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「道化」としての鶴屋南北


『すべてこの世は冗談。人は道化の生まれつき、いつだって頭のなかでは理屈をこねる。誰もかれもが道化なんだ!そしておたがい、あざけり笑いあう。でも、最後に笑う者こそ、本当に笑っているんだ。』(歌劇「ファルスタッフ」の幕切れの合唱・ 歌詞:ボイート、作曲ヴェルディ、原作はシェークスピアの「ウインザーの陽気な女房たち」)


1)嘲笑理論と招福理論

「笑い」とは何でしょうか。「笑い」についての研究は、古代ギリシアのアリストテレスの昔から盛んです。アリストテレスは次のように言っています。

「笑うべきものは、他人に何らかの苦痛も害悪も与えないところの過失、もしくは醜さと言えよう。」

これを読んだ時には意外な感じがしました。アリストテレスは「笑い」についてちょっとシニカルに考えすぎじゃないかと思いました。しかし、 西欧人の「笑い」についての論考はそういうものが多いのです。これを「優越理論」とか「嘲笑理論」というそうです。

「普通の笑いというのは、私の優越性を思いがけぬ形で見ることだ。」(スタンダール)

「笑いは我が身の優越から来る。そして笑いは悪魔的である。ゆえにこれは深く人間的である。これは人間にあって、みずからの優越性の観念の帰結である。」(ボードレール)

「笑いは矯正であるから、あまり好意的なものは持っていない。笑いはむしろ悪を以って悪に報いるのだ。」(ベルクソン)

ここで大事なことは、「笑い」には「笑う自分」と「笑われる相手(対象)」があるという明確な意識です。そして、笑うということは、自分が相手より何かの点で勝っているという意識(優越感あるいは余裕)から来るものであるというのです。「笑い」というのは、つねに笑う者と笑われる者(対象)との位置関係によって計られるということです。逆に言えば、自分が笑われるならば・彼はそれを侮辱と受けとるということでもあります。これが、西欧における「笑い」の本質です。

これを考えるために、有名なアンデルセンの童話「裸の王様」(原題名は「皇帝の新しい着物」と言います)を見てみましょう。悪い服職人にだまされて、目には見えない素晴らしい服を着せられているつもりで得意になって街を行進する王様に対して、大人たちは「何て素晴らしい美しい服なんだ」と口々に賞賛します。しかし、それが「王様は裸 だ」という子供の叫びで破られるのです。たちまち、群集の間に笑いが巻き起こります。王様は恥ずかしくて逃げ出すというわけです。

もし「王様は裸だ」と笑ったのが大人だったとしましょう。おそらく王様は憤慨して「あの男を逮捕せよ」と叫んだことでしょう。満場は凍りついたでありましょう。ここでは「王様は裸だ」という笑いは批評であり、嘲笑であり嘲りであります。当然ながらそうした笑いに対して、王様はそれを自分への侮辱と受け取って対抗しなければなりません。

しかし、ここでは「王様は裸だ」と叫んだのは子供でありました。その子供は「王様は裸だ」と言って「笑った」のではありません。笑ってしまったら、何がしかの意味でそれは批評になってしまいます。子供は「王様は裸だ」と叫んだのです。これは批評でも何でもありません。つまり、子供はまさしく何の悪意もなく「王様は裸だ・何も着ていない」という・その純粋な事実を指摘したに過ぎません。だからこそ、王様はその事実に対して抗弁できないのです。しかし、この時に初めて周囲の大人たちの笑いが巻き起こります。これはもう間違いなく嘲笑であり嘲りそのものです。しかし、王様はその提示された事実が否定できない以上、その嘲笑を止めることができ ません。だから、王様は逃げ出すわけです。これが西欧の嘲笑理論の笑いです。

ところで、西欧人には日本人がよく笑うのが実に不思議で・まったく理解できないとよく言われます。たしかに外国人の前に出ると日本人は意味も無くよく笑います。この笑いは、西欧の嘲笑理論からすると理解の範囲外なのです。この日本人の笑いですが、もちろん外国人に対して優越感を持っているわけでも・嘲笑しているわけでもありません。この笑いは、どうも「自分は貴方に対して敵意ある者ではない・自分は貴方には安全無害な存在である」ということをアピールするためのもののようです。こういう愛想笑いというものが、そもそも西欧にはないものなのです。

