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吉之助の音楽ノート

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」
               〜前奏曲と愛の死


南ドイツのバイロイトという街はワーグナーがその晩年を過ごした地ですが・ここにワーグナーが自身の作品を理想的な形で上演するために建てた専用劇場があります。バイロイトはワグネリアンの聖地で、毎夏の音楽祭には世界中からのワグネリアンがバイロイトに集います。吉之助がバイロイトに行ったのは1983年のことで・ここでショルティ指揮/ホール演出での「リング・サイクル」を見たのですが、その中日にバレンボイム指揮/ポネル演出で「トリスタンとイゾルデ」 (トリスタンはルネ・コロ、イゾルデはヨハンナ・マイヤー)が上演されたのです。しかし、吉之助は切符が取れなくてこの伝説的とも言える名演出は見ていません。これは今考えても残念ですが、幸いなことにこの舞台はビデオ映像が残されています。(別稿「近松心中論・「と(und)の問いかけ」をご参照ください。)

楽劇「トリスタンとイゾルデ」(1983年バイロイト祝祭劇場、ジャン・ピエール・ポネル演出)

バイロイトでのワーグナー上演について触れておきます。ワーグナー自らが設計した劇場はオーケストラ・ピットが遮蔽板で覆われた構造になっていて、客席からは指揮者も・オーケストラも見えません。このことは音響的にはオケの響きが直接音として客席に届かないということで、どれほどオケが大音響を出しても・歌手の声がオケにかき消されないという効果があ るのです。もうひとつは幕が開く前に客席の明かりが消されてしまうと・すべてが真っ暗闇になってしまうことです。普通だとそこで指揮者が登場して盛大な拍手 があってそこから演奏が始まるわけですが、バイロイトではオケ・ピットが見えないので演奏が始まる前の拍手のし様がなりません。暗闇のなかで息を詰めながら・いつ音楽が始まるのかと ただじっと待っているしかないのです。そのうちに「ラインの黄金」であると重低音で世界の誕生を表すライト・モティーフが静かに聴こえてきます。この厳かな瞬間と言うのはバイロイトでしか体験できないものです。ワーグナーは聴衆に自らの音楽にひれ伏すことを要求するのです。事実これはほとんど儀式なのです。(実際それまでのオペラは歌舞伎と同じように・上演中に客席を暗くすることはなかったものでして、上演中に客席の明かりを消すのはバイロイトから始まったことです。)

さらに上演形態が全然違います。「トリスタンとイゾルデ」ならば三幕のオペラでほとんど4時間を要する大作ですが、バイロイトでは3時から始まります。そして80分くらいの第1幕が終わると90分の休憩となります。第2幕も80分くらいですが・この後に また90分の休憩があります。そして第3幕が終わりますと・大体10時を過ぎてます。それぞれの休憩時間には劇場を追い出されてしまうので・その間は近くのレストランでゆっくり食事をしたり・ワインを飲んだり・あと前庭を散策したりしてくつろぎます。こうした体験をしてしまうと・ワーグナーを東京でもウィーンでも バイロイト以外で・30分程度の休憩しかない上演形態というのは、なんだかフルコースを時間制限で急いで食べさせられているような気がしてしまうのです。バイロイト体験をして思うことは・ワーグナーを本気で聴くのはかなり体力の要ることで、一幕聴いて90分休憩というのは・それくらいの時間が消化に必要なのだとつくづく思 います。体力がないとワーグナーを聴き通すのはおぼつかないような気がします。したがって吉之助も「トリスタン」は東京でその上演を聞いてはいますが、CD/ビデオでは全曲を一気に通して聴いたことは一度もなく・ もっぱら部分聴きであります。(ただし、この楽劇を聞きとおすのは忍耐は必要ですが・報われる仕事だということは付け加えておきます。)

ということで「トリスタン」は吉之助にとって非常に重要な作品ですが、実は吉之助の聴き方はつまみ聴きです。(もっともよほどのワーグナー狂でなければこういう聴き方の人が多いような気がしますが。)「トリスタン」のつまみ聴きをするならば、これは非常に都合のいいものがあります。すなわち頻繁に演奏会に取り上げられる「前奏曲と愛の死」(つまり第1幕前奏曲と第3幕フィナーレをつなぎ合わせた ハイライト版)で、これで「トリスタン」のエッセンスは十分味わえます。楽劇全部聞くことは誰にでもお薦めしませんが、 「前奏曲と愛の死」は一度聴いてもらいたいものだと思います。

