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六代目歌右衛門の「道成寺」


1)菊五郎はひとりの司祭だ

フランスの詩人ジャン・コクトーが世界一周の旅に出て、その途上日本を訪問したのは昭和11年(1936)5月のことでした。この時代のことですからもちろん船での世界一周旅行であります。この時にコクトーは東京・歌舞伎座で、六代目菊五郎の「鏡獅子」を見ました。昭和11年の菊五郎といえば、その体力・技芸ではっきり頂点であった時期でありましょう、コクトーはラッキーでしたね。コクトーはその感動を次のように記しています。

『歌舞伎は祭祀的だ。かれらは演技し、うたい、伴奏し、奉仕する司祭だ。/ だがこれを宗教劇と混同してはならない。/われわれは歌舞伎において、宗教劇ではない宗教と、その祭祀に接するのだ。/菊五郎はひとりの司祭だ。』

「宗教劇でない宗教」、さすがにコクトーの目は歌舞伎の本質を鋭い観察眼で見抜いています。そして菊五郎の舞踊の本質もです。「菊五郎はひとりの司祭だ」、コクトーはそう書いています。体から強烈なオーラを周囲に発散して、宗教にも似た狂熱と感動の渦のなかに見る人たちを巻き込んでいく踊り、それが菊五郎の「鏡獅子」であったのでしょう。そして「娘道成寺」においても、菊五郎の踊りはまったくそのようなものであったと思います。

さて本稿では昭和という時代の代表的なふたりの俳優による「娘道成寺」、戦前における「六代目菊五郎の道成寺」から、引き続き戦後における「六代目歌右衛門による道成寺」を見ていきたいと思います。別稿「菊五郎の道成寺を想像する」において、『最近の「娘道成寺」の舞台は原作回帰とでも言うか、その味わいが能に近づいているように思われる。その反面、菊五郎の「道成寺」の持つ理屈のない世界の馬鹿々々しい美しさからは遠くなっているようである。』と書きました。歌右衛門の「道成寺」が本質から外れている、ということではもちろんありません。むしろ、ふたりの個性と時代への感覚の違いが、その「娘道成寺」という踊りの持つ両面を描き分けているということだと思います。

「道成寺」の始祖である初代芳沢あやめは能を習いたくても習えませんでした。だからその「娘道成寺」は「能からの訣別」の表現だとも言えるし、あるいはその裏返しとして「能への満たされなかった憧れ」を描いているのかも知れません。「娘道成寺」のなかで菊五郎はその前者を、歌右衛門はその後者を描いているのかも知れません。


2)歌右衛門はひとりの巫女である

歌右衛門の「道成寺」がどうして能に近い感触を感じさせるのか、歌右衛門の遺された映像を見直しながら思いますのは、歌右衛門も菊五郎と同様に強烈なオーラを感じさせる俳優ではあるのですが、菊五郎のオーラは外に向かって照射されるのに対して、歌右衛門のオーラは内へ向って照射される感じがすることです。菊五郎の場合は菊五郎を中心にして周囲が明るく照らし出されます。周囲の「場」というものが意識されます。だから菊五郎はコクトーの言うように「ひとりの司祭」であります。歌右衛門の場合は歌右衛門だけが輝いてその存在だけが意識されます。「場」ではなく、その「存在」が意識されます。もしコクトーが歌右衛門の「道成寺」を見たならばコクトーは次のように言ったでしょう、『歌右衛門は「道成寺」の舞台において「ひとりの巫女」である」、と。

これは菊五郎と歌右衛門の芸質の違いというべきでしょう。「芸風の陽と陰の違い」か、そのように考えても大筋では間違いはないと思います。別稿「菊五郎の道成寺を想像する」において、立役が本役である六代目菊五郎と九代目団十郎の「道成寺」、そして一気に初代富十郎の「道成寺」までの線を結んで、立役の踊る「道成寺」の方がもしかしたら本来の歌舞伎の(つまり初代富十郎の)「道成寺」の感触に近いのではないか、と想像したのもそのためです。

