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吉之助流「歌舞伎の見方」講座

第23講:「脚色がまかり通っている」


『(みなさんがよく聴く)ヨーロッパのオーケストラの演奏がみな正しいとは限らない。脚色がまかり通っているんだ。 (中略)楽曲を勝手に変えてしまうことはいつの時代でも犯罪だ。指揮者が勝手なことをすれば聴衆はそれが作曲者の意図だと誤解してしまう。』

これは先日(平成28年3月)来日したイタリアの名指揮者リッカルド・ムーティが、日伊国交樹立150周年記念演奏会(東京の春音楽祭オープニング)のための日伊若手演奏家による特別編成オーケストラ (東京の春音楽祭特別オーケストラ&ルイージ・ケルビー二・ジョヴァニーレ管弦楽団)をリハーサルした時の発言です。このムーティの発言には深い意味があるのですが、まず申し上げたいことは、ムーティが「脚色がまかり通っている」と言うのは、 彼が他人の演奏をあげつらって「あいつらの解釈は間違っている、自分の解釈こそ正しいんだ」と言っているのではないのです。ムーティの態度はどこまでも謙虚です。愚かな人間のすることだから自分の演奏も 間違っているかも知れない・しかし作曲者がイメージしたに違いない解釈を目指してそれに少しでも近づけるように自分は常に努力するということなのです。別の機会にムーティは「もしヴェルディに会ったら何を言いたいか」と問われて、次のように答えています。

『音楽家としてずっとあなた(ヴェルディ)のことを尊敬してきました。一生懸命あなたのために働きました。またはそのように努力して来ました。でも私が正しくやれたかどうかはどうか言わないでください。もしあなたに私が正しくできていないと言われたとしたら、私は途方に暮れてしまいます。まるで死刑を宣告されたようなものです。』

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ここが大事なところだと思いますが、解釈というものは「あのやり方も悪くないね・そのやり方も捨てがたいね」などと良い人ぶっていると駄目なのでして、最終的にはどれかのやり方に決めねばなりません。 いろんなアイデアを取捨選択してひとつの方向へ揃えることが解釈という行為なのであり、指揮者は決断の責任を取らねばなりません。その時でも常に作曲者に対して「私の決断はこれで正かったでしょうか、私の解釈に自分勝手な脚色は入り込んでいなかったでしょうか」と振り返る謙虚な態度がなかったとすれば、芸術家として失格だということです。ムーティの言葉はそのことを教えてくれます。まあ言うのは簡単なこと ですけれど、それを実行することはたやすいことではありません。

歌舞伎の話に転じますが、「役者の仕勝手がまかり通っている」ということを吉之助の師匠である武智鉄二もよく言っていました。これもまったく同じ意味なのです。仕勝手とは、自分がやりやすいように解釈を捻じ曲げること、余計な色を付け加えること 、つまり脚色のことです。「歌舞伎らしさ」という名に乗っかって「おれたちはいつだってこのようにしてやってきた」といつものやり方を無批判的に行なうのもまた仕勝手です。武智はそのような歌舞伎役者の演技を嫌って、しばしば 厳しい調子で非難しました。

武智は批評で対象に罵詈雑言を投げつけて議論(というより喧嘩を売るみたいな風もあったな)の土俵に誘い込むところがあったので、武智の発言は誤解されることが多かったと思います。当時どれだけの人が 武智の言うことに真剣に耳を貸したでしょうか。まあこれは本人にも大いに責任があることです。しかし、吉之助に言わせれば、武智は芸に関してはムーティに負けず劣らず謙虚な人であったと思います。

ところで「私の決断はこれで正かったでしょうか、私の解釈に自分勝手な脚色は入り込んでいなかったでしょうか」ということを振り返るためには、判断の基準が必要になります。音楽の場合には、絶対の基準は楽譜です。楽譜には作曲者のイメージのすべてが盛り込まれているとするのです。これを原典主義と言います。芝居の場合には、原典は台本ということになりますが、歌舞伎の場合は上演を重ねるなかで細部が書き直されることがしばしばあり・役者の真摯な工夫が作品の奥行を増しているということもあるので、何をオリジナルとするかというのは難しいところです。しかし、義太夫狂言の場合には丸本(人形浄瑠璃初演時に出版された台本)という原典があることが明らかです。

「義太夫というのは、頭さえ使えば誰でも語れるものです」と山城少掾が言ったそうです。「今の若い人は考えて丸本を読んでまへん。もうちょっと頭を使って丸本を読みなはれ」なんて、そんな傲慢なことを山城少掾が言うはずがありません。「その正しい解釈を俺は知っているよ」なんて山城少掾が言うはずがありません。山城少掾の態度はあくまで謙虚なのです。

山城少掾の言いたいことは、「一定の思考の筋道を以って作者と同じように考えるならば、誰でも作者と同じ結論に達するはずだ」ということです。再現芸術家の目指すことは、作者の解釈(義太夫ならば初演の太夫の風ということになります)を正しい形で表現することです。どうしてそのような確信を持つのかと言えば、義太夫ならば丸本という原典が根拠としてあるからです。原典のなかに作者の解釈はすべて書き込まれている。だから、原典を作者の考え通りに正しく読むならば、誰が読んでもそれは作者の解釈と同じになるという・これは絶対的な確信なのです。信仰と言っても良いものです。人間が神になることが出来ないように、いくら努力してもついにの解釈に到達することはできないかも知れません。しかし、それでも山城少掾は努力することをやめないのです。これもムーティの言っていることとまったく同じです。

そういうことを考えながら台本を読んでいくと、解釈は余計なものが削ぎ落とされてシンプルなものになって行くものです。結局、脚色とか仕勝手というのは、「こうやったらもっと効果的に受けが取れるだろう 、こうやったらもっとそれらしく見えるだろう」みたいな雑念みたいなものなのだな。だからそのような脚色を排除していったら、芸というものは、驚くほどシンプルな印象になっていくものなのです。山城少掾の語る浄瑠璃を聴けばこのことがきっと分かると思います。

(追記)

別稿「吉之助が芸談「芸十夜」を読む」もご参考にしてください。


 

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