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平右衛門は単純人間なのか〜江戸庶民にとっての「忠臣蔵」

〜「仮名手本忠臣蔵・七段目」


本稿は「平右衛門:足軽身分の悲哀」の続きです。もともと平右衛門の一家は武士ではなく京都郊外山崎の地の農家ですが、仇討ちの資金調達のために平右衛門の実父与市兵衛は定九論に殺され(五段目)、義理の弟勘平は腹を切る破目になり(六段目)、さらに妹お軽は祇園に身売りします。(七段目)つまり平右衛門の家族は塩 冶判官の刃傷と仇討ちの企てのために崩壊してしまったのです。こうなると、普通なら武家へのお勤めなんぞ真っ平ご免だと思いそうなものですが、平右衛門はそれでも仇討ちに参加させてもらいたいと願いサムライに憧れる、健気ではあるが単純一途な人間であるという見方もあるようです。

そこで本稿では「平右衛門は決して単純人間ではなく、主君の仇を討つことが立派な行為と信じるからこそ平右衛門は仇討ちに参加したいと願うのだ」ということを考えて、平右衛門を弁護したいと思います。別稿「平右衛門:足軽身分の悲哀」において、「庶民は平右衛門に感情移入して見ていた」と書きました。もし平右衛門が「単純人間」ならば、彼に感情移入していた庶民も単純だと言わなければなりません。この問題を考えるためには、平右衛門が憧れた「武士」という存在、とくに「赤穂義士」という存在を庶民がどう見ていたのかを考えてみなければならないでしょう。

「仮名手本忠臣蔵」大序の冒頭に「国治まってよき武士の忠も武勇も隠るるに。たとえば星の昼見えず、夜は乱れて顕るる」とあります。言い換えれば、平和でみんなが安穏に暮らしている時にはまことの武士の忠も武勇も役には立たないが、いざという危急の時にこそその武士の真価が問われる、ということでしょうか。

ほんらい武士とは剣で闘う男たちであったはずでした。しかし現実には大坂夏の陣以降に武士はその本来の力を発揮する機会はほとんど失われてしまいました。武士にとってすぐに役立つのは忠義と武勇ではなく、世渡り術と教養になってしまったのです。宮本武蔵は必死でその武芸を磨きましたが、結局その武芸を生かす機会には恵まれませんでした。こうしたなかで武士たる者のアイデンティティーをいかにして維持するか、これが徳川三百年の太平のなかで武士を苦しめていた大問題であったのです。

「武士道」という概念は戦国の世で生まれたものではなくて平和の時代の「徳川の世」になってからのもので、「平和の時代に武士とはいかにあるべきか」を考えるために生まれたものでした。有名な「葉隠」の言葉「武士道とは死ぬことと見つけたり」は、戦いに直面することのなかった武士に突きつけられたアンチテーゼでした。

社会に対して生産手段を持たない武士は、闘う機会を失ってしまった時から去勢されたような状態になってしまったのです。「俺は武士だ」という誇りを維持するために、「武士道」にしがみつかねばならなくなります。こうなると、日々の生活のためにあくせくしている庶民のほうがむしろつまらない去勢を張らなくていいだけ楽ですし、もともと庶民は「日々の生活が戦いだ」という感じですから、庶民の方が武士よりピリッとしていて生き生きしてくる、ということになってしまう。これが江戸時代の皮肉な一面だと思います。

江戸時代の庶民教育(主として寺子屋教育ですが)というのはその初期においては「強い者を賛美し卑怯を憎む」という程度のもので、忠義を教えるというようなことはあまりなかったようです。曽我兄弟はよく題材として取り上げられましたがそれは兄弟が勇敢だからで、親への忠孝というということで称えられたわけではなかったようです。赤穂義士の討ち入りのあった元禄14年(1701)ごろはまだそういう感じが強かったようです。

それが変化してきたのはちょうど「忠臣蔵」の初演された寛延元年(1748)頃からのことで、そのころから寺子屋では菅原道真や楠木正成などを題材に忠義を盛んに説くようになってきました。それはその頃から町人経済が台頭してきたことが背景になっています。そして庶民はそのシステム維持のために次第に武士の論理を吸収していきます。武士道が庶民のモラルになっていくのです。

大坂の商家での主人と使用人の関係は、まさに武家の主従関係と同じでした。いや、むしろ大坂商人の世界の方が厳格であったのではないか、とさえ思います。商家では家の存続が第一とされ、その主人が無能であれば店を追われることさえ稀ではありませんでした。大坂の商家では後継ぎとして男の子が生まれるより女の子が生まれる方が喜ばれました。女の子ならば使用人の中から優秀な者を選んで結婚させることができる、この方が店を存続させる確率が高かったからです。浄瑠璃で描かれる武士の忠義の世界はそのまま大坂商人の道徳の鑑であったと言えます。だからこそ赤穂義士は庶民にとっての「仮名手本」であったのです。

