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黙阿弥について

*「吉之助の雑談」での黙阿弥関連の記事をまとめました。


○井上ひさし氏と黙阿弥

岩波現代文庫の一冊として河竹登志男氏の「作者の家・黙阿弥以後の人々」(第1部・第2部の2巻構成)が発刊されました。この本は昭和55年に刊行されて絶賛を浴びた本です。黙阿弥の長女糸が家を継ぎ、養子(繁俊)をとり、関東大震災などの苦難を経て、狂言作者の家をどう守ってきたのか、を描いたものです。

ところでこの文庫に納められた井上ひさし氏の解説がまた滅法面白いものなので、紹介します。井上氏は「黙阿弥とその孫繁俊には随分お世話になった」と言って次のようなエピソードを書いておられます。

井上氏はその昔、浅草のストリップ小屋で座付き作者の修業をされたそうですが、その楽屋の神棚には河竹繁俊著の「歌舞伎作者の研究」が何故か置いてあり、新入りの文芸部員はこれを読むことを義務付けられていたそうです。井上氏はこの本を読んで感激し、

「この小屋の給料がどんなに安かろうと、それは問題ではない。とにかくどんなことがあろうと、自分は小屋の裏方として一生を過ごそう」と神棚に誓いと立てたそうです。そして「ストリップ小屋をその昔の芝居小屋に見立てて、暗転の時の小道具の出し入れなどをできるだけ「粋」にと振舞ったものだった。」

日本の芸道の精神はこういう所にも綿々と受け継がれているのだ、ということにえらく感動してしまいました。いや、これは冗談ではありません。劇作家としての井上氏の今日を思う時、浅草時代の現場で得た感覚というのは本当に貴重なものなのでしょう。その感覚と黙阿弥とが奥底でつながっているわけです。その井上ひさし氏ですが、黙阿弥を主人公としたお芝居「黙阿弥オペラ」も書いておられます。

(H14・2・6)


○黙阿弥の「江戸のこころ」

別稿で「試論:黙阿弥の七五調の科白術」をお届けしております。舞台に立った事のない人間が科白術を云々するのは僭越なことであり、本当は素人が書くべきでないことで、それで「試論」と冠しています。評論家先生か昔の舞台を知っている人か、誰か言うべき人に言ってもらいたい、とずっと思っていた事ですが、これから「歌舞伎素人講釈」で黙阿弥を取り上げるに当たり、ここの視点は明確にしておかねばならない、と思いました。

舞台を見ていると、今の役者さんの黙阿弥の七五調の科白は、工夫でもっと写実にできるはずだ、と不満を感じることが多いのです。あれは本当の「七五調」ではないと思ってます。黙阿弥については、音曲を利用して情緒的様式美に傾き・写実な人間を描写しようとする意欲が弱い芝居、という認識が結構多いように思います。これはある面ではそのように見えるかも知れませんが、今の役者のダラダラの七五調の科白と間延びした演技による印象のせいがかなりある、と思います。

黙阿弥の芝居は明治という世が否定・抹殺せねばならなかった「江戸」というイメージそのものでありました。だから、明治に入って黙阿弥は、「河竹新七(黙阿弥)は時代遅れだ」という批判にさらされ、随分苦しい・惨めな思いをしました。実際、黙阿弥はそうした批判をかわすために、散切狂言とか、いろいろな試みをしてきました。しかし結局は、演劇改良協会・明治の進歩主義知識人らの批判にもかかわらず、東京の庶民は黙阿弥の「江戸の」世話物狂言を支持したのです。このことは大事なことなのです。

明治14年に河竹新七は「黙阿弥」に改名するわけですが、その心を「以来は何事にも口出さず黙っている心にて黙の字を用いたれども、又出勤する事もあらば元のもくあみとならんとの心なり」と自ら記しています。その真意はいろいろ解することができましょうが、「そのうち私の時代がまた来る」という風な反骨の精神が読み取れましょう。

