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マウリツィオ・ポリーニ・ピアノ・リサイタル・2018


1)

去る11月7日にサントリー・ホールでのマウリツィオ・ポリーニ(76歳)のリサイタルを聴いて来たので、ここにメモ風に記しておくことにします。日本で予定された3回のリサイタルのうちの第1日目です。 このところのポリーニは必ずしも体調が良いとは言えないようで、キャンセルが少なくないようです。今回も来日直前の北京でのリサイタルがキャンセルになったそうです。 幸い7日の東京でのリサイタルは予定通り行われて、これは素晴らしい出来となりました。しかし、その後のポリーニは「腕の疲労が思うように抜けない」という事態になってしま ったらしくて、残りの2回のリサイタルはプログラムが腕に負担の少ない曲に変更になったり、日程が変更されたりと、ファンにとって大変心配な事態となってしまいました。逆に言えば、7日のリサイタルは持てる力を出し切ったということなのかも知れないので、7日のリサイタルを聴けた吉之助は幸いでありましたねえ。結果的には18日・21日の二回のリサイタルは無事行われたので、日本の音楽ファンもホッとしたことと思います。

ところで前回の来日公演は2016年4月のことでした。まず歩き方がヨボヨボおぼつかなくて、74歳(当時)にしては外見がえらく老け込んだ印象であったことに ちょっと驚きましたが、演奏についても歳月を感じずにはいられませんでした。ところどころに技術的な綻びが見られたことは仕方ないことです。そんなところをあげつらって、「ポリーニも老けたなあ」なんて分かったようなことを言うつもりは毛頭ありません。歳を取れば誰だっていつかは体力・技術のピークを過ぎて下降線を辿る時期に直面することになります。その代り歳を取ればそれを補って余りある趣きや深みが出て来るものです。古くは晩年のケンプやルービンシュタインがそうでした。ホロビッツの場合は深みというのとはちょっと違ったかも知れませんが、晩年には独特の洒脱な味わいが加わったものでした。そこでポリーニが70代に差し掛かって、どのような芸境の変化を遂げるかということに興味が出て来るのです。しかし、2016年の来日公演を聴いたところでは、なかなか微妙だなあという気がしました。相変わらず構えは立派なのだけれど(ポリーニはもともと構成力が抜群にしっかりしたところが特質だと云っても良い)、ところどころに聴こえる綻びが晩年の深い味わいと云うところに必ずしも繋がってこない。それだけにうら寂しさがつのるという感じで、かつて「ミスター・パーフェクト」と呼ばれた方だけに、そこが辛いところだなあと思いました。聴き手が勝手に期待してしまう全盛期のポリーニの印象がそのように感じさせると云うところも多分にあったと思います。

そういうわけで2016年来日リサイタルは2回聴きましたが、どちらも何となく割り切れない気分で、「もうポリーニは聴かなくても良いかもなあ」ということをチラッと思ったりしたものでした。しかし、今回(2018年)来日リサイタルをやっぱり聴くことに決めたのは、吉之助もそれなりに歳取って来て (まだ老けたつもりはないけれども)、自分の問題として「晩年をどう実りあるものにするか」ということを次第に考えるようになってきたからだろうと思います。パーフェクトで はなくなってきたポリーニがどのように老いと向き合うか、どのように芸が枯れて行くか、彼の生き様をしっかり確認しおきたいと思ったのです。ポリーニは1960年ショパン・コンクール優勝者(当時18歳)ですが、その後10年ほど「自分はまだ若く・研鑽の必要がある」ということで表立った演奏活動は行わず、本格的なデビューは1970年代の初めでした。独グラモフォンでのデビュー録音の、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」からの三楽章を聴いた時の鮮烈な衝撃は、今でも耳のどこかに残っています。それはちょうど吉之助がクラシック音楽を聴き始めた時期に当たり、吉之助の音楽歴とポリーニのキャリアが重なって来るわけです。吉之助はどちらかと云えば管弦楽とオペラ中心の音楽歴ですが、もちろんポリーニは常にチェックしていた存在です。そう云うわけなので、今回リサイタルを聴く目的は、もちろん曲(シューマン・ショパン)を聴くということもありますが、むしろポリーニの生き様を聴くということでした。(この稿つづく)

