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二代目左団次の「革新」

〜九代目団十郎以後の歌舞伎・その4


1)明治30年代という「時代」

九代目団十郎が亡くなったのは明治36年(1903)10月13日のことです。その死は明治の人々に大きな衝撃を与えました。別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎・その1:時代にいきどおる役者」において、団十郎の死がそのまま「時代の節目」になるということを書きました。ここで団十郎の死の前後、すなわち明治30年代というのが、いかなる時代であったのかを考えてみたいと思います。坪内逍遥が明治45年(1912)に書いた文章がそのヒントになります。

『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。しかし今はもうそういう時勢ではない。移り変り時代たるの機運はなお続いているが、いかにも曖昧で、無解決で、あやふやで、成敗去就ともにほとんど誰にも解りかねて、 昨日の楽観者が悲観者になるまいものとも知れず、大抵の人の心が、ともすれば不安の状態にある。ひと言を以って言えば、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代である。それゆえ同じく煩悶を表すにしても、今日の人物を表そうとするには団十郎のそれとは全く様式を別にしなければならぬ。深刻な、もっと細緻な、もっと痛切な、一家、一城、一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が、作者にもあれば見物人の心にもある。時代精神が変わったと共に、作意も作風も変わりまた変わりしつつあるのである。したがって芸風も根底から一新されねばならぬのである。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

明治初期という時代は、民衆は江戸の封建社会から解き放たれて・「自由」を感じた・湧き上がるような「変革の時代」でした。そういう時代の気分を表現するには団十郎の芸風が最もふさわしいものでした。しかし、「今(明治45年)はもうそういう時勢ではない・今は無解決の時代・不安の時代・煩悶の時代・神気疲労の時代である」と逍遥は言うのです。つまり、明治30年代は「変革の時代」から「不安の時代・煩悶の時代」への転換期 ということになります。それを象徴する出来事が歌舞伎史においては九代目団十郎の死です。

もう少し明治30年代(1896〜1906)を考えてみたいと思います。この時期の最大の事件はもちろん日露戦争(1904〜05)です。明治政府は発足当初から「このままではいつか日本は西欧列強の餌食になる」という危機感が強かったのです。だから富国強兵・殖産興業というのが明治のスローガンでありました。そのためには旧弊は否定されねばなりませんでした。国民は国を守るために身を捧げることが求められたのです。大国ロシアとの激突は、まさに「恐れていたものがついに現実となった」という国家の一大危機でありました。

このことを民衆の視点から考えてみると、明治初期の「変革の熱狂」が醒めてみると、何だか精神的に非常に疲れたということが改めて感じられるということでもあります。国民の半分 以上が江戸時代の生まれという時代の話です。「もうついていけない」と感じた人も多かったのです。しかし、時代は圧倒的な重圧感で国民にのしかかってい きます。その後の日本が戦争への道をまっしぐらに進んでいったことは言うまでもありません。

これは日本史レベルでの話です。これだけでも明治30年代は大した時代なのですが、世界史レベルでもこの時代は難しい時代です。18世紀末にイギリスで始まった産業革命は西欧ではほぼ終わり・帝国主義はそのピークを迎え、次第に西欧文明は行き詰まりを見せてくるのです。これが決定的になるのは・その後の1914年の第1次世界大戦であり・1917年のロシア革命なのですが、既にその兆候がこの時期にはっきりと現れています。人々は何となく監獄に押し込められたような落ち着かない気分のなかで、次第に迫ってくる時代の 巨大な圧力を感じることになります。個人の尊厳は剥奪されていきます。こうして世界は戦乱の時代へ突入していくのです。この時代の世界の雰囲気がまさに逍遥の言っている「無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代」なのです。