だとすれば、黙阿弥が芝居に託した「江戸のこころ」は言われているような・活力のない疲弊したものであったのでしょうか。そんなことは断じてないでしょう。何回かに分けて断続的になるでしょうが、本「歌舞伎素人講釈」では「現代における黙阿弥の再評価」を考えていきたい、と思います。

(H14.4.20)


○「世直し」について

別稿「小団次の西洋〜四代目小団次と黙阿弥」において、江戸庶民の「世直し」感覚について触れました。「世直し」というのは、社会改革・人権運動のようなものだけを指すとは限りません。レベルはいささか低いけれども、世の中の不平不満に対する鬱憤晴らし的なものも「世直し」になってしまいます。だから、時に地震も、泥棒でさえも「世直し」になってしまうのです。

天明4年(1784)、江戸城中で若年寄田沼意知(おきとき・老中田沼意次の嫡男)が旗本佐野善左衛門に斬り付けられ死亡するという事件が起こりました。言うまでもなく「城中での抜刀はご法度」ですから善左衛門は切腹となりました。しかし、刃傷の背景については不明の点が多いようです。

この刃傷の翌日から、田沼親子によって買い占められて高騰していた米相場はにわかに下がり始めました。江戸庶民は善左衛門を「世直し大明神」と呼んであがめ、浅草にある善左衛門の墓を参拝する人は引きもきらず「花を立てしさま林の如く、地上の線香の煙り人を襲う」(山東京伝:「蜘蛛の糸巻」)ほどであったそうです。

この事件を材料にした歌舞伎「有職鎌倉山」(寛政元年作)では、鎌倉時代の佐野源左衛門経世と三浦泰村の息子義勝との間の出来事に仮託して芝居に仕上げています。

このように江戸庶民の「世直し」は本質的に受身で、具体的に何が不満だ・どこをどう変えてくれ、というものがある訳ではありません。かと言って、江戸庶民が「主体性なく・無批判的で刹那的な生き方であった」とも言い切れません。ここのところをバランスを取って、柔軟に庶民の気持ちを読んでいきませんと、取り落とすものが出てくるのではないでしょうか。

例えば、「忠臣蔵」を忠義批判・賄賂批判・武家批判である、という読み方ももちろんできると思いますが、ちょっと「唯物史観的・階級闘争的」に割り切り過ぎる見方のようにも思えます。一方で、黙阿弥の「白浪物(泥棒)物」を幕末江戸の退廃した雰囲気の産物・様式美に傾いた情緒過多の芝居だとする読み方にも非常に問題があると思わざるを得ません。

「白浪(泥棒)物」は「世直しもの」である、という見方は黙阿弥に新しい視点を与えるものだ、と思っておるのです。

(H14・5・10)


○写実の「弁天小僧」?

丸本という原典が存在する浄瑠璃作品と違って、歌舞伎オリジナル作品の場合はもともとが役者にはめて書かれていて・上演の度に書き換えられるのが普通です。どれが原典なのかはっきりしないところが歌舞伎オリジナル作品を論じる時にちょっと躊躇するところです。

ところで、国立国会図書館のサイトの「近代デジタルライブラリー」で明治期に出版された書物を見ることができて重宝しますが、ここで河竹黙阿弥を検索すると明治21年11月発行の「弁天小僧」の脚本(歌舞伎新報社刊)を見ることができます。この脚本を見ますと、現行台本と随分と違うのですね。

