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伊勢古市と「伊勢音頭」


〇伊勢古市と「伊勢音頭」:その1

江戸時代に世の中が落ち着いて、五街道が整備されて来ると、庶民にも旅行観光を楽しむ余裕がちょっと出て来たようです。当時は庶民、特に農民の移動には制限がありましたが、伊勢神宮参詣という名目ならば厳しいおとがめがなかったようです。信仰ということになると、お上もあまりうるさいことが言えなかったようですね。伊勢参詣ということで通行手形を発行してもらえば、大体どこを通ってどこへ行っても問題はなく、参詣の帰りには京大坂を見物して帰る人も多かったようです。伊勢参りの目印は柄杓でした。柄杓を持って伊勢を目指せば、街道筋の人々がいろいろと手助けをしてくれたもので、それで伊勢参りのことをお陰参りとも云いました。江戸から伊勢までは片道15日程度の道程であったようです。

もっとも旅行には、当然お金が掛ります。庶民が伊勢までの多額の旅費を工面するのは大変なことでした。そこで生み出された仕組みが、「お伊勢講」でした。講というのは、みんながお金を出し合って集まったお金を代表者の旅行の資金とする、代表者をくじで決めて、持ち回りで講の所属者全員がいつかはお伊勢参りが出来るようにするというものです。旅行の時期は農閑期が当てられました。こうして庶民の間にお伊勢参りのブームが生まれたわけです。
 


旅行と云うと、日常から離れてパアッと憂さ晴らしをしたいと思うのは今も昔も同じことのようです。聖と俗とは、常に隣りあわせです。江戸時代でも伊勢参りの次いでに歓楽街で遊ぶというのが定番コースでした。伊勢古市は、伊勢神宮の外宮と内宮をつなぐ3.5キロほどの参道沿いの丘陵地帯に位置します。江戸時代より以前は寂しいところでしたが、江戸時代に入ってお伊勢参りのブームによって精進落としをする参拝客が急増することによって、遊廓と旅館が立ち並び、芝居小屋も出来て、歓楽街として栄えました。最盛期には、70軒の遊郭があっで、遊女千数百人。江戸幕府非公認ながら、伊勢古市の遊郭は、江戸の吉原、京都の島原と並んで、三大遊廓とされたそうです。その様子は、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の、弥次さん喜多さんの道中記にも記されています。「まだ宮まいりもせぬうちに」、「今宵これから古市に行こかいな」ということで、弥次さん喜多さんも伊勢参詣より古市で遊ぶ方に関心があ ったみたいですね。
 


明治に入って古市丘陵を迂回する道路が整備されたりして歓楽街は衰微し、戦時中の空襲もあったりして、現在では、往時の俤をとどめるのは、麻吉旅館(あさきちりょかん)のみとなっています。麻吉旅館の歴史はたいへん古く、天明2年(1782)の地図にはその名前が見えるそうです。現在、中心となる建物は五棟あって、様式としては懸崖造りで最上階まで六層に及んでいます。この建物を見れば、往時の伊勢古市の盛況ぶりがどんなものであったか想像できますね。なお麻吉旅館は現在も営業されています。(この稿つづく)

*写真は伊勢古市の麻吉旅館。平成29年11月30日、吉之助の撮影です。

(H29・12・4)


〇伊勢古市と「伊勢音頭」:その2

歌舞伎で伊勢のご当地狂言と云えば、「伊勢音頭」です。寛政8年(1796)5月4日の夜、宇治浦田の町医者孫福斎(まごふくいつき)は、伊勢古市の遊郭油屋でなじみの遊女お紺と酒を飲んでいましたが、お紺が他の座敷に呼ばれて中座したまま、なかなか戻ってこないことに腹を立てたらしくて、刀を振り回して、即死者2名、負傷者7名の九人斬りの大事件を引き起こしました。斎はいったん油屋から逃れましたが、10日後に自刃しました。この事件は、参詣客を通じてまたたく間に全国に知れ渡り、事件から54日後に大坂角の芝居で近松徳三の脚本により初演されたのが、有名な「伊勢音頭恋寝刃」です。芝居は 設定を医者から伊勢御師(おんし・おし)に置き換えて、急拵えながら伊勢音頭、大々神楽、二見ヶ浦など伊勢の風景や名物を巧みに配置して人気狂言となりました。


この事件で全国に名が知られた油屋は、古市の三大遊廓のひとつでした。事件当時の油屋の規模は、部屋持ちの遊女24名、部屋持ちでない二流どころの遊女24名、禿(かむろ)14名、仲居10名で、女性の総数72名を擁し、敷地は3000坪と云われ、 広い庭園を持つ大きい遊郭であったようです。現在はその場所に近鉄鳥羽線の線路が通っており、切通しにされてしまった為、往時の俤がまったく残っていません。参宮街道沿いの、線路と交錯する橋のたもとに油屋跡の石碑がひっそり立っていて、 今はそれと知れるのみです。上の写真右は伊勢古市参宮街道資料館に展示されていた明治末頃の撮影と思われる油屋旅館(明治22年に遊廓から旅館へ改業)の古写真です。豪勢な建物 だったのですねえ。
 


古市には芝居小屋が、口の芝居、中の芝居、奥の芝居と三つあったそうです。油屋からさほど遠くない街道沿いに、芝居小屋跡の石碑がありました。ここが口の芝居、長峰座の跡地だった ようです。「伊勢音頭恋寝刃」は当地においては印象が良くないということでなかなか上演されずにいたようですが、事件後33年後の、文政12年(1829)に四代目坂東彦三郎が当地で福岡貢を演じました。この上演に先立って彦三郎が建立したお紺の供養墓が、大林寺境内にあります。「伊勢音頭・油屋の場」のなかに、貢が「そんならあの大林寺の裏門で(万次郎が待っている)」と云う台詞があります。少し離れた場所にある お寺かなと思ってましたが、大林寺は油屋のすぐ裏手にあったお寺だということが、現地に行ってみて分かりました。写真の左にあるお墓がお紺の供養墓です。後に斎の供養墓が隣に建てられて、今は対の比翼塚になっています。

*写真は平成29年11月30日、吉之助の撮影です。

(H29・12・5)


(追記)

墓碑銘に拠れば、孫福斎が亡くなったのは寛政8年5月14日(これは油屋騒動の10日後)、享年27。遊女お紺が亡くなったのは文政12年2月9日(これは騒動の33年後のこと)、享年49。逆算すると 騒動の時にお紺は16歳であったことになります。吉之助の推測ですが、古市の芝居で長年封印されてきた「伊勢音頭」が文政12年に上演されたのは、騒動で全国に名が知れて一躍古市一の売れっ子となったお紺が亡くなったので、その追善上演という名目であったと思われます。ところでこの時に貢を演じた四代目彦三郎が、上演に先立ち建立した供養墓はお紺のもので、この時には斎(芝居では福岡貢)のものは建てられませんでした。このことからも地元での斎に対する感情が窺われます。恐らく実説のお紺と斎の関係は、芝居の「伊勢音頭」にあるような恋人関係ではなかったのでしょう。斎の墓は、二代目延若によって昭和始めに建てられたものです。つまり、約100年、大林寺のお墓はお紺のものだけだったわけです。斎の墓が横に建てられて比翼塚に仕立てられたのは、もしかしたらお紺にとって有難迷惑だったかも知れませんね。

(H29・12・12)

夏祭浪花鑑;伊勢音頭恋寝刃


 

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