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二代目扇雀の美しさ〜歌舞伎の女形の写実に関する随想


1)扇雀の「高野聖」

最初にお断りしておくと、本稿での扇雀は先代(二代目)扇雀・すなわち現・(四代目)藤十郎のことを指しています。 本稿は藤十郎の美しさについて書くものですが、吉之助の場合はやはりここは扇雀と書かないと筆にイメージが涌きません。別稿「高野聖のたそがれの味」で触れましたが、鏡花の小説「高野聖」が歌舞伎で舞台化されたのは昭和29年(1954)のことで、吉井勇脚色・久保田万太郎演出で扇雀(現・藤十郎)の美女・蓑助(八代目三津五郎)の若き僧でした。水浴みの場面で着物を肩まで脱いで・背中を半分くらい見せた半裸姿の扇雀の舞台写真が残っています。確かに女形の伝統美からは逸脱したものではありますが、その衝撃はいかばかりのものであったか。その伝説の舞台を生で実際にご覧になったYさんからメールを頂戴しました。「その前後の芝居のことは忘れてしまったのに、この芝居のことだけ強烈に覚えている。扇雀の上半身の肌はきらめくほど眩しく感じられた」とのことでした。それはショッキングなものだったと想像されます。この感覚は戦後(昭和20年代)という時代と密接に関連していると考えられます。

*昭和29年(1954)6月大阪歌舞伎座での「高野聖」
女房雪路(二代目扇雀)

ところで素の美しさを売り物にした「キレイな女形」の先駆けと言えば二代目松蔦を思い出します。松蔦は二代目左団次の相手役として・大正期の新歌舞伎になくてはならない存在でした。「松蔦のような女」という言葉があったくらいで、松蔦の美しさは当時の学生の憧れの的でした。ところが、折口信夫は松蔦についてこんなことを書いています。

『生涯娘形で終るかと思われる位小柄で美しい女形であった。だが松蔦の美しさは素人としての美しさに過ぎなかったのである。こうした美しさは鍛錬された芸によって光る美しさではなく、素の美しさで、役者としてはむしろ恥じてよい美しさである。』( 折口信夫:「役者の一生」・昭和17年12月)

*折口信夫:「役者の一生」はかぶき讃 (中公文庫)に収録

役者はいつまでも素の美しさを誇っているだけでは駄目で、年齢を経るにしたがってそれが芸による美しさに置き換わっていかなければなりません。しかし、ある年齢においては役者の素の美しさの方が勝つ時期も確かにあるでしょう。松蔦は若くして亡くなりましたから 、折口信夫には素の美しさのイメージが強く残ったかも知れません。折口信夫は「昔は女だか化け猫だか分からない汚い女形が多かったが、最近は美しい女形が多くなった」と書いています。ある時期からエグい味の女形が敬遠されて見た目の美しい女形が次第に求められるようになったことは事実です。それが時代の要請であったのです。松蔦はそんな流れから登場した新しい感覚の女形でしたが、もうひとつ忘れてはならないことは・松蔦の美しさの源は当時の生き生きとした女性の感覚にあったということです。大正期の男子学生のお目当ては松蔦の素の女性美だけだったと考えると誤解を生じます。それは当時のモダンでヴィヴィッドな感覚の生身の娘さんのイメージと密接に結びついており、そうしたイメージを若き学生は松蔦の演じた新歌舞伎の女性に重ねて見ていたわけです。(逆に言えば新歌舞伎に登場する女性たちはそのような感覚を重ねて・読まねばならぬのです。)

同じように若き扇雀も「扇雀のような女」ということが言われました。その名前を冠した飴(扇雀飴)が出たくらいで、当時の人気は凄まじいものでした。そのきっかけは もちろん昭和28年の宇野信夫脚色による「曽根崎心中」です。「曽根崎心中」初日のこと、お初・徳兵衛が天満屋を抜け出す緊迫した場面で興奮した観客から「早く、早く・・」と声が掛かり、初日の熱気に演じる方が当てられてしまって、思わずお初が徳兵衛の手を引っ張って花道を引っ込んでしまいました。心中物では男が女の手を取って花道を引っ込むのが歌舞伎の通常の型ですが、思わぬハプニングが新鮮な感動を呼んで、以後の本作ではお初が徳兵衛の手を引いて花道を引っ込むのが型になってしま いました。この「曽根崎心中」の成功は海老蔵(十一代目団十郎)の「助六」・芝翫(六代目歌右衛門)の「籠釣瓶」と並んで・昭和20年代の歌舞伎の特筆すべき事件でした。この「曽根崎心中」での花道引っ込み(お初が徳兵衛を手を引っ張って引っ込む) が観客に与えた衝撃がいかに大きかったかは、婦人参政権の獲得・男女同権という戦後の民主主義の流れを踏まえて・初めて理解ができます。