『(弁)こう兄貴、もう化けてもいかねえ、おらァ尻尾を出してしまうよ。(南)ええ、この野郎、しっこしのねえ。もうちっと我慢すりやァいいに。(幸)さては女と思ったは。(宗)騙りであったか。(皆々)ヤアヤア。(弁)知れたことよ。金が欲しさに騙りに来たのだ。秋田の部屋ですっかり取られ、塩噌(えんそ)の銭にも困った所から一本ばかり稼ごうと損料物の振袖で役者気取りの女形、うまくはまった狂言もこう見出されちゃあ訳はねえ、ほんの只今のお笑い草だ。(逸)たくみし騙りが現れてもびくともせぬ大丈夫、ゆすりかたりのその中でも定めて名ある者であろうな。(弁)知らざァ言って聞かせよう以前を言やァ江ノ島で年季勤めの稚児ヶ淵岩本院で講中のまくら探しも度重なりとうとう島を追い出されそれから若衆の筒もたせ名さえゆかりの弁天小僧菊之助という小若衆さ。(南)その相ずりの尻押しは、生まれが漁師に浪の上、板子一枚その下は地獄と名に呼ぶ暗闇も居所定めぬ南郷力丸、面を覚えて貰いやしょう。』

この本には「著者:吉村新七(もちろん黙阿弥の本名です)、発行者:吉村いと(黙阿弥の長女です)」と表記されています。黙阿弥は明治26年没ですから、黙阿弥の目が入っているものだろうと思います。黙阿弥が定本として遺そうとしたものなのかどうかは分かりませんが、ここでは弁天小僧や南郷力丸の有名な長台詞が半分くらいになって、全体のトーンもあの音楽的な七五調の滔々とした流れとはちょっと違います。サッパリして読んでいてリアルな感触があって、なるほどこれが元なのかな・・と感ずるところがあります。これで黙阿弥を論じるとちょっとイメージが変わるのじゃないかと思いました。

しかし、それでは現行台本はどういう過程で・どういう典拠で固まってきたものなのでしょうか。上演の過程で捨て台詞などかなり書き加えられたものなのでしょうか。本書は学術的にはどう位置付けられているのでしょうか。いろいろと疑問が出てきます。(しかし国立劇場上演資料集の参考文献には本書の記載なし。)こういう専門的なことは「歌舞伎素人講釈」の論じるところではないのですが、ご専門の研究者の方に是非ご教授いただきたいものです。

(H16・1・29)


○黙阿弥とマーラー

別稿「黙阿弥のトラウマ」では黙阿弥のよそ事浄瑠璃について考えています。そのなかで心理学者フロイトの作曲家マーラーの診療の話を引きました。マーラーは作曲中に気高い旋律を発想している時にしばしば通俗的な旋律が頭のなかに入り込んできて曲を台無しにされることに悩んでいました。フロイトはそれが彼の幼年期の体験から来るものと診断 したのです。マーラーの両親は夫婦仲が悪く・しばしば大喧嘩をしたそうです。見るに耐えない光景にグスタフ少年は戸外に飛び出し・町をさまよいましたが、その時に聞こえてきたのが・辻音楽師の手回しオルガンの奏でるウィーンの流行歌「おお、いとしのアウグスチン」でありました。「その時以来、深刻な悲劇性と軽薄卑俗な娯楽性が私の心のなかで結びつき、前者の想起は必ず不可避的に後者を呼び覚ます・・」とマーラーは書いています。

例えば交響曲第2番「復活」の第5楽章では舞台上の大編成オーケストラに加えて・舞台裏に第二(遠隔)オーケストラが設置されています。残念ながらその音響効果の面白さは録音(CD)では十分に分かりません。是非とも実演を聴く必要があります。私もこの曲はCDではかなりの数の演奏を聞いていますが、アバド指揮ベルリン・フィルの実演で初めてこのことを実感しました。客席からは見えない・はるか彼方から聞こえてくる行進曲風のトランペットと太鼓の響き(それは黙示録の世界の到来を告げるものです)は、まさに舞台上のオーケストラの奏でる旋律とはかけ離れた・まったく関連性のないところで鳴っているかのように響きます。とは言ってもひとつの曲ですから・もちろんそれは絡み合っていて・ひとつのイメージを成すわけですが、そこで浮かび上がるものは連関性の喪失した・引き裂かれたイメージなのです。これがまさによそ事浄瑠璃の効果です。