この時代の西欧芸術は敏感にその雰囲気を反映しています。音楽は次第に調性を失い、リズムは苛立ち・咳き立てるように聴衆を不安に誘います。絵画は造形が歪み、次第に写実性を失っていくようになるのです。そこに時代への懐疑と不安が表現されています。(この時代の西欧の精神状況を江戸の文化が先取りしていた・19世紀後半の西欧でのジャポニズムはそこから起きているということは、別稿「歌舞伎の舞台はなぜ平面的なのか」で触れましたから、そちらをご参照ください。また、西欧芸術の「新古典主義(ネオ・クラシック)」の風潮は、歪んでいく感性をなんとか立て直していこうという考え方から生まれたものです。)

明治30年代というのは、日本の民衆にとって、そうした「江戸から明治への脱却」という日本史レベルの変化と 、「価値観の転換と戦乱の時代への突入」という世界史レベルの変化が複合的に迫ってきた時代であるのです。(話はちょっとそれますが、明治30年代というのは平成のこの 時代と雰囲気がよく似ているという説があります。「バブルの夢」が醒めて苦境から脱せない日本の経済状況と、紛争やテロが頻発し・混迷を増す国際状況を合わせて見れば、それがお分かりいただけましょう。 吉に助はここで歌舞伎のことを書いていますが、「明治36年」に吉之助がこだわって いるのは偶然ではないかも知れません。)このような状況を置いて、前掲の逍遥の文章を読めば逍遥の意図が分かるはずです。

「深刻な、もっと細緻な、もっと痛切な、一家、一城、一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が、作者にもあれば見物人の心にもある。」

ここには個人が状況に決然として対峙しようとする明確な強い意思が見えるのです。そして、 この文章はその後の大正の新歌舞伎というものの特質を明確に述べているのです。


2)大正という時代と新歌舞伎

これまで 「歌舞伎素人講釈」では「かぶき的心情」ということを歌舞伎作品を読み解く指標として提唱してきました。それは「個人の意識(アイデンティティー)の目覚め」です。しかし、そこでも書きましたが ・江戸時代における「かぶき的心情」は社会(状況)を個人を縛るものとして意識はしていましたが、社会や世間を個人と対立するものとして・「個人の尊厳を奪い去る敵」として捉えることはほとんどなかったのです。「泣く子と地頭には勝てぬ」とか「長いものに巻かれろ」とかの諺で分かるように、最初からお上に盾突くのをあきらめているようなところがありました。

しかし、大正期に登場した新歌舞伎作品は、社会(状況)を個人に対立するものとして・個人を押さえつけ・その尊厳を奪い去る存在としてはっきり意識しています。これはもちろん明治以降の民権運動や西欧の個人思想の流入の影響で はあるのですが、もうひとつは上述の明治30年以降の時代と個人との係わり合いということが非常に大き いのです。それまでの「かぶき的心情」はその葛藤を結局は内側(個人の内面)に向けていました。それが江戸の歌舞伎の 独特のドラマでした。江戸の歌舞伎はそれ以外の方向には行かなかったのです。しかし、新歌舞伎の主人公たちは葛藤の方向を外側に向けています。「俺をこんな状況に追い込んだのは社会だ・世間だ」ということを明確に意識しています。ここに歌舞伎は新しい時代のための「かぶき的心情」を持った作品創出の可能性を見出したのです。

例えば坪内逍遥の書いた「沓手鳥孤城落月」は、移り行く時代の流れに抗しながらやがて滅びていく豊臣家を描いています。大坂城にひたひたと迫る徳川家の脅威は、同時に・明治末期の民衆に迫る圧倒的な状況の重さを予告しているのです。そのドラマは淀君個人の懊悩を表現するに留まらず、まさに「ひとりの上にして・その実は人間全体・世界全部の上に関係するのであるというような」ものを描き出しているのです。岡本綺堂・真山青果らの新歌舞伎作品も同様 であると言えます。(これについては別稿「新歌舞伎のなかのかぶき的心情」をご参照ください。なお本稿は二代目左団次を論じようとしているにも関わらず・冒頭が坪内逍遥ですが、実は逍遥は新歌舞伎において左団次とはご縁が薄い作家であります。「沓手鳥孤城落月」は左団次の初演作ではありませんが、しかし、左団次も逍遥も同じ共通した時代の気分を持っているのです。目指す新歌舞伎の理念は同じところにあると考えて います。)

