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髪を梳く六代目歌右衛門

   〜六代目歌右衛門の二役による「髪梳き」論


1)「四谷怪談}のお岩

歌舞伎界で「長いモノ」といえば、まず思い出すのは歌右衛門の「尾上の引っ込み(鏡山)」、これと並び称されるのがやはり同じ歌右衛門の「お岩の髪梳き(四谷怪談)」です。その歌右衛門の「お岩の髪梳き」の長さと言ったらあまりに長くて下座が間違えたほどであったとか、「思わず時計を見てしまったほどに長い」とかいろいろ言われております。

昭和54年9月歌舞伎座で歌右衛門が一世一代で演じたお岩の浪宅での演技はくどいほどに丁重な演技で延々と続き、確かにそれはそれは長い演技でした。何度も伊藤家のほうに向かってお礼を言ってお辞儀し薬を飲み、また「髪梳き」もゆっくりと何度も櫛を通すという感じでありました。しかし舞台には緊張感がみなぎっていてお岩の仕草のひとつひとつが観客の注意をひきつけるような演技でまったく退屈させられませんでした。実に怖い演技でお岩が髪をさばくたびに客席から悲鳴が上がったほどでした。

しかし浪宅のお岩の「髪梳き」の場というのは、薬で面相の変わったお岩が夫伊右衛門が愛想を尽かされ伊藤家に怒鳴り込みに行こうとして産後の具合が良くなくて動けないのにそれでも女のたしなみとして化粧をしようという場なのですが、それが皮肉にも髪を梳くたびにますます醜くなっていくという哀しい場面であるわけです。それが「髪梳き」ばかりが肥大化して、お岩のお化け変身の場みたいになってしまっているようにも思われました。「四谷怪談」はもちろんお化け芝居ではありますが、これほどに「髪梳き」が全面に出た芝居も珍しかったのではないでしょうか・・・・というような感想はじつは脚本本位の理屈先行の見方だと言えます。もちろんそういう見方もそれはそれで正しいのです。それも作品理解のためには大事なことなのですが、こういう見方ばかりだとやはり「芸の秘密・魅力」をとりこぼすことにもなりかねません。

ここで次のようなことを考えてみたいと思います。お岩は浪宅のいつの時点で怨霊に化すのでしょうか。お岩が刀にあたって死んだ時でしょうか、もちろん生理的にはそうなのですが。それとも、お岩が自分の面相が変わったことを知ったときでしょうか、心理的にはそれもあり得るかも知れません。

あるいはこんなことも考えられるのではないかと思いました。歌舞伎では衣装(外見)が変わった時点で同じ役名でも役の性根が変わるということがあります。「○○実は△△」という手法です。外見が変わった瞬間から役の性根をガラリと切り変えその本性を現す、それが鮮やかなほど芝居の面白さが高まります。同様にお岩の「髪梳き」の場を見ることはできないでしょうか。面相が変わり始めた時点からお岩の性根が徐々に変化していくという風に考えられないでしょうか。伊藤家の秘薬(実は面相を変える毒薬)はお岩の体をすこしづ侵していき彼女の面相を変えていきながら、同時に内的にもお岩を徐々に怨霊に変化させていくのではないでしょうか。

お岩が例の薬を白湯でもって丁寧に飲んでいきます。ここからして歌右衛門の手順は長い、ほとんど他の役者の倍くらいです。しかし観客はこれが毒薬だということを知っているのだから、「・・ああ、いよいよ飲んでしまう・・・ああ、飲んじゃった」と息をつめて見ているのだから、お岩の仕草のひとつひとつがまるで運命の仕草のように意味をもって観客に伝わっていきます。歌右衛門は何度も捨て科白で伊藤家に礼を言いながら薬を飲んでいきます。丁重にも薬を包み紙を叩いて薬の最後の最後まで飲みます。が、それがなおさらお岩の無実とこれから迫る悲惨を感じさせて観客の心を締め付けます。

やがて毒薬の効き目が現れてきます。お岩の言葉が突然つかえて、胸の底から不快感が湧き上がってきます。まだ効きはじめなので不快感はそう大きなものではありません。もちろんお岩はそれが薬のせいだとは思ってもいません。しかし観客には「・・ああ、毒薬が効いてきた」ということが分かります。ここから毒薬はお岩の身体を侵しはじめるのですが、同時に伊藤家の邪悪な企みがお岩の心を侵しはじめるのです。

生理学的にいえば毒薬を飲んだときに出る腫れ物や湿疹はアレルギー反応であり、それは薬から身体を守り毒素を排出しようとする一種の防御反応なのです。同様に伊藤家の邪悪な心に対してお岩の心は怨念というアレルギー反応を示しはじめるのです。ですからこの時点からお岩は自らは意識してはいませんが怨霊に少しづつ変化していくのです。このお岩の実体の内的な変化を歌右衛門はその長い丁寧すぎるような演技で観客に実感させていくのです。

眼目の「髪梳き」になりますとそれが観客に明白になっていきます。歌右衛門が髪に櫛を通し髪をさばくたびにお岩の髪は抜け落ちていきます。美しくなるための髪梳きのはずがお岩はどんどん醜くなっていきます。その 悲しみがお岩を怨霊に転化させていきます。その意味では歌右衛門の「髪梳き」は怨霊への転化を紡ぎ出すための儀式であり、確かにお化けへの変身の場なのでした。