黙阿弥の芝居にはそうした場面が実によく出てきます。例えば慶応2年守田座での「鋳掛け松」です。しがない鋳掛け屋松五郎が、通りがかった鎌倉花水橋の橋の上から島屋文蔵と妾お咲の乗った涼み船での豪遊を眺めています。これを見ているうちに、松五郎はむらむらとしてきて、「ああ、あれも一生、これも一生・・・こいつァ宗旨を替えなきゃならねえ」と言って、鋳掛け道具を川へ投げ込んでしまって「鋳掛け松」と仇名される盗賊になってしまいます。

だから吉之助には「十六夜清心」(安政6年市村座)の清元でさえ歪んで聞こえます。この清元はよそ事ではありませんが、明らかによそ事浄瑠璃の先駆です。あの清元を情緒纏綿たる色模様だと思っている限り、腹に刀を構えた清心が月を見上げて「・・・しかし、待てよ」と言って・善心と悪心の間に揺ら揺らしていた心の針が一気に悪の方へ大きく振れる最終場面に必然性を感じることは出来ないでしょう。「・・・しかし、待てよ。今日十六夜が身を投げたも、またこの若衆の金を取り殺したことを知ったのは、お月様と俺ばかり・・・」ここには清心のなかの外界からの強い疎外感がありありと見えます。その疎外感は前半の清元の歪んだ使い方から準備されていて、清心が自殺しようと刀を構えた瞬間にその歪みがついに裂けてぱっくりと口を開ける、私にはそのように思われます。残念ながら現実の舞台はそのようなことを実感させてくれたことはありませんが。

このような黙阿弥の疎外感はどこから来るのでしょうか。ライバル瀬川如皐に水をあけられ・隅田川に身投げしようかと思いつめ・街を当てもなくさまよった若き日の体験から来るのか、それとも幕末江戸の閉塞した空気が黙阿弥にそう思わせたのか。いずれにせよ黙阿弥の心理のなかの心理的外傷(トラウマ)がそこに見えます。それはフロイトがマーラーのなかに見たものと似通ったものなのは間違いありません。

河竹登志夫:黙阿弥 (文春文庫)

(H17・9・17)


○黙阿弥の七五調を考えるヒント

黙阿弥の七五調については近いうちに連載予定の「歌舞伎の台詞のリズム論」(仮題)で詳しく論じるつもりなので・本稿では短く記するに留めますが、本年(2008)5月歌舞伎座での「青砥稿花紅彩画」での黙阿弥の七五調についてちょっと触れておきます。この時の「稲瀬川・勢揃い」においてただひとり・三津五郎の忠信利平だけが正しい七五調のリズムで台詞をしゃべっています。このような正しい七五調のリズムを聞くのはまったく久しぶりのことで、やはり大和屋はきっちりとした伝承ができている家だなあと改めて感心しました。

別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」で触れましたが、正しい七五調は「7」のユニットと「5」のユニットが同じ長さになるもので、つまり「7」は7分の7で早く・「5」は5分の5で遅くなる・変拍子です。そこに微妙に揺れる緩急が付いています。このことは一語一音のイメージに捉われて台詞を聞くと正しく聴こえて来ません。これが正しいとすれば七五のユニットは音符の数で伸び縮みすることになります。日本の伝統音楽に多い二拍子のイメージと結びついて・一語一音に凝り固まって台詞を追うからそう した勘違いになるのです。実際七分音符と五分音符の長さの違いを聴覚で感知するのは難しいことです。こういう場合は速度の変化はユニットで(音楽ならば一小節で)大つかみに感知すれば良いのです。六代目菊五郎の弁天小僧の録音を七五のユニットで聴いてみてください。ユニットが同じ長さでトントンと繰り出すことが分かるはずです。これが台詞の小気味良さを生んでいます。三津五郎の忠信利平の台詞もまったく同じです。

