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曽根崎心中・観音廻りの意味

〜「曽根崎心中」


1)近松のリアリズム

吉之助は近松の心中ものを「ロマンチックなもの」として見ることができません。こう思うようになったきっかけは、「心中天網島」の心中場面で治兵衛が首をくくる箇所で「生瓢(なりひさご)、風に揺らるるごとくにて」という文句を読んだ時でした。この表現には思わず背筋が寒くなってしまいました。木にぶら下がった治兵衛の身体がゆらゆらと揺れている情景を近松はこう表現したのです。残酷なほどに対象を突き放したリアリズムです。

心中の場面の近松の表現はじつにリアルで凄惨を極めます。たとえば、「曽根崎心中」のお初・徳兵衛の心中場面では、

『眼(まなこ)もくらみ、手を震い、弱る心を引き直し、取り直してもなお震い、突くとはすれど、切っ先はあなたへはずれ、こなたへそれ、二・三度きらめく剣の刃、あっとばかりに喉笛に、ぐっと通るが、南無阿弥陀、南無阿弥陀、南無阿弥陀と、刳り越し、刳り越す腕先も、弱るを見れば、両手を伸べ、断末魔の四苦八苦、あはれと言うもあまりあり』

また「心中天網島」の小春・治兵衛の心中場面では、

『七転八倒、こはいかに、切っ先喉の笛をはずれ、死にもやらざる最後の業苦。ともに乱れて、くるしみの、気を取り直して引き寄せて、鍔元まで刺し通したる一刀(ひとかたな)えぐる苦しき暁の、見果てぬ夢と消え果てたり。』

と書いています。こうしたリアルな凄惨な描写の果てに「心中」があるということを知ると、 吉之助は近松の心中ものが「ロマンチックなもの」とは決して思えないのです。

こうした地獄の苦しみを経ないと、「未来成仏疑いなき、恋の手本となりにけり」(「曽根崎心中」末尾)・「成仏徳脱の誓いの網島心中と、目ごとに涙をかけにける」(「心中天網島」末尾)という至福の結末が二人に来ることはないのでしょう。「その覚悟がないならば、心中などするでない」と近松は言っているように思います。現代での歌舞伎の舞台のように、目を閉じて手を合わせたお初に徳兵衛が脇差を構えたところで幕が下りるのでは、ホントは近松の本意は伝わらないのかも知れません。


2)お初観音廻りの意味

「曽根崎心中」は近松の世話浄瑠璃の第1作目でありました。江戸時代の世話物というのは時代物のあとの第二部として上演されるのが通例でした。この「曽根崎心中」も初演(元禄16年:1703:竹本座)では、本作に先立って時代浄瑠璃の「日本王代記」が上演されています。「曽根崎心中」では冒頭にお初観音廻りが設定されていますが、これはひとつには、時代物から世話物への移行に際して、気分を変えるための間狂言の意味があったと言われています。近松はここで当時の大坂の町人に流行していた観音廻りの習俗を取り入れて、観客の関心を引いています。

ひとりの美しい女が駕籠から出てきて、大坂三十三箇所の観音廻りをします。女の名は明らかではありませんが、歌詞には「十八・九なるかおよ花」で、つまり年頃18・9歳の美人(かおよ)だと言っており、「今咲き出しのはつ花に」で、「お初」の名前を掛けています。三十三番の観音札所を巡礼すると、その罪は消えてしまうといわれています。女はまず天満の大融寺を皮切りにして、三十三の札所を巡っていきます。「観音さまは衆生を救おうと、三十三のお姿に身を変えて、人々を色で導き、情けで教え、恋を悟りの橋にしてあの世へ掛けて渡してくだされる、その誓いは言いようもなく有り難い。」

観音廻りは、現在の舞台では歌舞伎でも文楽でも上演されることがありません。それにはいろいろ理由がありますが、ひとつには作品として見た場合にこの部分がちょっと異質に感じられるからです。これは芝居ではなく、かといって景事という感じでもなく、ほとんど独立した神事といった感じです。後の場への関連性を感じさせませんし、舞台に掛けるにはやりにくいのでしょう。

