(TOP)             (戻る)

吉之助流「歌舞伎の見方」講座

第27講:対談「日本の伝統芸とコトバのリズム」映像

(渡辺知明vs山本吉之助, 2022.8.4)


1)対談「日本の伝統芸とコトバのリズム」映像公開

「表現よみ」(コトバ表現とその朗読法)を研究なさっている渡辺知明先生から提案をいただきまして、先日(8月4日)、「日本の伝統芸とコトバのリズム」というテーマで対談を行ないました。その時の映像が、渡辺先生のYoutubeで公開されましたので、紹介をいたします。

対談「日本の伝統芸とコトバのリズム」映像
(渡辺知明vs山本吉之助, 2022.8.4)

渡辺先生は、40年の長きに渡り、朗読分野での日本語とその表現に関する実践的研究を続けて来られました。著作ばかりでなく、Youtubeでも古今の名作の朗読映像を多数アップしていらっしゃいます。渡辺先生は、武智鉄二との関連で吉之助のサイトに辿り着き、吉之助の(主としてリズムの見地から論じた)伝統芸能に関する台詞の様式論に興味をお持ちいただいたそうです。吉之助は、歌舞伎の「アジタート」(音楽用語としては、激しく・苛立つようにと云う意味)な気分が、どのような形で演劇様式として定着するかということを、長年考えて来ました。渡辺先生は、朗読というお立場から言葉の表現方法を考えていらっしゃるわけですが、そのなかでアプローチは異なれども、吉之助と同じような結論に至っていることが、この対談からもお分かりいただけるかと思います。対談させていただいて、吉之助も大いに鼓舞されました。対談では、吉之助が普段考えていることを要領良く引き出していただいたことは、大変有難いことでした。この映像は普段吉之助の「歌舞伎素人講釈」をお読みいただいている方にも良い手引きになるものと思います。

なお渡辺先生は、これまでに20人以上の各方面の表現に係わる方々との対談映像をYoutubeにアップしていらっしゃいます。ご興味あれば、その他の映像もご覧ください。渡辺先生の素晴らしいところは、ジャンルの異なった表現関係の皆さんと分け隔てなく接して、色んな知見を柔軟に取り入れ、自らの理論の懐をどんどん深くしていらっしゃることです。この姿勢は大いに見習いたいものだと思っています。

渡辺知明先生の「表現読み」研究サイト

(R4・8・9)


2)朗読と演劇の台詞・オペラ歌唱との関係

渡辺知明先生と吉之助との対談「日本の伝統芸とコトバのリズム」映像はご覧いただけましたでしょうか。

東京春音楽祭の「イタリア・オペラ・アカデミー」でリッカルド・ムーティは、歌唱に生きた感情を盛り込むために、台本を繰り返し声に出して読むべきであると言っていました。歌手は旋律を美しく歌うのが仕事です。しかし、ただ旋律を滑らかに美しく響かせるだけではダメです。そこに生きた感情を盛り込まなければなりません。旋律の基礎となるものは自然な会話の息・抑揚ですから、これをしっかり掴むために、まず台本を口にして朗読すべきだと言うのです。

「ヴェルディは言葉が歌になるまで、何度も何度も繰り返し台本を口にして読んで、そうやって旋律を書いたのです。ヴェルディは、すべての音は歌われるべきであると言いました。メロディを歌うのが、私たちの仕事です。そのためには、歌詞の息と意味、次のフレーズ、そのまたフレーズの先のことまで考えてやってください。」(リッカルド・ムーティ)

ピアノ・リハーサルでムーティは、イタリア出身でない歌手の発音の、実に些細な違い(訛り)を指摘して、根気よく修正していました。それは我々日本人からすると、ネイティヴはこだわるかも知れないが、どちらでもそう大した違いがないじゃないのと思うくらいの、些細な違いです。ところが、驚くべきことに、そうした訛りが修正されるに連れて、歌唱がまるで別もののように生き生きして来るのです。作曲者(ヴェルディ)が台本を朗読する息に近づくことによって、作曲者のなかで旋律が生成する秘密に少しづつ迫っている実感があるのです。これは実にスリリングな体験です。

演劇においても、サラ・ベルナールでも九代目市川団十郎でも、偉大な舞台俳優の台詞は、しばしば「音楽を聞くようだ」と評されるものです。しかし、いきなり抑揚をつけて・言葉を転がして「歌うかのように」台詞をしゃべろうとしても、無駄なことです。「まるで音楽を聞くようだ」となるのは結果論に過ぎません。台詞術の基礎にあるものは、自然な会話の息・抑揚です。だから台本を手にしたらまずは、繰り返し何度も台詞を朗読すべきです。台詞術の基礎は朗読であると云うことが、昨今の演劇では、方法論としてどれくらい意識されているのでしょうかねえ。

このように書きますと、自然な会話の息・抑揚と、舞台俳優の台詞と、オペラ歌手の歌唱との間に、吉之助がまるで境目を見ていないように読めるかも知れませんが、或る意味においては、その通りであると思います。吉之助は、演劇の台詞でもオペラ歌唱であっても、すべての基礎は朗読にあると考えています。そこに「写実」表現の原点を見るということです。

しかし、このことは、朗読を高めたものが演劇の台詞であり、そのまたさらに高めたものがオペラ歌唱だと云うことではありません。ヴェルディが言葉を歌にしたのも、そのようなプロセスではありません。そこは誤解をしないでいただきたい。そういえば、ベルトルト・ブレヒトが次のように書いていますね。

『歌を歌うことで、俳優はひとつの機能転換を行なう。俳優が普通の会話から無意識のうちに歌に移っていったような振りを見せるほどいやらしいことはない。普通の会話・高められた会話・歌唱という三つの平面は、いつもはっきりと分離されねばならない。高められた会話が普通の会話のたかまりであったりしては決していけないのだ。』(ブレヒト:「三文オペラへの註」〜ソングを歌うことについて)

演劇の台詞は非日常空間の会話ですから、いわば次元(ディメンション)が異なるのです。高められた朗読が演劇の台詞になるのではありません。両者の間は、「様式」の名の下に、はっきりと一線が引かれなくてはなりません。朗読とオペラの歌唱との関係も同様です。「普通の会話・高められた会話・歌唱という三つの平面は、いつもはっきりと分離されねばならない」、そこのところ、吉之助の考え方はブレヒトとまったく同じです。

それでは歌舞伎の台詞を、歌舞伎の「様式」にするものは何でしょうか。答えは「心情」の筋道(スタイル)ということです。歌舞伎には共通した心情のスタイルがあって、これらが集まって歌舞伎の様式を為すのです。心情は、台本の徹底した読み込み(解釈)のなかで掴み取るべきものです。もちろん朗読からも得られますが、「考えて読む」ということなので声に出す出さないと云うことではなく、まったく別の問題です。しかし、ここから掴んだ「心情」で改めて台本を朗読すると、台詞はまったく違ったように聞こえます。

渡辺先生との対談では、そんなところをお話ししたつもりです。対談映像をお楽しみいただけましたら幸いです。

(R4・8・18)





 

     (TOP)            (戻る)