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上方芸の伝承と四代目藤十郎の芸


1)上方芸の伝承の在り方

令和2年11月12日に四代目坂田藤十郎が亡くなりました。追悼記事は別に書きましたので、本稿では別視点で上方芸能の伝承についてちょっと書きたいと思います。

上方の芸の伝承と云うのは、「芸は教えるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」というものです。だから初代鴈治郎は、息子(二代目鴈治郎)に全然教えようとしなかったそうです。或る方がちょっとは教えてやったらどうかと忠告したところ、「そないなことをしたら、鴈治郎の偽物が出来るだけだす」と云って取り合わなかったそうです。だから二代目鴈治郎の芸は父(初代)の芸を素直に継いだものではなく、二代目延若の芸の影響を多分に受けたものであると云われています。幸い吉之助も二代目鴈治郎の舞台を生(なま)で目にすることが出来ました。それでも二代目鴈治郎の芸には父(初代)への憧憬があったと思いますねえ。直接に教わらなかったにしても二代目鴈治郎は「父ならばここはどうするだろう?・・」ということをずっと考えていただろうと思います。そういう思いだけが伝統を受け継ぐ者の気持ちを浄化します。二代目鴈治郎の芸談に拠れば、「河庄」の治兵衛の型を学ぶために自分は花道真下の奈落に控え、花道を歩く父の治兵衛の歩みで板がミシミシ鳴る音を聞きながら・これに合わせて自分も奈落を歩く、父が止まれば自分も止まる、そうやって「魂抜けてとぼとぼ・・」の治兵衛の出を学んだのだそうです。そのような苦労をしながら、二代目鴈治郎は父の偽物(コピー)ではない「二代目鴈治郎の芸」を作り上げていったわけです。

そういうことであるから二代目鴈治郎も、息子(四代目藤十郎)に対し「芸は教えるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」という態度で臨んだと思います。しかし、幸いなことに、若き藤十郎は武智歌舞伎に参加して、武智鉄二や山城少掾・八代目三津五郎(当時は蓑助)や能の片山九郎右衛門などの教えを受け、今考えればホントに贅沢な仕込みを受けることが出来ました。これが四代目藤十郎の息が詰んだ・かつきりした芸風の基礎にあったものですが、結果として、それは祖父(初代鴈治郎)とも父(二代目鴈治郎)ともちょっと異なる芸の感触になったと思います。「河庄」の治兵衛にしても・「沼津」の十兵衛にしても、四代目藤十郎のそれらは、吉之助が覚えている二代目鴈治郎のそれらとはちょっと異なる感触でありました。まあ四代目藤十郎の場合は、かつきりした分、やや型っぽい感触があったかも知れませんねえ。二代目鴈治郎ならば、世話と時代の押し引きはずっと柔軟な印象でした。しかし、吉之助はどちらが良かったとか・悪かったとかを言いたいわけではありません。「どちらも良くて・正しかった」のです。大事なことは、そこに祖父→父→息子と確かに繋がっている感覚が確かにあったということです。世代が違うんだもの、感触の違いなんて当然のことで、そんなことは大したことではない。「切れているけれども、繋がっている」、これが上方芸能の伝承の在り方なのです。これは東京(江戸)の芸の伝承の在り方とは、全然異なります。(この稿つづく)

(R2・11・30)


2)上方の伝承・江戸の伝承

前章で書いた通り上方の芸の伝承は「芸は教えるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」というものでした。芸風あるいは型というものを息子に伝えようとする意識がほとんどないようです。一方、江戸の場合は、どちらかと言えば家系を大事にするところがあって、芸風あるいは型を息子に伝えようとする意識が割合とあるようです。

