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「世直しもの」としての「村井長庵」

〜「勧善懲悪覗機関・村井長庵」


1)団菊に忘れられた作品

「勧善懲悪覗機関(かんぜんちょうあくのぞきからくり)・通称「村井長庵」)は、文久2年(1862)8月守田座での初演、庶民に親しい「大岡政談」の講釈に取材したものです。四代目小団次が極悪人の街医者・村井長庵と伊勢屋番頭・久八の二役を演じて好評を得ました。

黙阿弥の描く悪人というのは、根は善人なのがふとした事から悪事にはまる、というのが多く、どこか愛嬌があって憎めないのが多いのですが、この芝居の主人公・長庵というのは根からなかなかの悪人です。姪を吉原へ売り飛ばし、妹の夫を殺してその金を奪い、その罪を患者になすりつけて獄死させ、さらに実の妹までも手下に殺させるなどと、悪事を重ねて良心の呵責もなく、反省もありません。白洲でその罪状が明らかになった後もそれを一向に認めようとせず、大館公(=モデルはもちろん大岡越前守)に「勝れた智者の仁者のと評判するのは大違げえ。おれが目からはただの人間、あんまり褒めた人でもねえなあ」などと悪態をついたりします。

この「村井長庵」は黙阿弥自身も会心作としている作品なのですが、意外と上演されていません。小団次没後の黙阿弥役者と言えば五代目菊五郎ということになりましょうが、しかし菊五郎は、黙阿弥に「長庵のような悪人が演りたい」と頼み込んで自分にはめて按摩・道玄の役(「盲長屋梅加賀鳶」・明治19年)を書いてもらっているにもかかわらず、長庵の方は演じていません。ふてぶてしいなかにも・どこか愛嬌のある道玄と・長庵との違いは、そのまま菊五郎と小団次の芸風の違いだったのかも知れません。もっと開き直って図太い・虚無的な人生観の持ち主が長庵だったのではないでしょうか。

一方、九代目団十郎は明治19年に長庵を一度だけ演じています。しかし評判記によれば「いっこうに狂言をせず、ずいぶん面白くない」と不評であったようです。「御典医が零落したようだ」とか「極々淡白まじめな長庵」だとも書かれています。どうも九代目はお得意の「肚芸」と高尚趣味で、演技を抑えてぬっとしたスケールの大きさを狙おうとして失敗したように思われます。長庵というのは、そういう「巨悪」というほどの大悪人ではないということなのでしょう。

歌舞伎の本流である「団菊」に取り上げられて・演出を洗い上げられなかったことが、この作品の評価を不当に低いものにしているのは間違いないようです。しかし、五代目菊五郎が長庵を恐らく芸風に合わないということで意識して避けたと思われること・九代目団十郎がスケールの大きい悪を描こうとして失敗したことなどは「村井長庵」という役・さらには四代目小団次という役者の個性を考える上でのヒントになるかも知れません。


2)「恨みがあるなら金に言え」

六代目菊五郎も大正9年1月・市村座で、一度だけ長庵を演じていますが、これも好評とは言えなかったようです。この時、菊五郎は「赤羽橋・重兵衛殺しの場」での長庵の台詞「むごい殺しも金ゆえだ。恨みがあるなら金に言え」をカットしてしまいました。あとで菊五郎は、「あのセリフは言ってられません」と岡村柿紅に語ったそうです。これは当時の警視庁に配慮したという理由もあったようですが、しかし、菊五郎は極悪人・長庵に共感できるところを見付けられなくて、役作りに相当苦労したらしいことがその発言からも伺われます。

悪事の動機が納得できれば悪人に共感できるというわけでもないでしょうが、しかし、長庵の場合は殺人の動機が怨恨だとか・やむに止まれぬというものがなくて、ただの「金欲しさ」だけなので、どうにも役の組み立てがしにくいのでありましょう。芝居には長庵が生活に困窮しているとか・借金取りに追い回されているとか、そういう場面が出てこないので、長庵が「金が欲しい」ことさえその必然性がつかみにくく、長庵が性格破綻者的に見えてくるのでありましょう。