日本人の笑いというのは「笑う門には福来たる」という言葉がありますように、「笑う自分」と「笑われる相手(対象)」との関係を円滑にしようというものであるようです。狂言にもあるように「イデ笑おうではあるまいか」と言って「ワハハハ・・」とお互い笑って仲良くなるわけです。笑う自分と笑われる相手が仲間になってしまうのです。吉之助が勝手に付けた呼び名でありますが、西欧の「嘲笑理論」に対して日本の笑いは「招福理論」である、ということにいたしましょう。 外国人の前での愛想笑いというのは、この招福理論の変形とも言えるものです。このように「笑い」というのは、「笑う自分」と「笑われる相手(対象)」との位置関係によって決まるものですが、その「笑い」の持つ働きというのが、西欧と日本ではちょっと異なるということが理解されると思います。


2)道化の役割

ここで童話「裸の王様」において周囲に笑いを巻き起こす子供の役割を考えてみます。この子供の役割は「道化」なのです。子供には何の悪意もありません。子供は笑いを取ろうとして「王様は裸だ」と叫んだのではありません。道化の仕事は批評をすることではありません。まして対象を嘲笑することでもない。純粋なる事実をただ提示することで人々に笑いを提供する ことだけが「道化」の仕事です。それを見て「笑う」のは周囲の人々のすることなのです。

「道化」に徹することはなかなか難しいようです。その昔、西欧の宮廷には道化役の人がいたものでした。滑稽なことをして人を笑わせて、宮廷の複雑な人間関係の潤滑油となるのが道化の仕事です。しかし、その一方では 自らが周囲の人の嘲り・軽蔑の対象にもされかねません。またちょっとしたことから笑いの対象にされた人が自分が侮辱されたと怒り出されてあらぬ恨みを買うことさえあります。ヴェルディの歌劇「リゴレット」の主人公リゴレットは道化ですが、この歌劇はそうした道化の悲哀がテーマになっています。嘲笑理論の支配する西欧においては、うっかりするとプロの道化でさえこういうことになってしまいます。

だから道化は道化に徹して、純粋なる事実だけを人々に提供して・批評はせず・自分は笑いの埒外にいるのが一番正しいのです。これが西欧での道化の理想のあり方です。吉之助が思い浮かべる西欧の理想の道化は、シェークスピアの「夏の夜の夢」に出てくる妖精パックです。妖精パックは何の悪意もなく・天衣無縫にただ思いつくがままに動き回って騒動を巻き起こします。しかし、そこで巻き起こる笑いには彼は無関係なのです。

西欧における「風刺・パロディー」 は、そういう観点から考えて見なければなりません。西欧の風刺の笑いが嘲笑理論に立脚していることはもちろんです。しかし、作品そのものは「道化」なのです。作品そのものが笑い(批評)なのではありません。笑うのは読者や観客の仕事なのです。もし作品自体が笑いなのであれば、その作品には悪意があると言わねばなりません。

西欧のすぐれた風刺文学や喜劇はすべて「道化」です。道化と笑いは分けて考えなくてはなりません。しかし、このことは日本においては十分理解されているとは言えません。それは日本人が笑いを考える時に嘲笑理論と招福理論を混同しているから、西欧での道化と笑う者との役割の違いを理解できないからです。 招福理論では笑う人も道化も笑われる人も同じように福に包まれて仲間になってしまいますから、日本人は作品と作者をついつい混同してしまいがちです。だから日本人には「風刺・パロディー」の本質を理解するのが難しいのです。「あいつは俺を批判した・侮辱した」ということになり勝ちで、風刺作品を余裕を以って受け入れることがなかなかできません。作家・筒井康隆氏が断筆宣言をせざるを得なくなったように、本物の風刺を受け入れる土壌が日本にはまだ十分に育ってはいないのでしょう。(注:筒井康隆氏は1996年に断筆宣言を解除して、現在は執筆活動をしています。)