『私はクドキをみていて、歌右衛門がわずか四畳半くらいのスペースの中で踊っているように見えてびっくりした。歌舞伎座の舞台は間口二十五間という。東京の劇場の中でも一番広い。その中で歌右衛門の体のまわりには見えないテープでも張ってあるようであり、歌右衛門はほとんどそこから出ないということを自分の肉体に強制しているように見えた。しかしその一方その四畳半の中では、じつに体力ぎりぎりの軽業を歌右衛門は自分の肉体に強制していた。』(渡辺保:「女形の運命」)

『「恋の手習い」はこの曲の眼目で、ここをどうにか踊れなければ「道成寺」を踊る資格はないと申せましょう。女の気持ちがすべて描かれていますのを、演者は内面的によくとらえた上で、クドキとして踊るのですから、まことにむずかしゅうございます。この踊りはひと件ごとに衣装が変わり見た目の変化はありますものの、それぞれの件が独立しているような踊りでストーリー性に乏しく、どうかすると見ていてただ長いということになりかねません。一時間あまりかかる踊りはほかにいくらもありますが、ひとりで踊るものは類がなく、「かせ」がないだけに演者は骨が折れます。』(六代目歌右衛門談)

広い歌舞伎座の空間のなかでまるで座敷舞を踊っているかのように感じさせる歌右衛門の踊りは優美でしなやかで、しかし、菊五郎の弾けるような躍動感・切れのあるリズム感は見られません。逆に「おどり」というよりも「舞い」に近いような静的な美しさに満ちています。歌右衛門の「道成寺」が能に近い感触を感じさせるのは、恐らくそのせいだろうと思います。


3)歌舞伎の高尚化

しかし一方で、歌右衛門の「道成寺」が「われわれの時代の道成寺」であるのは、まさにそれが能に近い感触を感じさせるからに他ならないとも思います。これは現代の「歌舞伎の高尚化・芸術化」の傾向のひとつの現れだと感じます。あるいは、ネガティヴな表現をすれば、「歌舞伎が大衆の感覚から遊離して高尚化していくこと」のひとつの現れでもあるとも思います。これは歌右衛門の芸のあり方にも多いに関連しますし、また現代における歌舞伎のあり方にも関連する問題なのです。(これについては別稿「歌右衛門の今日的意味」を参考にしてください。)ともかく、この歌右衛門の「道成寺」が戦後の他の役者たちの踊る「道成寺」に間接的に与えてきた影響は無視できないほどに大きいと思います。

また、別の機会に論じてみたいと思いますが、「歌舞伎の高尚化」というのは、ある意味で能樂に近づこうとすることでした。「歌舞伎の高尚化」という時代の流れのなかで、歌舞伎舞踊「娘道成寺」は再びその精神的源流「道成寺伝説」への回帰を求められたということだと思います。だからこそ、「娘道成寺」は能の感触に近づいていかねばならなかったのです。だから、「乱拍子」の位取りがより重くなり、「踊りの間もつねに鐘にこころをむけていなくてはならぬ」という口伝がより重みを増してくるということになるのです。

例えば、鈴太鼓の踊りで「花の姿の乱れ髪、思えば思えば恨めしや・・」で白拍子の手が一瞬止まって鐘を見上げる瞬間の目付き・その瞬間に燃え上がる恨みの情念、それはまた一瞬にして消え去って踊りのリズムのなかに埋もれていくのですが、その瞬間にあの美しい白拍子は消え去り蛇体に化した清姫の姿が立ち現れます。この時に「娘道成寺」は「道成寺伝説」の世界に回帰するのです。

歌右衛門のその瞬間のキッとした目付き・体からメラメラと立ち上る情念というのは何とも背筋が寒くなるような凄みがありました。そして一瞬にしてまたもとの美しい白拍子に立ち返る「間」の素晴らしさ、それはまさに歌舞伎的でいてまた能的な瞬間でありました。

『「鐘入り」ののち蛇体になっても、どこまでも女の執念や恨みを表し、大口の長袴に白地の鱗もようと着付けを着ますのも、うち(成駒屋)では振袖で一貫して女姿で通しています。どこまでも女であり、前(白拍子)の件では娘でなくてはいけません。後シテの振袖はいま私だけしかいたしません。我田引水ではありませんけれど、こういうことは受け継いでもらいたいと思います。』(六代目歌右衛門談)

(H13・6・17)


 

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