2)「恐怖時代」のお銀の方

歌右衛門の「髪梳き」といえばもうひとつ、昭和56年8月26日に武智鉄二古希記念公演として一日だけ歌舞伎座で上演された谷崎潤一郎の「恐怖時代」の悪女お銀の方の演技も思い出されます。この時の歌右衛門の「髪梳き」もまたじつに長い長いものでしたが、しかしこれも気の入った入念な演技でした。私にとっては歌右衛門の名演技ベスト10を挙げよと言われれば、このお銀の方もその中のひとつに挙げたいほどに強烈な印象として残っています。第一幕の「お銀の方の部屋の場」でうす暗い舞台に歌右衛門だけにスポットが当たり、その光のなかで歌右衛門は鏡台の前に据わり、ゆっくりとゆっくりと入念に髪を梳き、結い直していきました。全体に妖気と緊張感が漂い、その一挙一動が何か確信のある演技のようで何気ない動作さえ見落としてはいけないように思えました。観客は声も立てずに歌右衛門の演技に見入るばかりで、本当に劇場全体が歌右衛門だけになってしまった感じさえしました。

このお銀の方の部屋の場での「髪梳き」は、谷崎の原作でみますと家老春藤靭負が部屋を下がり医者細井玄澤が部屋を訪れるまでの単なる「つなぎ」に過ぎません。原作でのこの部分のト書きは、「お銀の方は鏡台に据わり,やや暫く化粧に念を入れてから、輝くばかりに美しくなって、再び元の席に就く。」とあるだけです。べつにお銀の方が「髪を結い直す」と書いてあるわけでもありませんし、作者谷崎はこの部分にさほどに意味も時間も要求していないように思われます。あるいは、この時の上演では富十郎が梅野と玄澤の二役を兼ねていましたから、その衣装変えの時間を稼ぐために演出の武智氏がお銀の方の化粧の時間に多少長めの時間を要求したのかも知れません。武智歌舞伎時代(昭和二十年代後半)に評判をとった「恐怖時代」の舞台と比較しようがないので推測ですが、これはたしかに歌右衛門のために考えられた演出であったようです。

お銀の方はひとりになるとゆっくりと化粧を始めます。玄澤の来るのを待っているのですが、彼女には目的があって手持ちの毒薬の効き目を試してやろうと考えている訳です。毒薬がどういう効き目を現すか、玄澤がどんな苦しみ方をして死んでいくか、どうやって殺してやろうか、それを思うと嬉しくて嬉しくてもうたまらない・・・という思いを押し隠しつつ、お銀の方は化粧をしていくのです。お銀の方の長い化粧と髪梳きは、殺しを十二分に舐めるように楽しむ為の入念な準備なのです。歌右衛門は役作りのために脚本を読みながら2行ばかりのト書きをそう読んだに違いありません。この2行のト書きが歌右衛門によっておそらく作者谷崎も予想もしなかったほどに見事に膨らませられたのです。

お銀の方の髪梳きは「四谷怪談」と違って美しくなるためのものですが、その倒錯した情念が歌右衛門の動作のひとつひとつから放たれるようでした。幕切れで苦しみながら死んでいく玄澤(富十郎)の口を懐紙で押さえてその顔をじっと見下ろす歌右衛門のお銀の方の表情といったら、それはもう凄いというか恐いというか、ホントに忘れられません。

3)髪に宿る霊力

古来、人は髪には霊力が宿ると考えていたようです。これは日本だけのことではなくて、たとえば聖書に出てくる怪力のサムソンは美女デリラにだまされて七本の巻き毛を切られてその力を失い、ペリシテ人の手に落ちます。そのサムソンが再び怪力を取り戻しペリシテ人に逆襲するのは、サムソンの髪の毛が伸びてからです。またインディアンが敵の頭の皮を剥ぐのも発想の根本は同じで敵の力を奪おうとするものだと言えます。

髪の毛を切って神への供え物にするのも、髪はその人そのものに成り代わるものとされたからでした。また髪を結うという行為は男と女が心を通わせるのと同じ意味がありました。万葉の時代、女性は成人や婚約に際して夫となるべき男の手で髪を結ってもらったといいます。これは結納という形でいまも残っています。

このような髪に対する日本人の民俗的意識は、さらに髪を洗う、髪を梳くといった行為にも神事的な意味合いを見出すのです。「宇津保物語」には七夕の髪洗いの風景において、加茂川の河原に桟敷を並べて髪を洗い、琴を弾き和歌を読み、浮かれ女と戯れる宮廷人の姿が描写されています。それはまさに「禊(みそぎ)」の趣を呈しています。髪を洗うことは日常の穢れをはらう行為であったわけです。

歌舞伎に見られる「髪梳き」の場面も同様に、それは髪を櫛に通しながら心の微妙な綾を紡ぎ出し、湧き上がる情念をさらなる次元へ高めていくというまさに神事的・呪術的な意味を持っていると言えます。その代表的なものが「四谷怪談」のお岩の髪梳きです。お岩は髪を梳くことにより恨みの情念をゆっくりと高めていき、お岩は髪を梳きながら次第に「人間ならざるもの」に転化していくのです。歌右衛門にとってその長い「髪梳き」はお岩が怨霊に転化しこの世にはない力を得るためにどうしても必要なものでした。歌右衛門はそのために「髪梳き」に長い時間を掛けなければならなかったのでした。

(H13・3・16)



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