上方の役者は自分の子供に非常に厳しく接して、芸の面での許容性がとても狭かったのです。しかし、役者の血筋であるからと云って、子供も役者に向いているわけでは必ずしもありません。そういうことで歌舞伎の歴史を見れば、上方の役者の家系はほとんど三代目くらいで途切れてしまった家が多いのです。例外と言えるのは、片岡仁左衛門家くらいのものです。演技の型も、先代と当代の間でブツブツ途切るものが多く、いろいろ雑多なものが入り込んでうまく整理が出来ません。上方の芸は学術的に型の系譜を揃えることは困難です。

一方、江戸の役者の家系は、上方に比べれば代数が長いものが多いようです。もっとも「元禄の世から綿々と続く市川宗家の伝統」などとマスコミは言いますが、実は市川宗家でも血筋はブツブツ切れており・現在の市川家は十一代目から数えてせいぜい五・六十年ということなのですが、いちおう名跡としては元禄から続いています。芸風や型についても、当代はこれを次代である息子に渡し・息子はこれを受け継ぐという考え方も、江戸には確かにあったようです。だから型の系譜も割合整理ができます。江戸の歌舞伎は、そう云うことを大事にしてきたのです。

このような江戸と上方の芸の伝承に対する考え方の違いは、現在となってみれば、江戸の歌舞伎は残ったが、上方歌舞伎は事実上消滅したという決定的な結果となって現れたのです。これは江戸の伝承の考え方が正しかったということなのでしょうか。上方の芸の伝承の考え方が間違っていたということなのでしょうか。この問いは、現代における伝承芸能の在り方を考える場合には、一応検討してみる価値がありそうです。

しかし、よくよく考えてみると、「自分で考えて・自分の個性を生かして・自分の解釈で・自分なりの型を作り出す・それは誰から受け継いだものでもないし・誰に伝えるものでもない」という考え方は、西欧芸術ならば至極当たり前の考え方なのです。西欧では、生徒が先生のやるのをそのまま演じようものなら、「先生の真似をしては駄目です・自分でしか出来ないオリジナルな表現を自分で考えなさい」と怒られます。西欧の伝統というのは、先人の業績の変革と破壊の歴史であったとも言えます。

とすれば上方歌舞伎の芸の在り方は、西欧のそれに近いと言えると思います。ですから「自分の芸は自分の代限りのもの・受け継ぐものではなく・誰に伝えるものでもない」と云う考え方は、実は洋の東西・時代を越えた普遍的な考え方であると吉之助には思えるのです。

(R2・12・15)


3)上方歌舞伎はなぜ衰退したか

『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)それはある年齢に達した時に通らねばならない関門なのです。割礼を施すということがかなり広く行なわれていたユダヤ教信仰が、古代にも、それが俤を見せていますでしょう。あれなども受ける者たちにとっては、苦しい試練なわけです。(中略)子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』(折口信夫:座談会「日本文化の流れ」・昭和24年12月)

芸道の師弟関係を考えると、試練を与える者(師匠)と・その厳しい試練に耐えようとする者(弟子)との関係があり、試練を通じて両者は合体するということなのです。そこに無慈悲に怒る神(父)と・それに黙って従う無辜の民衆(子)の関係が重ねられています。(別稿「折口信夫への旅・第1部」をご参照ください。)だから芸の師弟関係は、例え血の繫がりはなくとも・擬似的な父子の関係であると考えられますが、上方の芸の伝承の場合はそれに加えて、「耐えられなければ死んでしまえ」というほどの厳しさがそこに付きまといます。このことは分野が全然異なりますが、例えばプロ野球の阪神タイガースの負けが込んでくると、大阪の熱狂的なファンが豹変して監督や選手を「アホ」・「辞めてしまえ」とか口汚く罵倒し始めるのにもよく似ています。これは熱い「タイガース愛」の裏返しであるとも考えられますが、上方の芸の伝承の観点から見ると、深層的なところでそれは関西人気質に繋がっているということです。

