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夏目漱石について

*「吉之助の雑談」での漱石関連の記事をまとめました。


○漱石の歌舞伎観

夏目漱石は芝居は好きじゃなかったようで、歌舞伎について書いた文章は少ないようです。漱石は歌舞伎について『極めて低級に属する頭脳をもった人類で、同時に比較的芸術心に富んだ人類が、同程度の人類の要求に応じるために作ったもの』と書いております。(明治42年5月・「明治座の所感を虚子君に問われて」)

漱石は明治23年に第1高等学校を卒業・そのあと東京帝国大学で英文学を学ぶのですが、実は漱石は建築学がやりたかったのだそうです。それを親友に相談したら「日本のような国に英国のセントポール寺院のような建物が建てられるわけがない。だから建築家の仕事はない。文学者なら多少の見込みはあるだろう」と言われたのだそうです。それで漱石は英文学に進んだわけですが、やりはじめて「しまった」と思ったらしい。それは英文学がよく分らなかったからです。その辺が漱石先生の「憂鬱」の根源のひとつにもなっているらしいのですが、ここでは割愛。

漱石の評論を読んでいますと、この人は理科系の人だなあという感じが確かにします。対象の「構造」への関心が非常に強いわけです。漱石の「文学論」(明治40年)の目次を見ると驚嘆します。「文学的内容の分類 ・文学的内容の数量的変化 ・文学的内容の特質 ・文学的内容の相互関係 ・集合的F」・・まるで理科の教科書です。

ところで、明治42年5月明治座を見た感想を記したものがあります。(明治42年6月・「虚子君へ」)この感想がなかなか面白く、なるほど「猫」の先生の言いそうな台詞だなあと思いました。

『私にはやっぱり構造、たとえば波乱・衝突から起こる因果とか、この因果と・あの因果との関係とかいうものが第1番に眼につくんです。ところがそれがあんまりよく出来ていないんじゃありませんか。あるものは私の理性を愚弄するために作ったと思われますね。太功記などはまったくそうだ。あるものに至っては、私の人情を傷つけようと思って故意に残酷に拵えさせたと思われるくらいです。切られ与三郎の、そうもっともこれは純然たる筋じゃないが、まあ残酷なところがゆすりの原因になっているでしょう。』

作品構造をやたら気にする点は吉之助も似たようなところがあるので、親近感を感じますね芝居の内容自体は漱石はあまりこれを評価していないようです。

『芝居を賞玩するに、局部の内容を賞玩するのと、その内容を発現するために用うる役者の芸を賞玩するのと、ほとんど内容を離れた、内容の発現には比較的効用のない役者の芸を賞玩するのと三つあるようですね。こうなっても芝居の好きな人は、やっぱり内容に重きを置いていないようじゃありませんか。お富が海へ飛び込むところなぞは内容として私は見るに耐えない。演り方が旨いとか下手いとかいう芸術上の鑑賞の余地がないくらい厭です。ところが芝居の好きな人には私の厭だと思うところはいっこう応えないように見えますがどうでしょう。』

これは吉之助には漱石の言いたい気持ちがよく分る気がします。しかし、漱石先生は理屈っぽいねえ。

『(「馬盥の光秀」で)光秀が妹から刀を受け取ってひとりで引っ込むところは、内容として不都合がない。だから芸術上の上手下手をいう余地があったのです。あそこはあなたがたも旨いと言った。私も旨いと思います。ただし、あすこの芸術は内容を発現するための芸術でしょう。』

『(「太功記」)十段目に初菊があんまり聞こえぬ光慶さまとか何とかいうところで品(しな)をしていると、私の隣の枡にいたお婆さんが誠実に泣いていたのには感心しました。あのくらい単純な内容で泣ける人が今の世にもあるかと思ったら有難かった。と言ってあすこが詰まらないんじゃない。かなり面白かった。けれどもその面白みはあの初菊という女の胴や手が蛇のように三味線につれてヒナヒナするから面白かったんで、人情の発現として泣く了見は毛頭なかったんです。』