(H30・10・23)


2)

今回(平成30年11月7日・サントリー・ホール)でのポリーニを聴いてちょっとびっくりしたのは、最初は何の雑音が響いているのかと思ったのですが、ピアノを弾きながらポリーニが盛んに唸る(と云うか声を出して歌うというべきか)ことでした。ライヴ録音を聴くと昔のポリーニも興が乗った場面で唸ることは時折あったと思います。しかし、これまではこんなに盛んに唸ることはなかったと思います。今回はもうグレン・グールド並みに唸っていました。それだけ音楽の内面への没入が激しかったのだろうと思います。ここにポリーニの演奏の在り方が変わって来たことが察せられます。要するに第三者的な客観性で演奏の細部にまで目を配って全体を制御しようという姿勢よりも、音楽に没入して内面から制御する姿勢に変化して来たということでしょう。しかし、ポリーニが変わらずポリーニであることは、大曲においてかつきりした構成感が維持されている ことからも明らかです。そこにポリーニの理性が感じられます。一方、小曲においては余分が力が抜けてポリーニの新たな境地が見えてきた思いがします。前回の来日公演でも、小川のせせらぎが太陽の光に反射してキラキラして見えるような場面が聴こえたけれども、プログラム冒頭のシューマンのアラベスクや、アンコール2曲目のショパンの子守唄では、さらにその傾向が顕著になってきたと思われました。独特の軽さと明るさを感じさせて、ホントに心に沁み入る響きでありました。

演奏は素晴らしかったです。時折技術的に危なそうな場面は確かにありましたが、目立つ大きなミスは聞こえませんでした。それどころか弾いているうちにだんだん乗って来たのか、オオッさすがと思わせる目も覚める技巧、ダイナミクスの大きな変化を聴かせて、しかも構成がビシッと決まる。これでなければポリーニではない。 シューマンの第3番のソナタ、ショパンの第3番のソナタでは、「ポリーニも いささか御歳を召した」なんてイメージを吹き飛ばす出来になりました。この出来にはご本人もご満悦だったと見えて、アンコールはショパンのスケルツオ第3番、これも難曲ですが、スケールが大きい仕上がりになりました。しかし、この頑張り過ぎが祟って「腕の疲労か抜けない」ということになってしまって、その後のリサイタルの日程が変更になったり・プログラムを軽い曲目に変更する事態になってしまったのはお気の毒であったけれども、7日のリサイタルでのポリーニは「俺もまだ老いてはいない」という気概を見せ付けた気分だったでしょうか。

しかし、今後のポリーニの方向は、恐らく小曲における軽さ・深みの追求と云うところにあるのだろうと思います。全盛期に技巧で鳴らしたピアニストに対しては、音楽ファンは往年のイメージをどうしても期待してしまいますし、本人もその落とし穴にはまりやすいものです。それで音楽が崩れてしまうことも多いものです。しかし、晩年のホロビッツが飄々とした洒脱な芸を聴かせましたけれども、あんな風に純粋に「音楽する歓び」を表現するのも決して悪くないことです。全盛期のホロヴィッツはピリピリして神経質な感じもしましたけれど、晩年のホロヴィッツは「あの10年の隠遁生活は何だったのだろうか」と思うような人が変わった好々爺ぶりでした。ポリーニも約50年ストイックに頑張って来たのだから、もうそろそろ自分のために音楽しても良いのではないかな、それがポリーニならばファンもそれを許すと思うのですそんなことをリサイタルを聴きながら思ったものでした。

ちなみに当日(7日)のプログラムは下記の通りでした。
シューマン     アラベスク op.18
                   アレグロ ロ短調 op.8
                   ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 op.14 「管弦楽のない協奏曲」
ショパン       二つのノクターン op.55
                  ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 op.58
(アンコール)
ショパン      スケルツオ第3番 嬰ハ短調 op.39
                   子守唄 変二長調 op.57

(H30・10・27)




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