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近松の時代物と世話物

〜または・「今なぜ三大丸本なのか」

*下記は平成18年2月12日(日)に行われた「歌舞伎素人講釈」第4回公開講座のテーマ「三大歌舞伎を考える」の導入として書かれたものです。


「人々は自分自身の歴史を作る。しかし、それを自由な素材から作るのではない。つまり自分で選び取った材料からではなく、手近にある既存の因習的なそれから作るのである。あらゆる死滅した種族の伝統が、悪夢のように生きている人々の脳髄に覆いかぶさる。」(カール・マルクス:「ルイ・ボナパルトのブリュメール 18日」)


○「歌舞伎素人講釈」ではこれから三大丸本歌舞伎を考えていくということですが、今・なぜ三大丸本なのでしょうか。

三大丸本と言うのは、ご承知の通り延享3年(1784)の「菅原伝授手習鑑」、延享4年(1785)の「義経千本桜」、寛延元年(1786)の「仮名手本忠臣蔵」の三作品のことですが、三年続きで大坂・竹本座で初演された人形浄瑠璃が原作で・それがすぐに歌舞伎に移されて人気演目としてずっと上演されてきたわけです。もちろんこれらの作品にまつわる芸談も豊富に残されていますから・研究対象として非常に重要なものです。

実は最初は・古い順にまず近松門左衛門の世話物から取り上げてみようということを考えていたのです。しかし、むしろ三大丸本の竹田出雲ら浄瑠璃作者の古典様式を十分検証したうえで・そこから近松を振り返ってみた方が・近松の創作のベクトルが理解しやすいであろうという風に考えて方針を変えたのです。

○三大丸本の竹田出雲らから近松門左衛門を振り返って見るというのは、どういう意味があるのでしょうか。

近松は現代ではもっぱら世話物の作家として評価されています。しかし、近松の120編とも150編とも言われる作品のなかで世話物は24編にすぎないのです。当時の劇作家にとっての本領は時代物で、時代物で声名をとってこそ劇作家なのです。だ から近松は時代物作家として評価すべきで・世話物は近松の余技であると考えるべきだという意見もあるのです。しかし、いろいろ考えてみると近松はその創作意欲を注ぎ込む容器 (いれもの)として時代物という形式に満足していたわけではなかったということをこの頃つくづく思うわけです。

○近松は時代物という形式に満足していなかったという推論の根拠は何でしょうか。

現在上演される近松の時代物は「平家女護島(俊寛)」とか「傾城反魂香(吃又)」とかそう多くありませんが、しかし、いくつかの作品を見てみると・近松の時代物は同時代のことを過去の物語に仮託しようとする要素が強い。つまり、同時代性が強過ぎて・時代物としてはいささか生(なま)な感じがするように思われます。

○近松の時代物における生な感じは、例えばどんなところに出てるのですか。

例えば「平家女護島・俊寛」において・俊寛が使者瀬尾に斬りつけ・これを討ち果たす場面ですが・歌舞伎ですと・単にとどめを刺すだけですが、実は原作(浄瑠璃)では俊寛は瀬尾の首を切り落とすのです。本文には『始終をわが一心に思ひ定めしとどめの刀、「瀬尾受け取れ、恨みの刀」三刀四刀じじぎる引つきる、首押し切つて立ち上がれば、船中わつと感涙に、少将も康頼も手を合わせるたるばかりにて、物をも言はず泣きゐたり』とあります。首を切り落とすということは、これが俊寛と瀬尾との個人的な喧嘩ではなく・正式な果し合いというか・「これは政治的な戦争だ」ということを明確に示すもの なのです。つまり、俊寛は瀬尾の首を斬りながら・実は清盛の首を斬っている心なわけです。俊寛が丹左衛門に「『小松殿、能登殿の情にて、昔のとがは赦され、帰洛に及ぶ俊寛が、上使を切つたるとがによつて、改めて今鬼界ヶ島の流人となれば、上御慈悲の筋も立ち、お使の落ち度いささかなし』と言うのはそこのところです。

○これが同時代性とどうつながるのですか。

実はここで近松は「平家女護島」(享保4年)での平家の横暴の描写に徳川将軍家を重ねていると考えられるのです。近松研究の木谷蓬吟はこのような描写が近松が晩年になるほど多くなっていると指摘しています。蓬吟はこれは享保に入って将軍吉宗の朝廷圧迫が激しくなっていたことに関係があると述べて・「清盛は徳川幕府の仮面である」と指摘しています。近松は若い頃に一条禅閤恵観(えかん)など公家に仕えたことがあって・天皇家に親近感がもともと強かったと思われます。近松は日ごろの幕府の朝廷に対する振る舞いに憤懣やるかたなく・これを「平家対朝廷」の対立構図のなかに託したと考えられるのです。

○すると俊寛は瀬尾の首を斬りながら・徳川吉宗の首を斬るという心ということになりますか。

もしかしたらそうかも知れませんよ。木谷蓬吟には「近松の天皇劇」という著書があって、ここで蓬吟は近松の時代浄瑠璃から天皇が登場する33編を挙げて・近松の「勤皇」的史観が近松の天皇劇の動機であるとしています。