ここで大事なことは、このような考え方を延長していくと、伝承の世界に家系・家元とか「一子相伝」という考え方は到底生れないはずだと云うことです。「自分の地位を継ぐ者があるとすれば、それは最も技芸のある誰かが継ぐべきだ」という考え方にならざるを得ないはずです。血縁に関係なく・最も実力ある者が芸を引き継ぐのが正しいのです。願わくば・それが自分の息子であってもらいたいものですが、DNAは継いでいても・芸の才能を継げるかは、これはまた別の問題です。芸の伝承に血縁関係を持ち込むことは、不純な考え方なのです。「継げる者がいないならば、潔く滅びればよろし」というのが、本来的な芸の世界の考え方であろうと思います。上方の名優の家系が三代目くらいで途切れてしまった例が多いのは、そのせいです。伝統工芸など職人芸の世界では、厳しい世界ですから自分の子供に跡を継がせることもなかなか難しいという事情もありますけれど、血縁関係にこだわらず、例え外国人であっても、師匠に必死で付いてくる意欲ある若者には自分の持てるものを惜しみなく教え授けようという気風が残っているようです。

ですから伝承の世界に家元制や「一子相伝」という概念が生まれて来る背景には、どこかに一門の既得権益を護ろうとする権威主義的な考え方があるように思われます。家元制の図式は、恐らく江戸期に入って固まったものでしょう。武家の長子相続の考え方を真似ているのです。家元制と云うのは、これを述べると長々しいことになりますが・簡単に云えば、「次代を引き継ぐのは最も実力ある者を定める」という決まりであると「家元を継ぐに相応しい者は俺だ」と主張する高弟が何人も出て来て・流派が分裂して・お家騒動になってしまうので、これを回避するために生まれたようなものなのです。「次の家元を継ぐのは家元の長子とする」と決めてしまえば、とりあえずお家騒動は起きようがありません。だから家元は一門のなかで技芸がトップである必要は必ずしもないわけなのです。何が正しくて・何が違っているか、遺された口伝や作法を受け継いでしっかり知っていさえすれば、家元はそれで役目を十分果たしているのです。踊りの世界では実力ある高弟が独立して流派を別に立てる場合がありますが、これもお家騒動回避策のひとつです。

家元制の話はこれくらいで置きますが、以上のことを考えれば、家系や口伝・型に重きを持つ江戸歌舞伎の芸の伝承の在り方は、上方歌舞伎のそれと比べると、権威主義的であり(別の意味で云えば商業主義的であり)、芸の活力から見れば、江戸歌舞伎の芸は上方歌舞伎のそれよりも脆弱であると云えます。上方芸の在り方の方が創造的に思われます。折口信夫はこれを大阪人の野性味と呼びました。(これについては別稿「大阪人の野性味」をご参考にしてください。)これは「型」の論議のところでも触れましたが、型とは「そのようにしなければ歌舞伎にならない、とりあえずそれを守ってさえいれば歌舞伎に見える」というようなものです。そもそもこう云う型の考え方は、芸の創造力という観点からみれば、脆弱で後ろ向きな考え方ではなかろうか?そういうことをチラッとでも考えてみた方が良いのです。しかし、現在となってみれば、江戸の歌舞伎は残ったが、上方歌舞伎は事実上消滅したということ、この事実も厳粛に受け止めなければなりません。脆弱でも残った方が良いか、潔く滅んだ方が良いかという議論にもなりかねませんが。(この稿つづく)

(R2・12・16)