長庵の生活が困窮していることが伺われるのは、三幕目「長庵内の場」において、長庵宅に行こうとする千太に、通り掛かりの酒屋の丁稚が「お前掛かるならおよしなせえ、あの人は下手だぜ」というのがヒントになるくらいです。この丁稚はなかなか口が悪くて、長庵にも「へえお前にも病家がありますかえ」と言っていますが、ということは当然ながら医者としての収入がないことになる、ということは普段から強請り・盗みを常習としていたであろうことは間違いないと思われるのです。

長庵自身も「借り長屋でも玄関付、やわらかもので世を送り、わずか五軒や七軒の病家先から持ってくる三分礼じゃ埋まらねえ」と言っています。もっとも身分不相応に贅沢している感じはありませんし、玄関付きの長屋に住みたいから人殺しするというのも、現実の殺人の動機なんてそんな程度のものかも知れませんが、動機が所帯じみてていまひとつ「悪の魅力」とやらを感じさせてくれません。

ところでこの芝居を読んでいると、この「赤羽橋の場」で殺される藤掛重兵衛(長庵の妹婿)は塩治家の浪人ということになっています。ということは背景に「忠臣蔵」の世界があるということなのですが、あまり芝居の本筋・長庵の悪事に「忠臣蔵」が関係するようには思われません。

しかし「赤羽橋の場」だけ見るとこれは明らかに「五段目」を踏まえている、とも思えます。塩治浪人・重兵衛ですが、これは病気の母親のために自ら望んで吉原に売られた娘の代金・五十両を、故郷に帰る途中の赤羽橋で長庵に殺されて奪われることになっています。これは娘・お軽を売った代金・五十両を定九郎に奪われた百姓・与市兵衛とまったく同じ設定です。舞台を見た目はそれほど似てはいないし、長庵も定九郎を気取る風でもないけれども、確かにこれは黙阿弥版「五段目」なのかも知れません。

だとすると、重兵衛殺害の現場で長庵が言う「むごい殺しも金ゆえだ。恨みがあるなら金に言え」はやはり重要な台詞だと言わざるを得ません。これは定九郎が与市兵衛に止めを刺しながら言う台詞・「オオいとしや、痛かろけれど俺に恨みはないぞや。金がありゃこそ殺せ。金がなけりゃコレなんのいの。(「こんなことはしない」の意)金が敵じゃいとしぼや。」に照応すると思われるからです。逆に言えば、長庵は定九郎程度の端敵である、ということでもあります。(これについては「仲蔵の定九郎の型はなぜ残ったのか」をご参照ください。)


3)「世直しもの」としての「村井長庵」

泥棒を主人公にした「白浪もの」が幕末に爆発的に流行し、世に四代目小団次は「泥棒役者」・黙阿弥(当時は河竹新七)は「泥棒作者」と呼ばれました。その理由は、「白浪もの」とはある種の「世直しもの」なのであるということは別稿「小団次の西洋」において考察しました。それでは、小団次・黙阿弥の提携作品のなかでも特異な位置を占めると思われる・この「村井長庵」という芝居を「世直しもの」として見ることができるかを考えてみたいと思います。

「村井長庵」という芝居は、どちらかと言えば色気も薄く・地味な芝居のように思われます。また、一方でお奉行を前にしての白洲でのやり取りなどかなりリアルな科白劇であり、一般のイメージにある「音楽的様式美の黙阿弥」のイメージからはもっとも遠い芝居です。まず、このような「写実の悪・等身大の悪」、つまり、逆に言えば「英雄化・理想化できない悪」を小団次・黙阿弥が創造したことに注目したいと思います。