○「俊寛」の他にはどんなものがあるでしょうか。

「相模入道千匹犬(さがみにゅうどうせんびきのいぬ」(正徳4年・1714)という作品があります。相模入道というのは鎌倉幕府最後の執権・北条高時のことです。北条高時は幕府が衰退している時に田楽や闘犬にうつつを抜かしていたというのは有名な話です。犬というと・連想されるのは「犬公方」と言われた五代将軍徳川綱吉ですね。本作が書かれた正徳4年というのは綱吉が死んで四年後のことなのです。「生類憐れみの令」は天下の悪法とも言われていますが・これを綱吉にそそのかしたのは護寺院隆光でした。「相模入道千匹犬」には高時の信任を得ながら・自分が助かるために最後の最後に主人を裏切り・新田義貞に高時の首を渡す五大院の右衛門という人物が登場 するのです。この最後の方で吃驚するような場面があります。五大院の右衛門に白石(しろいし)という犬が飛びかかって・その首を食いちぎるのですよ。五大院の右衛門は護寺院隆光を・忠犬白石は六代目将軍家宣の補佐役で・「生類憐れみの令」を廃止した新井白石を擬しているのです。

○これはまたびっくりの描写ですねえ。これで近松には何かお咎めはなかったのかと心配になりますねえ。

『時に白石一文字に吠えかかり、五大院の右衛門が首の骨ひっ咬へ、くるりくるり、くるくるくると振り回し、ふつと喰い切り捨ててけり。』と言うのですよ。これは凄い表現ですねえ。これほど露骨な政治批判は・どんなに頭の鈍いお役人でもその意図は分かるでしょうね。

○享保8年(1723)2月・近松71歳の時に幕府から心中物の出版・上演禁止令が出るわけですね。

心中物の上演禁止令が近松に与えた精神的打撃は計り知れないものがあったに違いありません。翌年・享保9年1月に竹本座で 上演された「関八州繋馬」(かんはっしゅうつなぎうま)が近松の最後の作品となります。謀反人の娘として抹殺された小蝶の霊が、大文字焼の火のなかから現れるという幻想的な場面は評判を呼びましたが、その直後・3月21日に大坂 の街が大火事に見舞われて・竹本座も焼けてしまいます。これは大坂の「大」という字が燃えるという不吉な芝居を書いた近松のせいだという風評が流されたのです。それがある筋の意図的なものであったどうかかはともかくとして、晩年の近松は失意のうちに死んだわけです。近松が亡くなったのは、同じ年(享保9年)11月22日のことでした。享年72歳。

○「関八州繋馬」はその題材を「将門の世界」に採っていますね。

平将門といえば天下を揺るがした謀反人であり・最も有力な御霊です。その将門を「世界」にとるのは、スケールが大きい芝居が出来る可能性がありますが、同時にこのような「反体制」のシンボルを題材に取ることは作者にそれなりの作意があると考えられます。また、これを題材にするリスクも覚悟しなければなりません。ちなみに三世鶴屋南北の絶筆「金幣猿島郡」も「将門の世界」に拠っているのです。これにも南北の意図が潜んでいるかも知れませんね。

○近松の時代物には同時代に対する怒りとか憤懣とか・様々な思いが仮託されていると考えられるのです。

近松作品全体を調べているわけではないので・あくまで印象ですが、近松の時代物は同時代的要素が非常に色濃いように感じられます。つまり時代劇としてはいささか生(なま)な感じがします。後年の竹田出雲 らの三大丸本にももちろん同時代性はあります。「仮名手本忠臣蔵」などはまさにそうですが、しかし、こういう生(なま)な感じはあまりしないのじゃないですか。時代物として練れていて・フォルムのなかにちゃんと納まっている感じがする。これは単に我々が三大丸本を見慣れちゃってるせいなのか。むしろ近松の方が感触が新しい感じがするのは何故なのか。そこのところを考える必要があると思うのです。その為にはやはり三大丸本の方から時代物のフォルムの完成形態をまず先に検証しなければならないという結論に達したわけです。

○近松の世話物を考えているうちに・三大丸本に思考展開しちゃったわけですか。

時代物浄瑠璃の形式は五段形式が基本です。一方、近松の世話物というのは・ご存知の通り、上・中・下の巻で構成される三部形式になっています。世話物の最初である三部形式は「曽根崎心中」(元禄16年:1703:竹本座)で近松が創始したものです。もちろんそれぞれの世話物作品で場割りは微妙に変わりますがね。「曽根崎」は構想から執筆まで一月もなく一気に書き上げられた のです。しかし、この三部形式を近松がどのようにして発想されたかについては確固たる定説がないようです。有力な説は時代物浄瑠璃の三段目(三段目は世話場であることが多い)が独立したものだという説でしょうか。しかし、もうちょっと違うものを考えてみたい気がするのです。