その翌年の「高野聖」での扇雀の半裸は、当時「本物の女より美しい」と言われた扇雀の魅力(ただし女形本来の魅力ではないところの女優代用品としての扇雀)を売り出そうという興行側のいささか不純な動機が背景にあったのは確かです。当時は映画隆盛の煽りを受けて上方歌舞伎は急速に衰退に向かいつつあり、そうしたなかでの扇雀人気はいろんな形で波乱を巻き起こしました。「高野聖」では鶴之助(現・富十郎)が配役を巡って抗議したとかいろいろ騒ぎもありました。ですから現・藤十郎も「高野聖」にはあまり良い思い出がないだろうとお察しもします。しかし、それはともかくとして「高野聖」での扇雀の半裸が当時の観客に与えたショックというものは、やはり戦後民主主義と深いところで関連していると吉之助は思います。

(H20・10・8)


2)セクシーな女形

ひとつにはアメリカさんがやって来て江戸からずっと引きずっていた封建主義の尻尾が断ち切られたという感覚から戦後日本の民主主義が出発したということがあります。まあそれは今から見れば幻想もあったわけですが、当時はそう感じられた時代でありました。そうした雰囲気が歌舞伎に影響しないはずがありません。一番影響を受けたのは女形の存在です。もともと女形というのは 幕府が女優を禁止したから仕方なく出来たもので、本来ならばあり得ないものだからです。「男が女をやるなんてそんな不自然なものは止めてしまえ・今は男女同権の時代だぞ・女形なんて時代遅れの遺物だ」という声が起きるのは当然と言えば当然のことです。男女同権によって歌舞伎の女形存続の根拠が失われたのです。このような時代に対処するために多くの女形はこれを伝統的な特殊技能として割り切る形で対処しました。歌右衛門だけは時代に挑戦的に対峙しましたが、これについては別稿「歌右衛門の今日的意味」を参照ください。一方、扇雀の場合はまだ若いので・素材としての要素が勝つわけですが、扇雀は実に素直な感性で民主主義の感覚を取ったと思います。女形を不自然と思わせない素の美しさがあったということです。どこか「お隣りのキレイなお姉さん」的なイメージがあったと思います。

こうした感覚を扇雀を育てた武智歌舞伎の観点から見てみます。武智鉄二の理論からすると女形が素材として美しいかどうかということは本来必要条件ではないはずです。女形にまつわりついた虚飾の技術・グニャグニャした身振りとか・「じゃわいなあ・・」という言葉遣いなどを武智は嫌いました。武智は古典的なスッキリしたイメージを女形に求めたと思います。こういう感覚は戦前は「女は女らしく」と言われて・内股でチョコチョコ走らないと・おしとやかと言われなかったものが、戦後は外股で歩幅大きくサッサと歩くのが「いい女」になったのと同じ感覚です。それでも歩いている女性という本質は変わらないはずだとするのです。武智の「女形不要論」(昭和31年)はそのような戦後感覚で・芸の本質をアンチテーゼ的に問うものでした。つまり、歌舞伎に女優が参画しようと思えばそれができる男女同権の時代になった今・ジェンダーな虚飾の演技は女形に必要かということが武智の問いなのです。ところが、そうした女形の虚飾の要素を剥ぎ取り・女形の芸をシンプルに突き詰めていくと、「女に見えるか見えないか」という素材の要素が逆に現実的な問題として浮き上がってくるということが言えます。やはり女形は素材として美しいに越したことはないという結論になってくるのです。

吉之助が歌舞伎を本格的に見始めたのは昭和50年代ですから・武智歌舞伎時代の扇雀はもちろん知る由もありません。しかし、昭和50年代の扇雀もやはり素材として生身の女性に近い感覚を強く感じさせました。これは扇雀が藤十郎となった現在でも同じです。扇雀という役者は素材として色気があって・セクシーなのです。なるほど「一生青春」をキャッチフレーズにする役者さんだけのことはあります。

(H20・10・11)


3)美しすぎる女形

思い出すのは平成18年(2006)1月歌舞伎座での坂田藤十郎襲名での「伽羅先代萩」において、我が子千松を刺し殺された政岡が八汐に「政岡、現在のそなたの子(殺されて)悲しうはないかいの」と問われて、「何のマア、お上へ対し慮外せし千松、ご成敗は御家の御為」と答える場面です。この政岡の台詞を男の地声で強く言い切った藤十郎の政岡の演技は圧巻というべきものでした。政岡が背負う時代の状況は・女優にはとても表現できないほど重いものです。藤十郎から発せられた男の地声はグロテスクを感じさせ、それが政岡に課せられた引き裂かれた状況を見事に表現しました。まさに女形にしか出来ない表現でした。

