に日本文学会によってお七生誕三百年記念と云うことで建立されたものです。上述の通り、お七の生年を寛文8年(1668)とするのは伝承に過ぎず、お七と吉三郎が出会ったのも吉祥寺ではないとされていますから、あくまで西鶴の「好色五人女」に拠った文学碑です。

吉祥寺は大きいお寺で、広い境内には大名名家のお墓が多くある他・二宮尊徳や榎本武揚の墓もあります。

下の写真は、お七吉三の比翼塚です。

なお東京都武蔵野市吉祥寺には吉祥寺というお寺が地元に存在しませんが・ここを吉祥寺と云うのは、明暦の大火(明暦3年・1657:振袖火事とも云われる)で元々本郷元町(現在の水道橋近く)にあった吉祥寺の門前町が焼失してしまったので、焼け出された門前の住人が幕府の斡旋により現在の武蔵野市東部に集団移住して、昔住んでいた「吉祥寺」を村の地名に付けたからだそうです。その後、吉祥寺も元の本郷元町から現在の本駒込に移転して現在に至っています。

*写真は令和元年10月9日、吉之助の撮影です。

江戸歌舞伎旧跡散策・その5:「髪結新三」の閻魔堂橋もご覧ください。

(R1・10・27)


 

  (TOP)        (戻る)