○もうちょっと違うものとは何でしょうか。

近松は時代物という形式に飽き足らなかったのではないか・純粋な現代劇が書きたくて仕方なかったのではないかと思えるのです。だから世話物は時代物浄瑠璃の三段目が独立したものだというのが形式的に考えて正しいこととしても、その裏に近松の時代物五段形式の破壊衝動を見る必要があるという気がします。近松は本当は現代劇が書きたかった・その衝動が世話物の創造になったということです。

○そうなると近松の作家としての評価はどういうことになりますか。

現代では近松は「世話物作家」であるということになっています。吉之助の言っているのとその意味合いは異なるのですが、結論としては近松は純現代劇としての世話物を志向した劇作家であったということは間違いないと思います。やはり近松は世話物作家であったという結論になります。

○そこで近松を見直すために・まずは三大丸本を考えてみるということになるわけですね。

「歌舞伎素人講釈」では歌舞伎を「バロック」という概念で解析することをずっとしてきました。引き裂かれて分裂していく表現ベクトルであるバロックに対して、集約し・まとまっていく表現ベクトルが古典です。このふたつの対立概念の狭間で揺れ動くなかに芸術のざまざまな表現様式があるというのが「歌舞伎素人講釈」のフォルム感覚です。そう言う視点から見ると、三大丸本と呼ばれる作品群は・現状において も頻繁に上演されていてその古典的な作品構造が一番検証しやすい作品群です。また、事実、浄瑠璃の歴史から見てもこれらの作品は最も完成された古典的形態を備えているということが言えます。

*エウヘーリー・ドールス:バロック論

○三大丸本の時代物のフォルムを研究すれば・近松がこれを破壊しようとして世話物へ動かした衝動が見えてくるかも知れないというわけですね。

その通りです。そのためには時代物浄瑠璃の持つ古典的フォルムの持つ効果を研究しておかなければなりません。ひとつ考えるべきは古典的形態のもつ安定性が持つ効果です。これは普通に考えると表現の普遍性・あるいは表現の理念化に通じると見ることができます。まあ 、平たく言うと高尚化・芸術化ですが、逆に作用する場合も考えられます。表現を型にはめる・硬直化させる・ひどい場合だと自由な表現を阻害する方向に働くこと もあります。時代浄瑠璃のフォルムはこの両面から考える必要があります。まあ、三大丸本はその両面のバランスが取れた理想的ケースということです。

○時代物というのは 江戸時代の庶民から見た遠い過去の世界を題材にして作られていて・歴史上の事件や人物の名前が使用されていますが、あくまでも題材として使っているだけで史実からは遠いわけですね。

江戸時代は当時の事件や人名を使用して現代劇を作ることが許されていませんでしたから、いわば便宜上過去の事件のなかに現代の庶民の思いを託したのです。良い方に考えると、この制約を逆手にとって荒唐無稽であっても・さまざまなアイデアを盛り込んだバラエティに富んだ芝居が作られたわけです。そこに庶民の雑草のように・したたかな生命力を見ることが出来るということです。逆に言いますと、幕府の統制により 同時代演劇を創ろうとする庶民の健康な創造意欲が不自然な形で歪められたということができます。この両面を見る必要がある。どちらか片方でも時代物の本質を見誤ることになります。

○近松の場合は同時代での思いが時代物に色濃く反映されているということでしたが、出雲らの三大丸本の場合はそうではないのですか。

バロック感覚というのはひとつの物差しで測って・ある作品はバロック度3・別の作品はバロック度2だとか判定するものではないのですよ。それは相対的なもので見ようによって・捉え方によって同じ事象がバロック的に見えたり・古典的に見えたりするのです。そういうことは、ふたつの作品を並べてみるとか・同じ作品のある部分とある部分を比べるとか、そういう作業をして相対的に理解するべきことなのです。そうすると、これと比べると・こちらの方がバロック性が強いとか・こちらは古典的だなと感覚的に分かるようになってきます。特に重要なのは作品の流れのなかでの前後の表現との関係ですが、それさえも見方によって感覚が変ってくるのです。そうしたところから判断していくしかないのですが、 吉之助の感覚では・全般的に言えば出雲らの方が近松より古典的に思えます。

○出雲らが古典的だというのはどういうところからそう感じるのですか。

三大丸本はフォルム感覚がしっかりしていて・枠の制約をあまり感じさせませんね。表現が練れて落ち着いた感じがするのです。時代浄瑠璃の完成されたフォルムを感じさせます。だからと言って出雲 らにバロック性がないわけではありません。むしろそうしたバロック性が内部に秘められていて・登場人物の行動や台詞の些細なところでチロチロと噴出すのです。とにかく全体のフォルムを眺めれば出雲 らは古典的であると思えます。しかし、細部の分析に入っていけば・ここはバロック的だと言うところはいっぱい出てきますよ。

○ひとつの作品のなかに古典性とバロック性は混在するのですか。

完全に古典的な表現・完全にバロック的な表現というのはありません。すべての表現はどちらの要素をも持ち、その両極の間で揺らぐのです。ひとつの作品のなかでもバロック的な要素と古典的な要素は呼吸のように揺らぎ・波のように動くのです。この辺りをこれから三大丸本のフォルムを考えていくことで検証していきたいと思います。

(H18・2・14)



 

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