ところで「トリスタン」においては他のオペラと比べてオーケストラの響きが格別な意味を持っていることは疑いありません。それは歌手の伴奏ではなく、時に歌手の歌声を圧倒し歌以上に雄弁にイメージを・思想を語るのです。このことについて有名なレコードプロデューサーであったジョン・カルショウ(世紀の録音とも言うべきショルティとの「リング」録音のプロデューサー)がこう書いています。

『「トリスタンとイゾルデ」は「現代音楽の始まり」(何であれ「現代」と呼ばれるようなもの)と言われる。そして恐らく、それ以前の何ものにも似ていない。その音楽は、ほとんどあらゆる状態の心と、両極端の感情とを表現している。そして声楽よりもむしろオーケストラの方が、いま何が起きているのかを雄弁に伝えている。このため、「トリスタンとイゾルデ」の多くの部分はオーケストラのみでもほとんど修正することなく演奏会で演奏できる。他の曲ではこうした試みは概して退屈だ。その理由は単に声楽が省かれているからではない。(中略)ワーグナーは言葉による説明が必要なところへ来ると、すぐにオーケストレーションを薄くして、声の旋律線が苦もなく聴こえるように書いている。しかし、文学的な意味よりも音楽全体の効果の方が重要な場面では、ためらうこともなく声を響きのなかに埋没させているのだ。その声を(レコーディングの技術で)聴こえるようにしてしまうのは間違いである。例えば第2幕の塔の上からのブランゲーネの声は正確には聞き取れないだろうが、それは重要なことではない。大切なのは警告の声があることであって、言葉そのものではないのである。』(ジョン・カルショウ:「レコードはまっすぐに:あるプロデューサーの回想」)

このカルショウの文章には大きな示唆を受けました。ある劇的局面において・外的展開としての歌唱(舞台上の歌手による言葉によるドラマ展開)は抑えられ、内的展開としてのオーケストラ言語が雄弁になるということです。このことは義太夫狂言において役者と床(竹本)が掛け合いをし・ クライマックスにおいて床が役者から台詞を奪ってしまうことに似ています。実際には楽劇ではオーケストラ主体とは言え歌手は依然として歌っており・歌舞伎では竹本は純器楽ではなく言葉を語る(あるいは朗う)のですから・その類似性が判然とお感じいただけないかも知れませんが、その背後にある理論が実はまったく同じなのです。この類似を考える為にはどちらの音楽も忘れた方がよろしいようです。頭のなかにあるその表面的イメージが邪魔をするかも知れません。ワーグナーは次のように書いています。

『実際、詩人の偉大さは、彼が、言い得ぬことを沈黙を通して私たちに聞かせるために何を沈黙しているかという点によってこそ最も正しく測ることができるのです。』(リヒャルト・ワーグナーの論文:「未来音楽」・1860年)

あれほど劇場空間を響きで埋め尽くさんとするかのように過剰なワーグナーが「沈黙」と言うからには、特別に重い意味があるのです。そこに近松の心中物と共通の劇音楽理論があると思わざるを得ません。 (「近松心中論・移行の芸術」をご参照ください。)

ワーグナー トリスタンとイゾルデ (名作オペラブックス)

(付記)

三島由紀夫が映画「憂国」を作った時に、その背景音楽に「トリスタンとイゾルデ」を使用しています。音源はストコフスキーによる管弦楽編曲版の録音(1932年、RCA)でした。別稿「妻麗子の幻影」をご参照ください。ストコフスキーの録音は現在は 容易に手に入らないかも知れませんが、なかなか良い演奏です。


(吉之助の好きな演奏)

「前奏曲と愛の死」は・ソプラノ独唱付きの場合と・管弦楽だけで演奏される場合とがあります。前者ならばジェシー・ノーマン独唱で・カラヤン指揮ウィーン・フィルの87年ザルツブルク・ライヴ(独グラモフォン)が圧倒的に素晴らしいものです。後者も同じくカラヤン指揮ベルリン・フィル( 74年・EMI)が吉之助のお好みです。(いつもカラヤンの演奏ばかり挙げて恐縮ですが、吉之助の好みなのでねえ。) 他に挙げると・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル(38年グラモフォン)でしょうか。

*ワーグナー・ライヴ in ザルツブルク(カラヤン指揮、1987年ザルツブルク)

ところでバイロイトの音響が特殊であることは先に書きましたが、バイロイトのライヴ録音は多いものの・マルチマイクで録られたものはどの響きも明瞭に録られていて・どうもピンと来ません。 吉之助が聴いたなかで・バイロイトの客席の雰囲気をまざまざと脳裏に蘇らせたのは51年のクナッパーツブッシュ指揮の「神々の黄昏」の録音です。(英テスタメント)これは前述のカルショウがワン・ポイント・マイクで録音したものです。ちょっとこもり気味の管弦楽の響きがまさに場面を彷彿とさせるものです。



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