もちろんこうした作品も舞台で上演されることがないとすれば、その意味をなしません。作品は俳優の手によって生かされて・命を吹き込まれます。また俳優も作品により生かされるのです。ここで六代目菊五郎と同時代に、九代目団十郎以後の歌舞伎に立ち向かい 、「いきどおり」を見せた もうひとりの役者・二代目左団次のことを考えなければなりません。

菊池寛は「二代目左団次は明治大正にかけて、俳優として最も意義ある道を歩んだ人であった。その点では(九代目)団十郎・(五代目)菊五郎以上かも知れない」と言っています。また、利倉幸一氏は次のように書いています。

「六代目菊五郎は技術においては左団次を抜くこと遥かであるが、演劇史は左団次により多くの頁を割くべきである。俳優の評価を決定づけるものはその演技力・表現力を総合したものであるのは言うまでもないが、左団次のように、その職業人としての俳優の評価を越えて、社会人・または文芸に波及したる事跡までを云々される例はきわめて少ないし、事実、それで正しい左団次論が成立する。そこに「大正」という時代背景の反映を強く感じる。」(雑談「大正の歌舞伎」・「演劇界」・昭和57年9月)

左団次が初演した新歌舞伎作品群は現在どのように評価されているでしょうか。武智鉄二は歌舞伎の様式の12のパターンということを提唱しました。(武智鉄二:「武智歌舞伎の演出」・昭和30年」)「12」という数字は多分に語呂合わせのところもありますが、それはまあいいのです。歌舞伎という芝居は四百年の歴史のなかでさまざまなパターンの芝居を試行錯誤し、それを蓄積して財産としてきました。そういう懐(ふところ)の大きさが歌舞伎にはあります。その様式を分類してみれば凡そ12パターン見られるということです。そのなかの最後のひとつとして「二代目左団次の新歌舞伎」を武智が挙げています。二代目左団次の業績は仮にそれがどんなものであったにしても、歌舞伎様式のひとつとして独立して挙げられる ほどのものです。

逆に考えれば、現代の歌舞伎役者にとって最も年代が近い歌舞伎様式になる「二代目左団次の新歌舞伎」は、黙阿弥よりも南北よりも最も的確に演じられねばならない演劇様式のはずです。そして観客にとっても最も親しい演劇様式でもあるはずです。ところが、最近の劇評を見れば、新歌舞伎作品について触れる時に「時代の嗜好にもはや合わない」とか「登場人物の心理が古臭い」とか、安直に決め付けている傾向が強くはないでしょうか。これは危ない兆候だと思えてなりません。もう一度、歌舞伎における左団次の位置を再検証してみる必要があるようです。


3)二代目左団次の洋行

二代目左団次が松居松葉(しょうよう)とともに西欧の演劇を学ぶために洋行したのは明治39年 (1906)12月から翌年8月までのことでした。当時、左団次は26歳。父である初代左団次は「団菊左」と並び称される名優であったとは言え、閉鎖的な歌舞伎の門閥から言えば必ずしも名門ではなく、強力な後ろ盾があったわけでもありませんでした。その初代が奇しくも団菊と 相前後して・明治37年に亡くなってしまいます。若輩の身で明治座を引き継いで2シーズン頑張りま したが、前途は厳しい。そんななかでの洋行はイメージ的には「逃避」という感じに見えたのかも知れません。左団次の渡欧は当時の歌舞伎ファンにどのような印象を与えたのでしょうか。明治40年2月に出版された森暁紅(ぎょうこう)の「芸檀三百人評」を見ますと、左団次の項には、

