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当麻寺訪問記〜中将姫の物語


当麻寺(たいまでら)は、奈良県葛城市にある(大和の西方に位置する)7世紀・白鳳時代に創建された名刹です。二上山(にじょうさん、古くはふたがみやまと呼ばれました)の麓にあって、自然に囲まれた静かな佇まいです。当麻寺が人々に知られるのは、西方極楽浄土を描いた「当麻曼荼羅」信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫の物語に拠ります。「当麻曼荼羅」の原本は、中将姫と呼ばれる女性が蓮の糸を用いて、姫が幻のなかで見た阿弥陀の極楽浄土の光景を描いて、一晩で織り上げたものであると伝えられています。



当麻寺のサイトはこちら。「当麻曼荼羅」の写真が見られます。

「当麻曼荼羅」は、上記の通り、中将姫が想像した阿弥陀仏を中心とした極楽浄土を描いた浄土図で、正確に云えば曼荼羅ではないのです。曼荼羅というのは、大日如来が無数に分裂して宇宙を形成しているものとか、様々な位相に変容していくさまを描いたもので、本来は、平安期以後の密教美術の用語です。奈良時代はまだ密教の時代ではありませんから、そもそも曼荼羅という概念がなかったのです。しかし、その後、密教の時代になって、南都仏教 でもこれも大日如来の変容の様(さま)であって、曼荼羅世界を表すものと理解されて、それで「当麻曼荼羅」と呼ばれるようになったようです。弘仁14年(824)、弘法大師は当麻寺を訪れ、「当麻曼荼羅」の前で21日間お堂に籠って瞑想して、ここで中将姫の想いを感得されたとのことです。これ以後、当麻寺は真言宗(密教)のお寺となりました。

中将姫は伝説上の人物ですが、12世紀ごろの文献にはまだ「中将姫」という名前が出て来ないようです。13世紀ごろに成立した「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう)には、中将姫は藤原豊成の娘のことであると云う記述があって、中将姫の説話がこの頃に出来たようです。中将姫の説話は、中世から近世にかけて、能・浄瑠璃・歌舞伎などに脚色されて、だんだん継子虐めの物語に変容して生きました。

どうして中将姫が継子虐めの話になるのかと思いますが、中将姫の説話は、大体、こんなところです。中将姫は藤原豊成の娘・中将姫は美貌と才能に恵まれましたが、5歳の時に母を亡くして、継母に育てられました。しかし、この継母の虐めが酷くて、ついに殺されそうになります。中 将姫の殺害を命じられた家来は、極楽浄土を願い一心に読経する姫を見て刀を振り下ろすことができずに、姫を「ひばり山」という地に置き去りにしました。後に中将姫は当麻寺で出家して、そこで一晩で織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」なのです。中将姫が29歳の時に、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩がお迎えに来て、姫は極楽浄土へ旅立ちました。



写真は、当麻寺の本堂。「当麻曼荼羅」が収められています。特別な日しか公開されていないようで、残念ながら吉之助は実物を拝見することが出来ませんでした。

中将姫の物語を題材にした芸能は、能では「当麻(たえま)」・「雲雀山(ひばりやま」、人形浄瑠璃では「鶊山姫捨松」(ひばりやまひめすてまつ)があります。並木宗輔の作で元文五年2月豊竹座初演。別名題「中将姫古跡の松」(ちゅうじょうひめこせきのまつ)としても知られています。後に歌舞伎へも移されて、三段目「豊成館」の後半部分に当たる、「中将姫雪責め」の場面が抜き出されて、継子虐めの代表作として有名になりました。中将姫の物語のなかでは継子虐めが本質ではないのですが、まあこの物語を芝居にするとすると、ドラマティックで面白いのは継子虐めの場面だということになっちゃうのでしょうかねえ。多分、継子虐めをある種の通過儀礼だと理解して、中将姫説話を貴種流離譚の範疇として捉えたの だと思います。本作は現代でもたまに上演がされることがあって、直近では平成11年(1999)4月に琴平金丸座で福助の中将姫で上演がされましたが、吉之助は巡り合わせが悪くてまだ見たことがありません。

折口信夫は、「当麻曼荼羅」伝説に着想を得て、昭和14年に「死者の書」という小説を書きました。彼岸の中日に南家の郎女(中将姫)が、二上山に日が落ちる時に尊い人の俤(おもかげ)を見る場面があります。これが郎女が曼荼羅を 書くことを志す強い動機となっているのです。なお当時の当麻寺は男僧の修行場で女人禁制であったので、郎女が逗留したのは別館であったようです。



写真は、中の坊にある、中将姫の剃髪堂です。

下の写真は、近鉄線当麻寺駅から当麻寺へ向かう道の途中から二上山(右方の山)を望む。 二上山は、その呼び名の通り、北の雄岳(高い方)と南の雌岳の双峰を持っています。明日香の都から二上山を見ると、夕日が二上山の二つの峰の間に沈むように見えることから、西方極楽浄土の霊山として、古くから崇められていたそうです。「死者の書」で、南家の郎女が二上山上に幻影を見る場面は次の通りです。

「去年の春分の日の事であった。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向って居た。日は、此屋敷からは、稍(やや)坤 (ひつじさる)によった遠い山の端に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日は俄(にわ)かに転 (くるめ)き出した。その速さ。雲は炎になった。日は黄金(おうごん)丸 (まるがせ)になって、その音も聞えるか、と思うほど鋭く廻った。雲の底から立ち昇る青い光りの風――、姫は、じっと見つめて居た。やがて、あらゆる光りは薄れて、雲は霽 (は)れた。夕闇の上に、目を疑うほど、鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、ありありと荘厳(しょうごん)な人の俤(おもかげ)が、瞬間顕(あらわ)れて消えた。後 (あと)は、真暗な闇の空である。山の端も、雲も何もない方に、目を凝して、何時までも端坐して居た。郎女の心は、其時から愈々澄んだ。併し、極めて寂しくなり勝 (まさ)って行くばかりである。」(折口信夫:死者の書)

当麻寺からちょっと歩いた墓地に、中将姫の墓塔がありました。ここからも二上山を望むことができます。吉之助の行ったのは正午頃のことでしたが、二上山に夕日が沈む光景をちょっと想像してみました。吉之助はいずれ「死者の書」に絡んで「折口信夫への旅・第2部」を書く予定にしていますが、まだ構想の段階です。(第1部はこちら。)今回の当麻寺訪問は、このための取材旅行でした。第2部もそのうち出来ると思います。

*写真は、平成29年1月19日、吉之助の撮影です。

(H29・7・15)


 

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