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歌舞伎の見得〜クローズ・アップの技法


昭和3年(1928)8月に二代目左団次を座頭にした一行がモスクワ・第二芸術座において幕を上げました。演目は「仮名手本忠臣蔵」・「娘道成寺」・「鳴神」の三作品で、大成功を収めました。これが歌舞伎の初めての海外公演でした。

「歌舞伎の見得は、映画の技法で言えばクローズ・アップだね」と言ったのは、ロシア(当時はソ連)映画界の巨匠セルゲイ・エイゼンシュタインだそうです。エイゼンシュタインの監督作品 としては「戦艦ポチョムキン」(1925)や「イワン雷帝」(1944)などの 傑作が よく知られています。下の写真は「忠臣蔵」の口上人形を前にして・大星由良助に扮した左団次と談笑するエイゼンシュタインです。

エイゼンシュタインがさすが映画監督だけあって炯眼であるなあと思うのは、普通なら「見得はストップ・モーションだね」と単純に考えそうなところを、「クローズ・アップ」であると・歌舞伎の見得のその演劇的心理効果をズバリ指摘していることです。映画で 画面・動作を止めるだけでもある程度似たインパクトはあるでしょうが・その効果はまだ十分ではないのです。歌舞伎の見得はその瞬間にぐうっと息を詰めて 演者の感情が形象化され、さらにツケの音響効果で舞台の空気を瞬時に引き締め・観客の視線を演者に集中させます。その心理的劇効果は・映画ならばカメラをググッと被写体に近づけていかなければ決して得られないものです。

クローズ・アップの手法については、プルーストが小説「失われた時を求めて」の第3篇「ゲルマントの方」のなかで次のような分析をしています。「私」は恋人アルベルチーヌの頬に口づけをするのですが、『その頬にまず私の口が近づき始めた時、その接近につれて・私の視線は移動しながら次々に新しい頬を目にすることになった。そして 、ぐっと間近に・拡大鏡で見るように知覚された首筋は、その皮膚の粗いきめのなかに一種のたくましさを見せ、そのたくましさが顔の性格を一変した』と言うのです。そして 、「私」はこのことを写真のクローズアップに例えるのです。

『私が見るところでは、口づけの機能に匹敵するものは写真のそういう最新の(クローズアップの)技術しかないのであって、口づけというものは、われわれにとって限定された視覚にしか存在しないとわれわれが信じていたひとつのものから、そのものが同時にそうでもあり得る百の他のものをふいに出現させることが出来るのである。と言うのも、出現するひとつひとつのものは同じパースぺクティヴに相対的につながっているからであり、そのパースぺクティヴは当然ひとつなのであるから。』(マルセル・プルースト:「失われた時を求めて」の第3篇「ゲルマントの方」・U)

プルーストの時代にはこのカメラのクローズアップという開発されたばかりの最新技術によって・花や樹木の局部拡大写真が盛んに発表されていました。小説ではプルーストは「写真」と書いているのですが・たぶん「映画」と書いた方がもっと 適切であったかも知れません。なぜならばパースぺクティヴ(見通し・あるいは展望)が相対的につながっていることは、連続した数枚の写真よりは・映画の画面の連続的な変化の方がより実感を以ってくるであろうからです。このような映画のクローズアップ手法が開発されたのは、恐らく1910年あたりのことのようです。

クローズアップとは「我々がそのようであると信じていたものの有様(ありさま)が視点を近づけることで違う様相を呈してくる・しかもそのすべての様相は断ち切られているようでいて・実は相対的につながっていてひとつなのだ ・そしてひとつであるようでいてやはり断ち切られているのだ」と言うことを表現する技法なのです。つまり、視点が対象に連続的に近寄っていくことによって物の有様は歪 (ゆが)んで見えてくると言うことです。このことはこの二十世紀初頭の西欧の芸術作品を読み解く時に非常に重要な用件です。

エイゼンシュタインが指摘したように、歌舞伎の見得にもまた、演者の感情の歪んだ・引き裂かれた様相を視覚的に見せる効果があります。エイゼンシュタインが歌舞伎のこの場面はクローズアップだと感じた 瞬間は、恐らく「四段目・門外」において主人判官の九寸五分を胸にして慟哭する由良助の姿であったでしょうか。 あるいは「鳴神」で鳴神上人が雲絶間姫に裏切られて怒り狂う柱巻きの見得であったでしょうか。客席に座った観客が役者に近づいて行くわけでもないのに・歌舞伎の見得にはそのようなクローズアップ効果があります。それは知らず知らずの内に 観客の気持ちが演者の息のなかに没入してしまっているからでもありますが、それだけではありません。その見得の形象のなかに・演者の引き裂かれたアンビバレントな感情が象徴されているからに他なりません。つまり、見得とは暗喩であるのです。

だから「見得」とはそこに在る暗喩なのであって・演技というような動いた状態のひとコマではないのです。連続した演技のなかの感情表現の最高に高揚した瞬間が固定したのが見得なのではなく て、その瞬間において・まさに別の様相に変化したところの感情・その引き裂かれた状況が形象化されたものが見得なのです。その瞬間に歪(ひず)みがありありと見えて来なければなりません。

「見得を切る」という言い方がよくされますが・これは歌舞伎の用語として間違いで、実は「見得をする」という言い方が正しいのです。この言い表し方に見得の技法の正しい意味が込められています。

(H18・6・25)


 
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