しかし、世話浄瑠璃のジャンルを切り拓いたと言われる「曽根崎心中」にとって導入部の観音廻りは非常に重要な意味があったと思います。これはベートーヴェンが交響曲(第9番)に声楽を取り入れる最初の試みに当たって、第4楽章でバリトン歌手が「ああ、友よ、そんな調べでは駄目なのだ、声を合わせてもっと楽しく歌おうではないか」という第一声を発するまでに、それが聴衆に必然と感じさせるための論理的手続きを念入りに構築したのと同じような意味を感じます。ほんらいは純器楽であるはずの交響曲のジャンルに人声を取り入れるという「革命」を行なうには、それなりの必然が必要なのです。

観音廻りにおいて、近松はお初の魂を呼び出し、三十三の観音札所を巡らせるなかで、世俗の垢・煩悩を洗い落とし、その魂を浄化して神々しいお姿に変化させていきます。そして観音廻りの最後で近松はお初に役割を与えるのです。近松は、お初のことを「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」だと言っています。これは「曽根崎心中」の結句「未来成仏疑いなき、恋の手本となりにけり」と照応しています。

この観音廻りは、何よりもまず、当時の観客である大坂の人々のために必要な手続きであったと思います。お初・徳兵衛の心中は元禄16年4月7日曽根崎天神の森でのことで、近松の浄瑠璃は同じ年の5月7日が初演でしたから1ヶ月しか立っていません。まだまだ事件は生々しい記憶で人々の心のなかに残ってい ました。いろんな噂が飛び交っていたかも知れません。二人の心中に対するイメージも固定していたとは思えません。そうした大坂の観客のほてった心を冷まして、「澄んだ心でお初・徳兵衛の生き様を見て欲しい」と近松が願ったとしたら、やはりこうした手続きが舞台で必要ではなかったかと思うのです。

事件の後に、それを即席で劇化することは浄瑠璃でも歌舞伎でもよく行なわれました。それらは「際物(きわもの)」と呼ばれました。しかし、そこは天下の近松門左衛門です。三文新聞的な下世話な興味と趣向だけで安易に事件を扱うことなど近松は考えません。そのドラマに人間の真実を抉り出すような「生き様」が見出されないのなら、近松はその事件を浄瑠璃の題材に選ぶことは決してしなかったでしょう。

ところがこういう際物を見る時には、観客の方もある種の期待と先入観を以って芝居を見ようとしがちなものです。その対策のために近松が考えた仕掛けこそ観音廻りで あったと思います。ここで近松は神事を借りて、あの世にあるお初の魂を呼び出し舞台上に現し、お初の役割を「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」と明確に規定しています。これによりこの後のドラマの展開をスムーズにしようと試みているのです。「曽根崎心中」のドラマとは、お初が自らを「恋の手本」に昇華せしめた、その生き様を舞台に再現しようとするものです。

このような試みは、近松がこの作品を一気に書き上げたのにもかかわらず(舞台稽古の必要性も考えれば、構想から執筆までほとんど1週間位で書き上げたとしか思えません)、実に用意周到・準備万端といった感じがします。これは驚くべきことです。「曽根崎心中」は、歌舞伎作家として名をなしていた近松が浄瑠璃に復帰第1作でした。逆に言えば、失敗が許されない状況で近松が仕掛けたのが観音廻りの趣向であったということです。(近松の浄瑠璃との係りについては別稿「近松門左衛門:浄瑠璃への移籍」をお読みください。)

ここにおいて、後世の人々において観音廻りの存在の意味がなかなか理解されず、上演もされない理由も明らかだと思います。観音廻りというのは同時代の人々(元禄の大坂町民)のためだけに書かれたものだからです。観音廻りによって浄化されるのはお初の魂だけではありません。当時の大坂の観客たちの心もまた浄化されたのだと思います。

こうして近松の心中場面のリアリズム・観音廻りの意味を考えてみると、近松が「曽根崎心中」で描き出こうとしたものが見えてきます。そこで近松が描こうとしたものは、死への賛美などではなく、ひたすらに・懸命に生きようとするお初の生への意欲なのです。

(H13・12・9)





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