もちろん日本にも古来から「道化」と呼ばれる人たちはいます。しかし、それは西欧での道化の役割とはちょっと異なります。これはやはり、招福理論から理解されなければなりません。典型的なのは、能の「翁」での三番叟です。五穀豊穣を祈るという三番叟は、「おおさえおおさえ喜びありや喜びありやこの所より外へはやらじとぞ思う」といって拍子を踏んだ舞となります。周囲を福に巻き込んでいくのが、日本の道化なのです。笑いを振り播くのが道化の仕事です。招福理論ではみんなが仲間みたいになってしまいますから境界が見出しにくくなっているのですが、日本の「道化」の場合でも実は笑う者との間の境界は厳然としてあるのです。

江戸文学では「東海道中膝栗毛」のような滑稽文学はありますが、これはまさに招福理論から出たものと言えます。真の意味での「風刺文学」はあるかというとこれはあまり思い浮かびません。落首・狂歌の類にはたしかに世相を痛烈に批判したようなもの がありますが、これとても嘲笑理論に立脚したものとは必ずしも言い切れません。もちろんその要素がないわけではありませんが、しかし、基本的にこれは招福理論において読むべきであろうと思います。これは所詮は「お上」に対して庶民が優越感というのを持てないからでしょう。外国人に対した時のように哀しいお愛想笑いをして、自分はけっして敵意がないということを庶民は「お上」に対して示さなければならないからなのです。結局、その笑いは批判・嘲笑に完全に成りきれないのです。

しかし、同時に逆の見方ができるかも知れません。世相を題材にした落首・狂歌の類には嘲笑理論の萌芽が見えるとも言えると思います。そこには、笑う自分と笑われる相手(対象)との関係を見据える「個の意識」の発生が見えるからです。ここには社会における個人・個人に対する共同体への意識の萌芽がはっきりと見えます。本サイトでは「かぶき的心情」において個人と社会の関連を継続して取り上げていますが、その関連から考えることも十分に可能です。

「白河の清きに魚もたえかねてもとの濁りの田沼恋しき」、松平定信の寛政の改革の時の狂歌であります。あるいは「太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」、浦賀に来航したペリー艦隊を歌った狂歌です。もちろんこれらの狂歌 も基本的には招福理論で出来ているのです。しかし、嘲笑理論で読んだとしても十分にいける作品です。この場合は笑われる対象は世相であり・お上ということになります。ただし、これらの狂歌を嘲笑理論で読むならば作品(狂歌)と笑い・批評との境界をなおさら明確に引いておかなければなりません。つまり、作品自体は笑いでも批評でもないということ をはっきりと意識しておかねばなりません。この辺の理屈は理解しにくいかも知れませんが、これが分からないと「道化」の役割が理解できなくなってしま います。

このように招福理論においても・嘲笑理論においても本来は「道化」は笑い・批評の埒外にあるべきものなのです。 このことは日本では混同されがちですが知っておかねばならないことです。


3)道化の作家

ところで 我々が「大南北」と読んでいる作家・鶴屋南北は四代目のことです。もともとこの名前は道化方の役者の芸名で、三代目までは役者であります。南北の妻・お吉の父親が三代目鶴屋南北という芸名の役者で、つまり彼は義父の名前を継いだことになるのですが、しかし、実は裏の事情はそんなに単純なものではなかったようです。

南北の師匠は桜田冶助で、南北はそれまでは「初代勝俵蔵」を名乗っていました。じつは俵蔵時代の南北の座付き作家としての道程は平坦なものではなくて、実に長い下積み生活をしなければなりませんでした。南北が狂言作者を志し芝居の世界に入ったのは安永5年(1776)22歳ごろのことと思われます。それから享和3年(1802)48歳の時に立作者になるまでに実に長い年月を二枚目から五枚目までの地位を行ったり来たりしています。どうして才能ある南北の出世がこれほど遅れたのかというと、それは南北が紺屋出身であったというのが原因ではないかといわれています。

紺屋というのは藍物染めを扱う職人の家ですが、これは当時は弾左衛門の支配を受ける非人の身分でありました。江戸三座は弾左衛門の直接的支配を受けていませんでした(これについては別稿「身分問題から見た歌舞伎十八番:その2「助六」をご参照ください。)が、歌舞伎役者は河原乞食と蔑まれてきた境遇でしたから、南北の出身について座元が神経質であったと推測されるのです。