主筋に直接関連のない枝葉の芸も・歌舞伎はそういう所が目に付くものですが、漱石はこれが非常に気に触っているようです。そういうものを面白く感じるセンスもあるのですが、どこか醒めていて斜に構えている 気難しいところがまた興味深く思いました。近代人・漱石の一面が見える感じですね。

(H16・7・1)


○漱石先生の憂鬱

別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎」において明治10年代の民衆のなかに湧き上がっていた変革の気分・そして明治30年代にはそうした熱い気分が急激に冷えていって・ 逆に閉塞感が民衆に広がっていくということを考察しました。このような時代の気分を考慮に入れないと、明治期の散切り狂言や松羽目舞踊の背景は十分に理解されません。また黙阿弥晩年の世話物作品群や・団十郎晩年の古典再検討の背景も理解できません。

このような時代的心情を考えるには・歌舞伎から考えるよりむしろ当時の最先端の知識人のことから考察した方がもちろん早道です。例えば日本人に一番人気のある文豪・夏目漱石のことです。明治の文明開化において・日本人は江戸の否定を迫られ、無理に無理を重ねて西欧を真似しようとしたわけですが、特に無理をしたのがヨーロッパに留学して西洋を学んだ最初期の人々で した。そのひとりが漱石です。ロンドン時代の漱石は、向こうから背の小さい・貧相な男がやってきたと思ったら・それが鏡に写った自分の姿であったとか、あらゆることが劣等感の種になって・ついに神経衰弱になって、下宿に閉じこもってしまいました。

漱石の「文学論」を見ると、留学前に漱石が思っていた文学とは漢文や漢詩による文学だったのが・ロンドンに着てみると欧米文学とは随分違ったものだったと言うことを書いています。ロンドン留学でなくて・北京留学ならどんなに良かったろうというような述懐もしているようです。要するに漱石は江戸の文化人としての素養を身につけた人であったわけです。そういう人が無理矢理西洋振るのは辛かったのでしょう。つまり、無理に自己否定しようとしても・ルーツとしての・アイデンティティーとしての江戸が厳然としてあり・そのことが漱石を憂鬱にもさせ・また文学者漱石の創作の原動力にもなっているわけです。このことが「九代目団十郎以後の歌舞伎」での過程とほぼ二重写しとなるわけです。しかし、漱石にあまり踏み込むと「小説素人講釈」になっちゃいますし、今の吉之助は漱石の小説を読み直す余裕がありませんので・いずれ漱石のことは機会があれば取り上げることにします。

漱石は歌舞伎のことを直接にほとんど取り上げていません。「硝子戸の中・21」では幼い頃に母や姉が芝居見物にいそいそ出かける光景が回想されているのが数少ない文章のひとつです。これは当時の庶民の生活のなかで芝居見物がどういうものであったかを知る上でも貴重な文章ですが、しかし、少年漱石がそれで芝居に興味持ったわけではないようです。と言うより漱石は芝居があまり好きでなかったようです。漱石は歌舞伎について『極めて低級に属する頭脳をもった人類で、同時に比較的芸術心に富んだ人類が、同程度の人類の要求に応じるために作ったもの』と書いております。(明治42年5月・「明治座の所感を虚子君に問われて」)(これについては「吉之助の雑談・漱石の歌舞伎観」をご参照ください。)

しかし、漱石の作品のなかにも江戸人としての素養が反映しています。小谷野敦著「夏目漱石を江戸から読む」(中公新書)は、そういう漱石の一面をちょっと変った角度から考察していて興味深い本です。ちなみに小谷野氏はなかなかユニークなキャラクターの先生で・あちこちで論争を仕掛けて物議を醸しておられるようですが、歌舞伎にも造詣が深い方です。