4)藤十郎の芸と武智歌舞伎

四代目坂田藤十郎が亡くなった時の関係者のコメントとして「上方歌舞伎の復興に力を尽くした方」という言葉が新聞などでいくつか出ましたが、別にこれに異議を申し立てるつもりもないですが、これは若干ニュアンスが違うだろうという気がします。藤十郎自身としては「芸は教えるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」と云う・上方の芸の伝承スタイルを踏襲していたと思います。三代目鴈治郎が四代目坂田藤十郎を襲名したのは、平成17年(2005年)12月京都南座でのことでしたが、ちょうどその時の歌舞伎学会の「坂田藤十郎の再発見」と題されたシンポジウム(注:この場合の藤十郎はもちろん初代を指す)でのオフレコ発言ですが、個人的に藤十郎(もちろん四代目のこと)をよく知る権藤芳一先生が、(藤十郎は実にきままな生き方をしてきた人だから・藤十郎が上方歌舞伎の復興のために何かするということは)「自分は全然期待していない」という趣旨のことを仰ったのです。会場は大爆笑でありました。とは云っても(それまで)近松座を主催して近松作品の復活上演なんて努力も新・藤十郎は続けて来たわけです。だからこれからも「何もせんこともあるまい」と、その時の吉之助は思ったのです。しかし、あれから振り返ってみれば、襲名してから亡くなるまでの(約15年の)藤十郎は、権藤先生の予言通り上方歌舞伎の復興のため何もしなかったように思われます。吉之助としては、藤十郎襲名後は、もう少し上方演目を意識的・かつ集中的にさらって見せて欲しかった・そこに(息子たちを含めた)若手連中を巻き込んで、上方芸の引き継ぎを試みてもらいたかったという思いがあったのですが、これは本人にとって見ると藤十郎襲名のタイミングがちょっと遅過ぎたということかも知れませんが、それにしても残念なことではあります。

藤十郎自身は、父(二代目鴈治郎)から上方式に「自分で工夫しなはれ」と突き放された育て方をされて来ただろうと思います。しかし、幸いにも藤十郎は武智歌舞伎に参加して、いわば「手取り足取り」の英才教育を受けることができました。そう云うことからすると、藤十郎は上方出身の役者ではあるけれども、純粋な意味からすると、上方の芸の伝承スタイルのなかから生まれた役者ではなかったわけなのです。この点は、今後藤十郎の芸を論じる時の大事なポイントになると思います。藤十郎の芸には、在来の上方芸が持つ「だだこしい」感覚、「だだこしい」とは大阪でも死語になりかけているかも知れないが、そのようなゴチャゴチャと未整理で猥雑な感覚を保持しつつも、そこに理性に制御されたすっきりした感覚が加わって来ます。両者は一見すると相反する要素であるはずです。しかし、藤十郎の芸では「かつきり」とした印象があるところで、ふたつの相反する要素が同居します。これは藤十郎が「だだこしい」感覚を、フィーリングというような曖昧な状態ではなく、はっきり技芸として捉えていたということであろうと思います。これが武智歌舞伎から来るノイエザッハリッヒカイトの感覚なのです。(別稿「伝統における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」をご参照ください。それにしても巷間の藤十郎追悼の記事での武智への言及は少なすぎるように感じますがね。)誤解がないように付け加えますが、藤十郎の出発点に武智歌舞伎があるわけですが、それは昭和24年から27年の3年程度のことであるので、その後の藤十郎は「自分で工夫して」役者として成長して行ったのです。しかし、武智歌舞伎の「きっかけ」は実に大きかったはずです。もちろん武智鉄二その他の先生に大いに感謝をしただろうが、そこの「幸運」ということを藤十郎本人がどう感じていたのかなということを思いますねえ。藤十郎はその「幸運」を積極的に次世代にお裾分けして欲しかったと思うのです。

吉之助が思うところは、現代においては上方の芸というのは、「芸は教えるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」と突き放したところで伝承することは到底無理だということです。それが上方の芸の伝承の本来のスタイルではあろうけれど、それだと数世代で絶えてしまう。現在の上方歌舞伎は、既にそういう状況にあるわけなのです。したがって、不本意ではあろうが、上方歌舞伎においても東京の芸の伝承スタイルを取り入れて、教える側から積極的に理屈で教えて、「手取り足取り」して渡さねばならぬ。というところで藤十郎に期待されるところは非常に大きかったと思うのですがねえ。藤十郎が亡くなった今となっては、それを云っても・もう遅いことかも知れませんが。

(R2・12・22)





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