三津五郎の台詞はあっさりとした感触に聴こえると思います。また芝居っ気があまりないように感じるかも知れません。しかし、これが本当の世話の写実の味なのです。人間の言葉というのは・どんな人でも固有のリズムの揺れがあるもので、タンタンタンと同じリズムで機械的に繰り出すものではありません。もちろん七五調は様式的なリズムですが、その揺れの意識において表現ベクトルが写実の方に向いているのです。さらに黙阿弥の七五調は2字目起こしのアクセントがついて・そこで日本語の自然な抑揚が意識されています。ここのところが分かれば黙阿弥の七五調が指向しているものが何か見えてくると思います。

ちなみに 吉之助がダラダラ調と呼んでいるところの・一本調子で七五のユニットが伸び縮みする七五調(これが現行のほとんどの歌舞伎役者がしゃべるところのリズムですが)を七五のユニットを意識して聴けば、「5」のユニットでテンポが速まるかのように感じるはずです。ダラダラ調では「5」が短いわけで・テンポが速まるように聴こえるのは実は錯覚なのです。ですから「5」が速く聴こえるならばダラダラ調です。言葉がただの意味のない音の羅列と化して電報文面の如くとなり・現代の黙阿弥芝居はどんどん写実の感覚から離れていくことになります。

例えば勢揃いにおいて・弁天小僧の長台詞に「さてその次は江ノ島の岩本院の稚児あがり」とありますが、「岩本院の稚児あがり」は吉之助ならば七の速さで切らずにそのまま「12」のユニットのつもりで言いますねえ。「イモトインノチアガリ」の赤字の箇所に二字目起しのアクセントが来ることにご注意ください。そこに微妙な抑揚が付くことが分かります。一本調子で言うものではないのです。吉之助は「岩本院の・稚児あがり」はまあ許せますが、ダラダラ調の「イ・ワ・モ・ト・イ・ン・ノ・チ・ゴ・ア・ガ・リ」は駄目ですねえ。 「イワ・モト・イン」も大差ありません。(・は休止というよりは区切りとお考えください。)「イ・ワ・モ・ト・イ・ン」という単語はないのです。それは「イモトイン」で岩本院と聞こえます。しかし、「岩本院」だけでは意味をなしません。それは「岩本院の」で文節となり、「岩本院の稚児あがり」となって意味ある台詞となるのです。だから「12」のユニットと考えなければならないわけです。役者は記号ではなく・意味のある台詞をしゃべるのですから、七五の様式よりも台詞として意味を成すかの方がずっと大事です。どうすれば台詞を写実にできるか・意味ある台詞にできるかということに重きを置かねばなりません。

ですから先ほど「岩本院の・稚児あがり」はまあ許せると書きましたが・これは台詞が内包する七五の調子からすれば必ずしも間違いと言えないという意味でして、「岩本院の」と「稚児あがり」と文節をふたつに分けてしまうところにすでに反写実の要素があると言えますし、大げさに言えばそこに 台詞が崩壊し・無意味化する兆候が見えるということも言えると思います。その傾向の行き着いたところがダラダラ調であると思います。そうした要素が黙阿弥のなかに全然ないわけではないかも知れませんが、もしあるとすればそれは黙阿弥の生きた幕末から明治初期の民衆の気分の後ろ向きな要素・お上に対する民衆の諦めあるいは投げ槍ムードのようなものから 来るのでしょう。しかし、現代に黙阿弥を活性化するためには逆に民衆の気分のなかの前向きな要素(向上心・変革への意欲)を見据えていかねばならないと思います。それはまず黙阿弥の七五調の写実の要素のなかに現れ ていると吉之助は考えます。巷間言われるような「黙阿弥の七五調は音楽美に傾斜して・台詞劇の本質から離れた」というイメージは修正されなければならないと思います。黙阿弥劇はあくまで世話物であり・それは写実に根差しているのです。

(H20・12・16)


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