この本のなかで「坊ちゃん」での主人公の赴任地での騒動と金平(公平)浄瑠璃(つまり初期の荒事)との対比・そこに江戸っ子の反骨精神を見るなどはなかなか興味深いところです。これだけなら「ああ、似てるみたいね」で終わるわけですが、金平(坂田金時)というのは源頼光の四天王のひとりでありまして・頼光は清和源氏の嫡流源(多田)満仲の長子であります。実は「坊ちゃん」のなかに次のような文章があるのです。

「江戸っ子は意気地がないといわれるのは残念だ。宿直をして洟垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。」

まあ、無理に関連付ければ「嫗山姥」(こもちやまんば)の山姥に「清」の原型を見るということもできるわけです。もっとも漱石が歌舞伎ファンとはとても言えないわけですから、歌舞伎・浄瑠璃から小説「坊ちゃん」が発するということではなく・江戸の教養人としてのアイデンティティーから発するということです。(その他の作品については小谷野氏のご本をご参照ください。)いずれにせよ明治という時代の精神状況を考える時、漱石を抜きにしては語れないと思います。

(H18・1・30)


○ただの饅頭

別稿「漱石先生の憂鬱」において、坊ちゃんが「これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲(まんじゅう)の後裔だ。」と言っていることに触れました。これについて ちょっと注釈を付けておきます。坊ちゃんの言葉を本気にしてはいけません。

源満仲(みなもとのみつなか)すなわち多田満仲(ただのまんじゅう)は清和源氏の元祖と祀られている人物ですが、江戸期においてはお菓子のお饅頭が庶民の間に広まったことで「只の饅頭」と洒落て語られるようになった人物です。江戸期にベストセラーになった柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』は歌舞伎の題材にもなり、風俗衣装に源氏模様・源氏絵・源氏名などの流行をもたらしました。そうしたことから「百姓も元は清和の流れなり」という川柳も作られています。まあ、先祖が清和源氏というと・そう言っておけば偉そうに聞こえるし、真偽を確かめようと思っても確かめようがないということです。だから坊ちゃんが「オレは清和源氏だ・先祖は多田満仲だ」と言っているのはそうした江戸っ子の薄っぺらなところを 自嘲的に示しているわけです。

「坊ちゃん」の3ヶ月前に書かれた「我輩は猫である・7」にも銭湯で客が「和唐内はやはり清和源氏さ。」と言っているのを聞いて「何を云うのかさっぱり分らない」と 猫が呆れる場面があります。これも同じようなものです。

しかし、明治維新間もない頃の話ですから、坊ちゃんが旗本出身であったということは・これはその通りに受け取る必要があると思います。現に樋口一葉なども旗本の娘であるというプライドだけで・どんな苦労も耐えるのです。 それは坊ちゃんの行動・無鉄砲な正義感にも出ています。このような痩せ我慢は当時の江戸の士族にはあったことです。福沢諭吉も「痩せ我慢の記」と言う文章を書いています。こうした江戸っ子気質・特に士族の痩せ我慢の心情は、結構、漱石の精神背景を考える時に重要なことだと思います。

その意味で小谷野氏が「坊ちゃん」を「嫗山姥」に結びつけていくのも・ちょっと見は強引な持って行き方に見えるかも知れませんが、 これは結構いい所を突いているように思います。むしろ、この場合には小谷野氏の発想の強引さを楽しむ余裕が欲しいものですね。さらにこの論理の強引さを引き継げば・これは別稿「新歌舞伎のなかのかぶき的心情」で触れたように、胸に込み上げてくる言い様のない「怒り」・どうにもならぬ「いらだち」を腹のなかに抱えつつ・「これでいいのか」と自らに問いながらただ黙って耐える庶民の心情につながっていく わけです。これが明治末期から大正・昭和初期にかけての「時代的気質」なのです。そういうわけで明治の時代的心情を考える時に漱石は欠かせませんし、漱石から新歌舞伎を考えて見ることも十二分に面白いことかと思います。

(H18・2・19)


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