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曽我の雨〜曽我兄弟をめぐる女たち

〜歌舞伎十八番の内「助六由縁江戸桜」


1)兄弟をめぐる女たちの物語

昔の人は陰暦の5月28日頃に降る雨のことを「曽我の雨」と呼びました。あるいは曽我十郎の恋人「大磯の虎」の悲しみの涙だということで「虎が雨」とも呼んだそうです。これは曽我兄弟の仇討ちがあった建久4年(1193)5月28日の天気が雨であったと言われていることから来ています。

歌舞伎十八番のなかでも人気の高い「助六由縁江戸桜」において、花川戸助六(じつは曽我五郎時致:ときむね)が蛇の目傘をさして花道に登場するのも、吉原仲ノ町の桜の花吹雪・きせるの雨を傘で受けようというような伊達でさしているわけではなくて、じつは「曽我の雨」というものが江戸庶民にも広く浸透していたことを示すものです。

ところで曽我兄弟の仇討ち当日が雷雨であったというのは、「吾妻鏡」に「雷雨鼓を打ち」とあり、「曽我物語」真名本にも「雨は居(沃)に居て雨(降)る」という表現があることが根拠になっています。しかし調べてみると、当日の天気を証明する日記・記録などは他には残っておらず、前後の記録からするとどうもこの年は「空梅雨」であったようです。それどころか仇討ちから20日ほど後になる6月20日にあまりに日照りが続くため鎌倉の鶴岡八幡宮で「雨乞い」の儀式が行なわれたとの記録があり、どうも「仇討ち当日が雨だった」というのは作り話であった可能性が高いようなのです。

「吾妻鏡」は鎌倉時代の一級資料とされていますが曽我兄弟の仇討ちよりはるかに後の鎌倉末期の成立であり、また「曽我物語」は室町時代の成立とされています。「『吾妻鏡』の編纂官が天気を雷雨にしたのは、仇討ちが雷雨の中で行なわれたというほうがより壮絶で劇的なイメージとなるのでそうしたのだ」という見方もあるようですが、むしろ「時を経てこの田植えの季節に雨を待ち焦がれる人々の気持ちと曽我兄弟の仇討ちの記憶とが入り混じって、庶民がこの時期の雨を『曽我の雨』あるいは『虎が雨』と呼ぶようになった」ことを取り込んだものと考えた方が自然なように思われます。

「大磯の虎」は遊女ですが、縁あって兄弟の兄十郎と深い契りを結びます。仇討ちの後、虎はひとり十郎の死を嘆き悲しんでいましたが、建久4年9月上旬、虎は兄弟の百ケ日の供養が箱根で営まれるという話を聞いて曽我の里を訪れます。そして兄弟の母に合い、兄弟の思い出を語り合います。法要のあと、虎は剃髪して禅修比丘尼(びくに)となり、諸国行脚の旅に出ます。このとき虎御前は19歳。聖女となって兄弟の供養につとめ、曽我物語の唱導(しょうどう)普及に命を捧げます。

そして四十数年のち、ある日の夕暮れ、虎が庵の門に立っていると、庭の桜の小枝の下がっている姿が十郎に見えるではありませんか。虎は思わず駈け寄ろうとして倒れてしまいます。その時から病を得た虎はやがて亡くなります。64歳のことでした。『曽我物語』真名本は、この虎の大往生によって全十巻を閉じます。

「曽我物語」はもともと箱根権現の霊験物語として発生したものといわれていますが、それが庶民の信仰として広まっていったのには、この物語を語り歩く遊行巫女(ゆぎょうみこ)の存在が大きかったと思われます。「曽我物語」は兄弟の苦難の仇討ち物語である以上に、虎御前の鎮魂と救いの物語であるのです。(本稿では虎御前に焦点を合わせているので、これ以上は触れませんが、曽我兄弟の母親の存在も「曽我物語」では大きいのです。ある意味で「曽我物語」とは兄弟をめぐる女たちの物語であり、だからこそ女たち(巫女たち)によって共感をもって語り広められたのでしょう。)

