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きまることは嫌なこと


先月(3月)のNHKハイビジョンで「伝統芸能の若き獅子たち」というドキュメンタリーがあって・その第1回目が「市川亀治郎・突っ走る歌舞伎の異端児」という番組であったので、これを見ました。実は吉之助は亀治郎の初お目見見得を見てまして・それは昭和55年(1980)7月歌舞伎座での「義経千本桜」の安徳帝でしたが、確かにその頃から芝居好きで利発な子という印象でありました。しかし、吉之助は最近の歌舞伎をいつも見ているわけではないので、亀治郎の舞台をあまり知らないのです。というか吉之助の見る舞台に亀次郎がたまたま出てないのです。そういうわけで吉之助に亀治郎のことを云々することはできませんが、雑談がてら思い付いたことを書いてみます。

番組を見ると亀治郎の普段の話し方や雰囲気が叔父(猿之助)そっくりなのでホウと思うところあり、叔父甥だから似てても当たり前ですが、亀治郎にもその気概を意識的に真似するところがあるのでしょう。亀治郎のなかに昭和50年代に熱かった猿之助歌舞伎の雰囲気を引き継ぎたい気持ちが強いのだなあということは確かに伝わって来ました。ただし嫌味を言うならば、20代の猿之助というより50代の頃の猿之助の雰囲気を醸し出している。そこがちょっと気にはなりますがね。ところで別稿「海老蔵の伊達の十役」でちょっと触れましたが、昭和50年代に吉之助は猿之助歌舞伎をかなり熱心に見ましたが、その後吉之助は猿之助から次第に距離を置くようになりました。猿之助は心底歌舞伎を愛していて・歌舞伎の良さを多くの人に知ってもらいたいと努力を続ける人です。このことは誰もが認めるところです。しかし、一方で猿之助は歌舞伎の悪い部分・何と言いますかねえ・伝統に安住して活力を失って惰性で持ってるような部分に対する批判をあまり持たなかったと吉之助は思うのです。例えば台詞のある箇所がどうも言いにくいとします。すると猿之助はそういう場合は台詞のリズムを直して言い易くすれば良ろしという考え方であったと思います。自分たち役者の台詞廻しに疑問を持つことはあまりなかったと思います。一応猿之助の立場で考えれば、現行の興行では座頭は芝居を5日で見られるものに仕上げなくてはならない・猿之助は徹底的に現場主義だということです。これは「・・らしい」芝居はすぐに作れるけれども、それ以上の芝居を練り上げることが出来ないということでもあります。

『歌舞伎の台詞というのはたいてい七五調だから、字余り字足らずは言いにくいんですよ。「ちと」とか「まあ」とかを入れることで、言いやすく美しく、音楽として聞かせる。これが歌にするという事なんです。』(市川猿之助・横内謙介:『夢見るちから・スーパー歌舞伎という未来』)

夢みるちから―スーパー歌舞伎という未来

この猿之助の発言がまさにそうです。字余り字足らずの台詞が言えないのは役者の息に溜めがないせいだという風に猿之助は考えないのですね。武智鉄二は役者の「ちと」とか「まあ」が嫌いでしたが、これは弟子である吉之助も同じです。「歌舞伎の台詞を歌として言いやすく美しく聞かせる」なんて言われると、吉之助は「七五に揃えさえすれば台詞は歌になるのかね」と聞きたくなりますねえ。実は歌舞伎役者の台詞の引き出しというのは案外狭いのです。それはせいぜい幕末歌舞伎以降の台詞のテクニックです。しかし、別稿「歌舞伎の台詞のリズム論」を参照いただきたいですが、現行歌舞伎では黙阿弥や新歌舞伎の台詞のリズムさえ怪しいのです。もっともこれは猿之助に限った現象ではありませんが、猿之助の場合は演出をやるわけですからその考え方が他に波及するから困るのです。以上は台詞のことですが、猿之助歌舞伎では必然のあまりないところで見得・ツケを多用するなど演出面にも同様の問題が少なくなかったと思います。こうすれば「・・らしくみえる」という良く分からないものが判断基準になるところがあると思います。しかし、まあこれは吉之助が批評する立場で猿之助歌舞伎を見ればそうなるということでして、総合的に見れば猿之助の業績はもちろんそれなりに評価されるべきものだと思いますが。

ところで番組のなかで「金幣猿島郡」の終幕「双面道成寺」での狂言師升六で・猿之助と亀治郎の演技を対照させてみせる場面がありました。「さればひとさし舞ましょうか」という台詞ですが、亀治郎は「舞いましょう・・」のところをテンポを落として台詞を膨らませて、「ましょう・・・かあ」とひた呼吸ほど間を置いて・腹に一物あるところを台詞と表情に匂わせてニヤッと笑う演技をしました。オリジナルの猿之助の方はあまり下心を匂わせるでなくサラリと流しています。亀治郎の演技は緩急利いていて確かに器用なものですが、番組プロデューサーはどういう意図でこの映像を選んだのでしょかねえ。吉之助の個人的な好みを言えば・吉之助はこういう演技があまり好きではないのです。理屈で言えば升六がここで底を割るのは良くないということが言えます。山場はずっと後ろにあるのですから、ここは余計なことを匂わせずサラリとやれば良いのです。理屈ならそういうことですが、「ましょう・・・・かあ」で台詞を七の調子に揃える感覚が良くないと思います。七五調で締めれば人を殺してもセーフという感覚は吉之助は嫌なのです。これは猿之助のサラリとした台詞の方がずっと良い。亀治郎にその違いが分かる役者になって欲しいなあと思います。

別稿「歌舞伎とオペラ・24」で「最近の歌舞伎ではきまることが嫌なことだという意識が役者に余りないようだ」と書きましたが、亀治郎のような演技を見るとそれを思い出しますねえ。と言うより、この番組で升六の演技やたっぷりとした見得の仕方を見る限り(決め付けるつもりはないですが)「こうすれば・・らしくみえるだろ」という感覚が亀治郎は叔父よりさらに強いのではないかという感じがします。これは世代の差もあると思いますが、こうした現象は歌舞伎の保守化傾向を良く示していると思います。まあこの感覚は実は亀治郎だけのことではありません。別稿「初代の芸の継承〜吉右衛門の課題」・あるいは「菊五郎の弁天小僧」でも書きましたが、吉右衛門や菊五郎にもあることです。しかし、何と言いますかねえ。吉右衛門や菊五郎のような出来上がった役者ならそれは彼らのスタイルとして受け取っても良いですが(まあ仕方ないということもある)、亀治郎は若いのであるし・「歌舞伎の異端児」を標榜するのならば、こういうところで無批判的にどっぷりと「・・らしく」に浸りきる感覚は良ろしくないのではないですかね。伝統必ずしも良いことばかりではありません。グスタフ・マーラーは「伝統的であるとは、だらしないということだ」と言い切りました。伝統が内包するダルいものへの批判を常に持ってこそ新たな展開が可能になるのです。若い世代には「きまることは嫌なこと」ということをちょっと考えてみて欲しいと思うのですねえ。

(H22・4・11)


 

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