『無事二興行御片付けのうえいよいよ劇道視察としてご出発なされ、今頃はもうせいぜい亜米利加っ子とお成り遊ばしてのことなるべく、お髭もたいぶ伸びたこととお察し申し候。ここにちょっと御願い申し置き候は照り焼きをソースで食うような名人となってお帰りなさらぬ様その事に候』

と書かれています。これを見ると左団次は全然期待されていないように思えます。「欧米に行って何をしようってんだい、とんでもない役者になって帰ってくるんじゃなかろうね」というような揶揄嘲笑であります。一体、左団次は何を求めて欧米に旅立ったのでしょう か。左団次は歌舞伎はこのままだと駄目になるという危機感であったかも知れません。西洋に歌舞伎を変えるための何かヒントがあるはずだと思ったのでしょうか。しかし、これを直ぐに歌舞伎に生かす具体的な当てがあったとも思われません。そこに何があるか分からない中での渡欧であったのです。

渡欧した左団次は松葉のガイドでフランス・イギリス・ドイツ・イタリアなどを周遊して(最後にアメリカを経由して帰国)、片っ端から芝居を見て回ります。夕方ある町に着くと その晩に劇場で芝居を見て、翌朝は次の町に移動して、またその晩はそこの町の劇場で芝居を見るというような旅であったようです。そうでない時は演劇学校に通ってみたり、名女優サラ・ベルナールを訪ねて話を聞いたり ・劇作家サルドゥーを訪ねて話を聞いたりもしています。「だから名所旧跡などは全然見ていません」と左団次本人が回想しています。まさに芝居漬け・芝居を学ぶためだけの旅行であったのです。松葉のガイドの力もあるにしても、短期間でよくこれだけの経験をしたものだと思います。

言葉を知らない左団次がどういう風に芝居を見たかというと、劇場に入る前に松葉に脚本を読んでもらって、大体の筋を理解してから芝居を見たそうです。そして、芝居を見ている間は松葉とはお互い口を利かないという約束をして芝居を集中して見たそうです。筋を理解したあとは、自分の 歌舞伎役者としての感性だけで舞台から伝わってくるものを必死で吸収・理解しようとしたということで しょう。そのなかで左団次が何を学んできたか、明治40年8月23日、欧米から帰ったばかりの左団次と小山内薫との対談から重要と思われる箇所を見てみます。(「瓦街生、市川左団次と語る」・ 明治41年出版の「演劇新潮」より)

(小) 「サラ・ベルナールの芝居をみたかね。」
(左) 「「レ・ブッフォン」というのを見ました。」
(小)「巧かったかね。」
(左) 「声のいいのには、実は感心しました。」
(小) 「僕も日本で西洋人の芝居は1・2度見たが、当たり前の台詞を言っているのを聞いても、まるで歌を聴いているようだというが本当かね。」
(左) 「まったくそうです。それというのもまったく声の練習が積んでいるからです。私が俳優学校へ参りまして、声の先生に会いました時も、自分の口を大きく開いて咽喉の内部の構造をすっかり鏡に映してくれました。その時の話に、日本人は咽喉からばかり声を声を出すから、少し長くしゃべると声が枯れてくるのだし、風邪をひいて咽喉に故障が出ると、すぐ声が出なくなってしまうのだ。だから声を腹から出す練習をしなければならんと申しておりました。」』

この頃の西欧演劇はイプセンの芝居が一世を風靡していた時代ですから、 現代のロンドンやパリで見られる舞台とはかなり違う感じです。このことは遺されているサラ・ベルナールの無声映画のフィルムなどからも想像が付きますが、しかし、私たちが思い描いている西欧演劇のイメージよりずっと芝居掛かっている ・つまり様式的に近い・意外と歌舞伎に近いものがあったようにも思われるのです。音楽的な台詞などはまさにそうです。言葉が分からなくても、芝居の台詞の抑揚の音楽的なこと・それが普段の会話とはちょっと違っていることにも、左団次は気がついたでしょう。そこから左団次は何かのヒントを得たかも知れません。