赤穂義士の討ち入りは「仮名手本忠臣蔵」初演より47年前のことですが、その元禄の世にあってさえ、「こんな武士がまだいたのか」という驚きをもって受け止められたようです。当時の庶民教育の感覚からすると、その忠義を賛美するよりもその死をも恐れぬ勇気に感動する声が多かったのではないでしょうか。

江戸時代には仇討ちがいっぱいあったように思われていますが、その大半は私怨によるもので主君のために仇を討ったという例はたった二件しかありません。ひとつはこの赤穂義士の件、もうひとつは享保9年に石見の浜田城主松平周防守の江戸屋敷で起こった事件で、中老のお道という女性が同じく中老の沢野という女性に辱められて自害したのをお道に仕えていた女中お里が復讐したという話です。これは俗に「女忠臣蔵」と呼ばれて、後に浄瑠璃・歌舞伎にもなって「加賀見山旧錦絵」という人気狂言になっているものです。

記録によれば、赤穂義士が切腹した同じ元禄16年(1703)2月に江戸中村座でさっそく赤穂義士が題材にされ、「曙曽我夜討」が上演されていますが、さすがに3日で上演禁止を喰っています。ここでは仇討ちということで単純に曽我の世界が連想されたようです。

またその3年後には近松門左衛門が「兼好法師物見車」で世界を太平記にとって塩冶判官と高師直を登場させました。ここでは大石は八幡六郎という名前になっていますが、近松はさらにその翌月に「碁盤太平記」をその後日談という形で出し、前作の八幡六郎が大星由良助に改名したことにしています。このあたりになると作品の背景がじっくり仕組まれてきた感じがします。おそらく赤穂義士の情報も整理されてきて事件の概要が庶民にも見えてきたことが関係しているでしょう。

こうしていくつかの先行作品のアイデアを取り込む形で「仮名手本忠臣蔵」が成立するわけですが、仇討ち事件から47年もたって芝居や講談・読本などで赤穂義士が語り継がれていくなかで、「赤穂義士の忠義」は庶民にも共通するモラルして理想化されて作品のなかに結実していると感じます。「忠臣蔵」を官僚批判・賄賂主義批判として読むことももちろん可能だと思います。しかしそういう読み方はちょっと深読みでして、(こういう読み方も細部の検討の場合には有効な作業で本サイトでもこうした読み方をご披露することはあるでしょうが)全体はもう少し素直に読んだほうがいいようです。

吉之助は、江戸時代の庶民が芝居で武士の仇討ちや身替わりの話を見る時に、「武士というのは阿呆なことをするもんだ」とか「武士の論理は我ら庶民には関わりのない非人間的論理だ」などと思って見ていたなどとは思えないのです。武士の話を違う世界の出来事だという風に他人事のように庶民がみていたなんて思えないのです。歌舞伎も文楽も庶民のための芸能なのですから。

「芝居見物は人生修養である」という考え方は昔からありました。大坂の商家では丁稚に入った子供たちに歌舞伎や浄瑠璃をよく見せたもので、これはひとつは言葉遣いを学ばせるためでしたが、(これについては別稿「町人階級と浄瑠璃」をご参照ください。)もうひとつは忠義・孝心といった人としての徳を学ばせるためでした。

平右衛門に話を戻しますと、彼は「主人のために仇を討つ」という行為に「武士の理想」(と同時にそれは「人としての誠の道」でもありました)を感じ、すべてを投げ出してそれに奉仕しようとしているわけです。それを「単純一途」と感じるのはそう受け取る人の感性ですから何とも言えませんが、やはり 吉之助には同意しかねます。平右衛門の「武士に憧れる」姿、「討ち入りの仲間に入りたい」と願うこころを、素直に受け止めてやってもらいたいものです。平右衛門のこころは江戸時代の庶民のこころでもあるのです。

(追記)

「武士道」とか「忠義・孝心」などという言葉は、封建主義と結び付けられて死語のように思われていますが、現代にも通用する「人としての誠の道」に通じています。そういうものを退けて、歌舞伎・浄瑠璃を親子の愛・男女の愛・政治批判などだけで読もうとする傾向が昨今は強いように思いますが、それだけだとドラマの本質をとりこぼすと思えてなりません。

(H13・2・25)



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