南北が紺屋の出身であったことは作家南北の出世に相当に響いたようです。しかも、俵蔵は義父が亡くなってすぐに南北の名を継いだわけでは なくて、25年も経っているようです。また念願かなって立作者になってすぐに南北を名乗ったわけでもないのです。俵蔵が四代目南北を襲名したのは、文化8年(1811)57歳の時で、これは立作者になってから9年も経っています。それに普通に考えれば、俵蔵は桜田冶助の門下なのですから桜田姓を名乗ったほうがずっと通りがいいようにも思われます。何か急に心中に期するところあって、俵蔵は「四代目鶴屋南北」を名乗ったという感じに思われます。それは、自分は「道化の作家」を目指そうと心に決めたことを意味するのではないかと思われるのです。

鶴屋南北が滑稽を得意とする作家であるという認識は当時もありました。「戯作者小伝」には「生まれつき滑稽を好みて、人を笑わすことをわざとす」とあります。南北の葬式のエピソードはいかにも道化に徹した南北らしいものです。

南北は死ぬ直前に家族を枕元へ呼び、「自分には言い残しておきたい一大事がある。枕元の櫛箱のなかに入れて置くから自分が亡くなったら開いてみなさい。自分の考えはそこにくわしく書いてあるからそのようにしなさい。」と言い残しました。南北が死んで家族が箱を開いてみると、そこには「死出の門松後万歳」と書いてありました。その遺言通りに、本所押上の長慶寺で行なわれた南北の葬式は、寺内によしずの茶屋を作り・門弟たちが赤前垂れで団子を竹の皮に包み、「寂光門松後万歳(しでのかどまつごまんざい)」という南北の書き残した戯文を一冊づつ配ったそうです。その冒頭は次のようなものです。

『略儀ながら狭うはござりますれど、棺の内より頭をうなだれ、手足を縮め、御礼申し上げ奉りまする。先ずは私存生の間、永久御贔屓になし下されましたる段、飛び去りましたる心魂に徹し、如何ばかりか有難い冷や汗に存じ奉りまする・・』

それは南北が自分の葬式のために書いた台本でした。棺が砕けて狂帷子の南北が桶底をポンポンと打ち鳴らして登場し、「十本の卒塔婆で爺いがとうとうごねられけるは、誠にめでとうなられんける、うんといふて絶えられける、是からそろそろ万歳、ハア万歳・・」という万歳で舞い納めるという「末期(まつご=松後)万歳」でありました。南北は葬式好き・棺桶好きでしばしば舞台に登場させています。「戯作者小伝」は「みなみなあきれて、これぞ最後の滑稽なるべきとて、みそかにわらひてさりぬ」と記しています。まさしく南北は自らを「道化」として最後までそれに徹して死んでいったのです。

ここで南北における「道化」を改めて考えてみたいと思います。南北の道化については「逆転と黒い笑いを武器にして秩序を転換させる作家」という見方がよくされます。もちろん それもひとつの見方です。しかし、嘲笑理論と招福理論での道化の役割をよく認識しておかないと、ちょっとイメージが違ってしまうように思います。

南北最後の作品「寂光門松後万歳」のことで言えば、南北は最後まで「道化」の仮面を外そうとしなかったのです。逆に言えば自らの生涯をも騙ったのだと言えます。これはできるようでいて、なかなかできることではありません。それは痛快なようでいて・また哀しいことでもあるような気がします。南北が紺屋出身であったこと・そしてその生涯それが原因で苦労をしてきたであろうことが関連しているとは断言はできません。しかし、そこに何かの秘密があるように思われます。南北は「道化は語らず、ただ楽しませるのみ」と言っているように思われます。

南北の残酷な殺しの場面・奇抜な趣向はただ観客を楽しませるだけにあるように思えます。その裏に「ある意図」の存在を見る必要はないし(それを読むのは観客の仕事なのです)、そうであったとしても南北の不名誉には決してならないと思っています。なぜならば、道化は笑いの埒外に自らを置かねばならないからです。そのことを南北は自覚していたと思います。

(H15・8・13)

森山重雄:鶴屋南北 綯交ぜの世界

郡司正勝:鶴屋南北 ~かぶきが生んだ無教養の表現主義~

(付記)「歌舞伎の雑談」での記事:「時代のネガとしての南北」「綯い交ぜの手法」もご参考にしてください。




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