これは吉之助の推論でありますが、曽我兄弟は御霊神と言われていますが、この時期の雨を「虎が雨」と呼ぶことでも分かるように、じつはその信仰の背後には荒ぶる魂への仏教的な鎮魂・癒しの念が隠されているように思われます。つまり曽我信仰は女性的な庇護のイメージなくしては存在しない、そのように思われます。

この点において曽我兄弟に対する御霊信仰は、平安期の貴族の間で盛んであった御霊信仰とは質的に異なります。平安期の御霊信仰はある意味で反仏教的であって原ニッポン的土着信仰の深層心理的な発露のように思われます。そのような貴族の御霊信仰とは違って、民衆はもっと情緒的に・仏教説話的に御霊をとらえる、そんな感じがします。その違いが分からないと曽我信仰は理解できないし、義経信仰(その死の経緯からすれば御霊とされてもおかしくないのに御霊ではない)も理解できないように思われます。


2)「助六」はなぜ曽我の世界なのか

正徳3年(1713)に二代目団十郎が山村座において「助六」を上演した時には、助六は実は曽我五郎だという設定ではなく、これは3年後(享保元年:1716)の再演からのものだそうです。どうして「助六」が曽我の世界に結び付けられるようになったのでしょうか。ただのこじつけで趣向の面白さだけを狙ったものなのか、それとも「曽我の世界」を持ち込ねばならない必然性がこの芝居にあるのでしょうか。

こういうことは余り研究がされていないようです。「『助六』が曽我の世界だということは観客にとってはどうでもいいことだ」と書いてある解説本さえあります。たしかに助六が曽我でなくても芝居は成立するでしょうが、しかし曽我の世界を持ち込むなら、やはりそれを連想させる何ものかが作品のなかにあると考えるのが普通ではないでしょうか。歌舞伎の狂言作者だってそれほどいい加減じゃないと吉之助は思うのです。初演と再演の台本を比較検討することでそのヒントが得られるかも知れませんが、ここでは素人らしく素手で考えてみたいと思います。

まず考えるなら「大磯の虎」が遊女であった、つまりイコール「吉原」という連想でありましょうか。ただし「虎」は兄十郎の恋人であって五郎の恋人ではありませんから、揚巻のモデルが直接的に「虎」ではないでしょうが、あるいは類似の発想があったかも知れません。「曽我の世界」は女性なしでは成立しないのですから。

確かに吉原というところは地方から来た人間が氏素性を隠して潜入しながら敵と付け狙う人間の情報収集をするのには好都合な場所だったでしょう。しかし「曽我物語」との連想からしますと、そこは助六にとってはまず「女性によって守られる場所」であったと思います。そのことがはっきり分かるのは、助六が若い者たちに取り囲まれた時に揚巻は打掛けのなかに助六を隠し啖呵を切る時です。この時に揚巻は助六を打掛けのなかにくるむことで、いわば胎内のなかに取り込むイメージを示します。

「待ちや待ちや。そんならこの揚巻がうそをつくと思いやるか。うそをつくような女郎じゃないぞえ。そりゃなんじゃ、棒振り上げて、わしをどうしやる。悪う棒三昧して、その棒の端の、わしが身へちょっとでもさわると、五丁町は暗闇じゃぞ。」

胸のすく揚巻の啖呵です。実際、「助六」を見ますと主人公である助六以上に大きい存在が揚巻であると思います。助六は揚巻の庇護のもと、吉原でやりたい事をやっているだけの子供みたいに見えます。

「アア、おいとしやなあ。あのお袋様は、助六さんゆえに子故の闇。わしはまた恋路の闇。何かにつけて、女子程はかないものはないわいなあ。」

この揚巻の科白は重要だと思います。助六の行動をはらはらしながら見守り、時に庇護する母親と揚巻の姿は、そのまま曽我の母親と虎御前の姿と重なるのではないでしょうか。だから「助六」は曽我の世界に設定されたのではないかというのが目下のところの 吉之助の推測であります。「助六」も曽我物語と同様に、また「女たちの物語」なのです。

(参考文献)

坂井孝一:「曽我物語の史実と虚構」(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー107)

(追記)

「助六」はなぜ曽我の世界なのか、について更に考える別稿「中心としての曽我狂言」もご参照ください。

(H13・5・6)





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