(左) 「(「ノートルダム・ド・パリ」(ユーゴー作)の舞台を見て)何しろ大芝居なのには驚きました。ほとんどツケを打たぬばかりでした。坊さんのクロウド・フロロがエスメラルダを口説いて刎ねられた後、一睨み大きく睨んで引っ込むところなどは大芝居でした」
(小) 「一体西洋の芝居は幕切れが非常に良いね。」
(左) 「そうです、ほとんど木を打たぬばかりです。ちゃんと何処で幕を下ろすという型が極まっているのです。」
(小)「日本の芝居の幕切れには木を打つが、木を打っても一向クギリのつかないのが多い。西洋の芝居の幕切れは木こそ打たないが、ちゃんとクギリがついているように思うがどうかね。」
(左) 「本当にそうです。」』¥

左団次の西洋演劇の技術の歌舞伎への応用というのは、例えば「鳥辺山心中」で半九郎とお染が桂川の石ころの河原を歩く時につま先立ちで歩くのがロシア・バレーの応用であるとか、「番町皿屋敷」幕切れで播磨が槍を取って舞台から花道揚幕を駆け入るのが・遠心力をつけて走る旋回走法の応用(こういう走り方は昔の日本人にはなかったものなのです)であるとかが言われます。しかし、そういう瑣末的な技術とは別に、欧州への演劇視察において左団次は先入観なしに・「演劇」のもっとも本質的な部分を歌舞伎役者の目で見て・学び取れるものを必死で理解吸収しようとしたと思います。

これも西洋で学んだことだと思いますが、左団次は脚本第一主義の人でした。左団次は脚本の字句の修正などもほとんどしなかったそうです。この台詞は言い難いから・役が悪くなるからなどの理由で、自分で勝手にカットしたり・修正したりなどということはまったくなかったのです。作者と演者の間に信頼関係という以上の、互いに尊敬しあうような関係がありました。それが作家に左団次を生かす作品を作る意欲を持たせ、さらに良き作品を生む土壌にもなっているのです。

左団次にとって大事なのは作家でした。そして、彼にさまざまな有益なアドバイスをしてくれる学識者たちでした。これをベースにして、左団次は新作だけでなく・埋もれていた作品を掘り起こして新しい視点で蘇らせることも試みました。「鳴神」・「毛抜」といった歌舞伎十八番の復活、「立場の太平次」などの鶴屋南北作品の復活などです。左団次一座は古典の舞台においては確かに見劣りすることもあったようですが、このハンデを新作と復活物という形で乗り越えてきたわけです。


4)「大統領」という掛け声

左団次の演技が「古典」の役柄においては拙かったというのは確かであるようです。しかし、左団次が古典歌舞伎と新作歌舞伎を別なものとして考えていたとは思えません。利倉幸一氏も指摘していますが、古典も新歌舞伎もまったく同じ姿勢で対処しようとしていたようです。左団次の場合は彼の地場であった明治座が「古典」を学ぶ土壌としてはあまり良い条件ではなく、彼の教養を以ってしても如何ともし難いハンデがあったかも知れません。しかし、新歌舞伎作品においては左団次の個性は輝きます。個人に対して圧倒的な重みでのしかかって来る状況・これに対する懊悩・煩悶を表すのに、咳き立てる台詞のリズム・棒に読む台詞こそが望ましいということは、別稿「新歌舞伎におけるかぶき的心情」において書きました。

