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吉之助流「歌舞伎の見方」講座

第25講:観劇日記を付ける


「観劇はその時その時を愉しめば良いので理屈ではない」と云うのは、まあそれはそれで結構だと思います。そういう芝居の愉しみ方も、もちろんありです。しかし、理屈が分かって来れば、芝居はもっと面白くなるのじゃないでしょうかね。

ところで当「歌舞伎素人講釈」は、理屈で芝居を見ようと云うサイトです。しかし、吉之助は「みんなに理屈を教えてやろう」と思って啓蒙のためにこのサイトを書いているわけではないのです。 吉之助は自分の勉強の為にサイトの記事を書いています。19年間サイトを書いていても「こんなことさえ分からない」と恥じ入ることばかりです。吉之助自身がまだまだ理屈を学ぶ途上にあり、現時点で吉之助が学び取った(と自分では思っている)ものをサイトでお裾分けしているだけのことです。

批評家と云うのは「自分が分かった(ような)ことを書いている」と思っている方は多いと思います。まあ確かに分かったことしか書けないわけですが、実は、批評家は「自分がここまでしか分かっていない、こんなことさえ分かっていない」ということをさらけ出しているのです。書くというのは、恥ずかしい行為なんです。そういうことが分かっていれば、おいそれとは批評を書けぬものですが、それでも批評を書こうとするのは、やっぱり吉之助のなかにやむにやまれる何かがあるのでしょうねえ。しかし、吉之助もサイトの記事を日々書く作業を通じて、自分の芝居の見方が着実に深化していることを感じています。

そういうわけで、自分の歌舞伎の見方を深めたいと思っている方には、芝居を見た後・お家に帰った後に、観劇日記(観劇メモ)を付けることをお勧めしたいです。別に劇評みたいに書こうとすることはありません。サイトやブログで公開する必要もありません。寸評でも箇条書きでも、スタイルは何でも良いのです。自分のためのメモ代わりに、観劇日記を書けば良いのです。これは自分の歌舞伎の見方を深めるために絶大な効果があること請け合いです。

もちろん観劇日記も、ある種の批評行為に違いありません。それは自分がどこまで分かっていて、どこからが分からないかを自己確認する行為なのです。歌舞伎を見れば、出来が良いとか悪いとか、面白いとかそうでもないとか、誰でも感想がいろいろ浮かぶものです。そこまでは誰でも同じです。しかし、「楽しかった・面白かった」だけであると、フワフワした印象を語っているだけのことです。(まあそれもそれで効用はあるでしょうが)更に芝居のどこが楽しかったか、役者の誰某の演技のどこが良かったとか、 どうしてそのように感じたかとか、詳細を具体的に突き詰めて書かないと、他人には「ああ、そうですか」だけのことで終わってしまいます。

文章を書くという作業は、芝居の印象を明確なものにし、客観的な形を与えてくれます。そうすることで印象は思想となるのです。大事なことは、印象を反芻するが如くに、自分の印象を文章として正しく表現できているか、書いたものを何度も読み直して、より適切な表現があると思えば何度でも書き直すことです。そのような作業を経ることで、感想は曖昧でフワフワした印象ではなくなり、輪郭がはっきりした奥行きのあるものに変わって行きます。自分の印象の核心がどこにあるかを自分なりに掘り下げて行けば、歌舞伎の何が自分を惹き付けているかもクリアになってくるし、最終的に「自分はどういう人間か」というところまで見詰める機会になります。いわば歌舞伎は「例題」なのであって、観劇日記を付けることを通じて書き手は自分探しをするようなものです。

もうひとつの効用は、上記のような作業を経て付けた観劇日記は、例えメモ程度のものであっても、何年か後に読み直した時に「あの時はこうだった」と、当日の舞台の印象が紐を引っ張り出すみたいにスルスル蘇って来るということです。これは不思議なことですが、ウンウン唸って文章を書くことが、舞台の印象を脳の記憶中枢に落とし込む作業になっているのでしょう。観劇日記が記憶のタグになると云うわけです。したがって観劇日記は貯まれば貯まるほど、自分にとっての(自分だけの)宝物になります。是非お試しあれ。

ところで先ほど「観劇日記をサイトやブログで公開する必要はない」と書きましたが、公開すれば全然別の展開もあり得ると思うので、もしその気がお有りならば、ご自身のサイトを持つことをお勧めしたいところです。

(H30・11・26)


 

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