しかし、この場面では吉之助はこういうことも感じました。藤十郎の視覚的な美しさはちょっと生(なま)な写実的な美しさであるので、その美しさと男の地声のグロテスクさに感覚的な齟齬があるということです。その齟齬がバロック的と感じられるならば・それは女形の本質に沿うわけです。確かにそう言えないこともないのですが、吉之助は藤十郎(扇雀)の演技に感嘆しつつも・例えば 藤十郎が亡くなった九代目宗十郎のような古風な容姿の女形の政岡ならさぞかしバロック的な感覚が強烈に感じられる政岡になるだろうに・・・という感じがないわけではなかったのです。芸とは関係ないところで・藤十郎は素材としてちょっと美しすぎるということです。生な美しさがちょっと邪魔になるのです。いや芸とは難しいもんだわという気がしました。

実は吉之助は武智理論のストイックな女形のイメージと扇雀の生身の女のイメージに齟齬がある感じをずっと持っています。もちろん扇雀は武智仕込みのしっかりした技芸を持っています。その技芸に問題があるということではありません。味付けを抑えたシンプルな料理では素材の良し悪しがその出来を直接的に左右するように、虚飾の要素を剥ぎ取ったシンプルな女形の技芸ではむしろ役者の素材としての美しさがより重要な要素になってクローズアップされてくるということです。いずれにせよ・その辺に理論と実践の難しい問題が潜んでいます。これは武智理論の問題でもあると言えるかも知れません。

(H20・10・13)


 4)写実の女形の幻影

武智鉄二の女形観は(弟子である吉之助も同様ですが)古典的でストイックなもので、どちらかと言えば文楽の人形に近い感覚から発しており・そこからバロック的な方向へ視点を取るという感じがあるかも知れません。本稿は女形の外見的な美しさだけを論じているので・他の要素については別の機会としますが、そう考えれば扇雀の美しさというのは肉感的で・肌の温もりを感じさせるもので・感覚的に健康なものであり、そこにグロテクスで不健康という印象はありません。一方・女優には演じることが出来ない政岡は女形の虚飾の技術を尽くした役どころでグロテスクな要素を強く持っていますから、その辺に視覚的な齟齬があるようです。吉之助が「生な美しさがちょっと邪魔になる」と言うのはそこのところです。

しかし、このことは扇雀の美しさが歌舞伎の女形として邪道であるということを意味しません。別の視点で見ると・武智の女形観は女優参加が禁止される以前の歌舞伎の写実への憧憬を強く持っており・それが幕府の政令によって禁止されて・写実の表現が無理やり捻じ曲げられたためにやむなく生じたグロテスクで歪んだ虚飾の技術がいま女形の美の本質と言われるようになってしまったという史観から発しています。ですから素の美しさを何の疑念もなく・素直に提示して・それでそのまま通用してしまう容姿を持つ女形というのは、まさに武智が憧憬するところの 創成期の歌舞伎の写実の原点を想起させるわけです。それが若き扇雀という存在であったと思います。武智の「女形不要論」(昭和31年)の文章は直接的にはその前年に「東は東」を狂言様式で演出した時の萬代峯子の演技の素晴らしさをきっかけに論が書き出されていますが・実は萬代のことは論の取っ掛かりに過ぎません。それ以前に扇雀との出会いがなければ武智の「女形不要論」は成立しなかったと思います。その意味で扇雀も萬代も「女形不要論」も戦後民主主義そのものなのです。

当時の歌舞伎の世界で武智の「女形不要論」の本意は理解されたとは言えませんでした。「女形不要論」をきっかけに評論家の戸部銀作氏との間で交わされた討論はほとんど論点がかみ合わず・議論らしい議論にならずに終わってしまいました。それは戸部氏がジェンダーな虚飾の技術が定着した後の歌舞伎と女形の関係を歌舞伎の本質(最初からそのようにしてあったもの)とする立場に固執するばかりであったからですが、多くの人が武智の「女形不要論」を戸部氏同様に受け取ったと思います。しかし、もし「女形不要論」が若き扇雀のことをきっかけに書き出されていれば、武智の本意はもう少し理解されたかも知れません。

そう考えれば扇雀に点が入る役どころは、写実という観点においてやはり「曽根崎心中」を始めとする近松の世話物の役どころになるのは当然です。それは享保の初代富十郎以前・すなわち内輪歩きなど女形の虚飾の技術が発達する以前の役どころだからです。ですから昭和28年に扇雀が「曽根崎心中」を引っさげて登場し大ブレークというのは・まさに戦後という時代がそのような女形を求めたとしか言いようがないものでした。そこで話を振り出しに戻して扇雀の「高野聖」の美女の半裸姿のことですが、たとえそれが一時の仇花の美であり・決して女形の形として定着することがないものであったとしても、若き扇雀の肌の美しさには創成期の歌舞伎が夢見た写実への憧憬があったに違いないのです。

(H20・10・16)




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