これは「白浪もの」の流行に恩恵を受けながらも、小団次・黙阿弥は冷静にブームを見つめていた、ということなのでしょう。大名・商家に押し入って盗みをはたらく大泥棒を庶民は「ざまあ見ろ、自業自得だ、これぞ下々安穏の平均だあ」とヤンヤと拍手喝采したかも知れません。庶民はすこしばかり鬱憤を晴らすことができたでしょう。そこに「世直し」の原動力がほの見えたことも確かです。しかし、やっていることは所詮は盗み・かたりであって、そんな悪事で世の中の仕組みが変わるわけでもなんでもありません。実際の泥棒はと言えば芝居とは違って、これはどうしようもない男たちばかりです。このことの「虚しさ」を一番感じていたのは、小団次・黙阿弥であったのかも知れません。彼らは、「白浪もの」を作り出していくなかで、「写実の悪・等身大の悪」を一度はここまで突き詰めてみる必要があったということなのではないかと思うのです。この「村井長庵」は小団次・黙阿弥の「実験作」なのではないでしょうか。

長庵が奉行・大館公(=名奉行・大岡越前守)に対して言う科白・「へへへ、世間の人の噂には大館公は名奉行、勝れた智者の仁者のと評判するのは大違え、おれが目からはただの人間、あんまり褒めた人でもねえなあ」は注目される科白です。普段は控えめで小心者という感じさえする黙阿弥にしては思い切った科白ですし、これでお上のお咎めがよく無かったものだと言う気がします。しかし、この科白が黙阿弥がこの芝居で一番書きたかった科白のように思われます。

この科白の後で長庵は拷問を受けるために奥に引き立てられたまま芝居にはもう登場して来ません。主人公にしては何だかあっけない消え方なのです。この後、白洲では番頭・久八(小団次の二役)の忠義の件などがあり、奥より役人が出てきて「強情不敵の村井長庵、先非を悔いて悪事の段々、ただいま白状致してござりまする」と報告します。この場面はちょっと白けます。昭和五十四年八月国立劇場で吉右衛門がこの芝居を演じた時にもこの場面で観客がドッと笑いましたけども無理ないような気がしました。ふてぶてしい態度を続けていた長庵があっさり先非を悔いてしまうと「ナーンだ」という感じがしてしまいます。

こうなると大館公の「性は善なるものじゃなあ」・「ああ、悪は滅び、善は栄え、めでたいめでたい」という科白も取って付けたみたいで白々しくて、あんまり重い意味を持って来ないように思われます。しかし、まさにそれが黙阿弥の狙いであったのかも知れません。この芝居は講談で人気のある「大岡政談」が元になっているわけですが、黙阿弥はお定まりの「大岡政談」の枠を借りながら実はこれを意図的に骨抜きにしていると感じられます。

これを考えるには、江戸時代の庶民にとって「お上」とはどういう存在であったか、ということを考えてみなければなりません。江戸時代の庶民から見れば、「お上」というのは公正な判断・正義の代弁者では決してなかったのです。もちろん庶民の味方などではあり得ません。庶民に自由な発言が許されるわけではなく、裁判においてもただ「お上のお慈悲」にすがるしかありませんでした。お上に「公正な判断」など望むことはできなかったのです。

この「勧善懲悪覗機関」においても無実の浪人・藤掛道十郎が長庵に無実の罪をかぶせられて引き立てられます。道十郎の申し立て・家族の訴えにも耳を貸さず・十分な詮議もしないままに、役人は道十郎を犯人を決め付けて引っ立ててしまいます。大館公(=大岡越前守)もいかに「智者・仁者」だとしてもそうした「お上」の同類には違いないのでして、ただその慈悲心の厚さによって庶民に「いいお方だ」と言われているに過ぎません。大館公も長庵の反論に窮してしまって自白に追い込むことができず、結局、長庵を拷問に掛けねばならなくなります。

黙阿弥は、この芝居において「英雄化・理想化のできない悪」を描くと同時に、相対的に「理想化されないお上」を描いているのかも知れません。決してお上を否定しているとは思いません。そこまですれば当時なら即上演停止のことですから。しかし、「世間の人の噂には大館公は名奉行、勝れた智者の仁者のと評判するのは大違え、おれが目からはただの人間、あんまり褒めた人でもねえなあ」という科白はやはり凄い科白です。お上だってただの人間じゃないかというのです。お上を見つめる醒めた目を感じます。そのような「理想化されないお上」の真の姿 を描くためには、その一方に長庵のような「共感できない・理想化できない悪人」が必要だったのではないでしょうか。

(H14・6・29)



 

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