『人は彼(左団次)の口跡を悪評して、ややもすれば単なる怒号と言う。しかも彼があの一本調子を以って、焦き込みがちに台辞を畳んで行く時、その息の刻みに於いて、吾々のそれとピタリと合致する(中略)その調子の緩急を以って、すわなち台辞のテムポーを以って、知らず知らず吾々の血を沸かすむるものは、彼を措いて外にはない。(中略)彼の口跡のみが、現代のリズムを捉えている(中略)息の刻みだけで吾々を捉えずにはおかない。』(久米正雄:「左団次の信長」・演芸画報大正4年3月)

左団次の作品解釈・科白回しや演技・テンポとリズムは、その時代を同じくした者だけが共有する心情に発したものでした。時代を共有 した心情が作品(=作者)と演技(=役者)と観客とを結びつけます。だからこそ、その解釈が・それに裏付けられた台詞回しが時代を同じくする観客の心を打つのです。

団十郎と左団次との個人的な接点はあまり見出せないようですが、世代の違うふたりの役者がそれぞれの時代に真摯に正対し・それぞれの時代の空気を取り込んで「いきどおっている」とするならば、やはり団十郎の存在がその後の左団次に影響を与えていないはずがありません。左団次は教養のある人でしたし・周囲に優秀なブレーンがおりましたから、歌舞伎の 約束事はよく承知していました。そういうものを踏まえないで新しい歌舞伎が作れるはずもありません。六代目菊五郎は左団次とは結局共演をしなかった(聞くところでは左団次の方が「自分とは行き方が違うから共演したくない」と言ったらしい)のですが、菊五郎は左団次のことを高く評価していたそうです。大正3年4月「歌舞伎」に大道具の長谷川次郎と菊五郎との対話があって、こういうことを言っています。

(菊)「次郎、今の役者に定式の居所(いどころ)を知っている者はあるかい。」
(次)「そうですな、名題なんて云つたつて、あんまり知りやしますまい。でも、お前さんは知ってるでしょう。」
(菊)「浜町の栄ちゃんも知ってるよ。」

これは浜町の栄ちゃんというのは明治座の左団次のことです。戸板康二氏はその著書「六代目菊五郎」のなかで、この記事を見つけた時「僕は胸が熱くなった」と書いています。しかし、左団次が団十郎から引き継いだものがあるとすれば、それは演技とか技巧というものよりも・団十郎が新しい時代の空気を取り込んだ歌舞伎を作ろうとしたその志(こころざし)であったかも知れません。

団十郎は荒唐無稽と批判された江戸歌舞伎を改良するために、史実に基づいた実録物の歌舞伎を作ろうと試みました。それは「活歴」という形で残っていますが、成功したと言えるものはお世辞にも多くはありません。それは理屈としては良かったのですが、時代の心情を十分に捉え切れていなかったのかも知れません。だからちょっぴり上からの押し付け臭がします。大事なことは時代を見詰め・民衆から湧き上がる「時代の心情」を押さえることですが、作者に恵まれなかったこともあって団十郎の理想は中座しました。

一方、左団次の新歌舞伎の主人公たちは「俺たちをこんな状況に追い込んだのは社会・世間だ」と明確に意識しています。そして、自分たちの行き方に対する社会の仕打ちに対して敢然と抗議 します。それがかぶき者の行動であったり・心中であったり・仇討ちであったりするわけです。扱っている題材は古典歌舞伎とまったく変わらない江戸の人物たちです。「かぶき的心情」から発した行動を新しい視点で読み替え、そこに大正に生きる人々の懐疑・煩悶を重ねて見せたのです。だからこそ新歌舞伎は時代の観客に熱狂的に支持されたのです。

こうした手法を左団次はどうやって編み出したのでしょうか。それは団十郎の生き方を踏まえて、さらに西洋から学んだものを生かしたということに違いありません。このどちらかだけでは決して生み出せないものです。「大統領 !」という掛け声はまさにそうした左団次の勲章みたいなものです。

(H17・3・6)

(後記)

「歌舞伎の雑談」コーナーの記事「新歌舞伎のヒント」「二代目左団次の旋廻走法」もご参考にしてください。





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