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能楽におけるバロック

〜日本における「バロック的なるもの」・その3


能楽は「抽象的で簡潔を極めた様式的な演劇」であるとされ、バロック精神からは最も遠いもののように思われます。 能楽が様式的な演劇であるのは確かにその通りです。しかし、「いくつかの相矛盾する糸があるひとつの動作に結集された時、そこから生まれる様式は常にバロックのカテゴリーに属する」というドールスの言葉を想起するならば、実は能楽のなかにもバロック的な要素があるのが見えてきます。

*エウヘーリー・ドールス:バロック論

それは、写実に向かおうとする(すなわち人生の真実を描こうとする)表現意欲と、様式化に向かおう(すなわち神事に戻ろう)とする表現意欲の葛藤・相克です。これこそバロック精神そのものではありませんか。能楽の様式(フォルム) もまたその古典性とバロック性の相克の結果から生まれたものと思えます。

*上の写真は弱法師の面

まず能面について考えてみます。能面についてよく言われる所説は、能面の表情はあらゆる表情への可能性を含んだ中間表情であるというものです。 これは野上豊一郎が「能面論考」で述べた有名な説です。それは見る者の心によって、笑っているようにも・泣いているようにも・いろいろ な表情に見えるというのです。この説について、武智鉄二は「冷静に考えてみて・果たしてそうであろうか」と疑問を呈しています。

武智の言うには、能楽の舞台において仮面の果たす表現力は自然な人間の表情と比べてはるかに制約され・固定されたものだと言うのです。あらゆる個性的な女性は「井筒のおんな」も「舟弁慶の静」も同じ小面(こおもて)として類型化されます。役の差異による表現のバリエーションは あってもそれは軽微であって・ついに類型化の域を出てはいない、これは劇的表現のための大きな障害ではないのかと武智は考えます。そして、武智は次のように結論付けます。

『仮面は能楽のために、その劇的内容・主人公の人間性を表現するもの、いやその補助手段ですらない。仮面はそれを阻止し、いわば表現を邪魔するためのものなのである。』(武智鉄二:「能楽の特異な性格について」・昭和28年10月)

*写真上は「弱法師」の舞

実際に能面を着けてみると吃驚しますが、能面を着けると視界が極度に遮られて・素人には一歩さえ気楽に足を踏み出せるものではありません。なるほどこれは表現の枷(かせ)を自らに課すものだなあと思うわけです。武智は、さらに能楽の舞台機構についても疑問を呈し、あの松の描かれた舞台面・松羽目ほど非演劇的な背景は想像できないと言っています。

『この一枚の松羽目が海淵であると同時に深山であり、地獄であると同時に極楽であり、草原であると同時に殿堂であらねばならぬ。これを空間性の制約を超越した豊かなる能の表現性の例証だという説をなす人もあるが、これほどあきれた現実無視の言はない。松羽目のある三間四方の舞台は、つねにただそれだけでしかない。能にあってはシテの仮面から始まって舞台装置にいたるまで、ことごとく劇的内容、その人間性につらなる一切のものの表現を否定するために用意されているとしか思えない。』(武智鉄二:「能楽の特異な性格について」・昭和28年10月)

このことをどう理解すればいいでしょうか。もちろん武智鉄二はこの問題提起から逆説的に能の表現の豊かさを問うているのです。しかし、この問題提起の意味は大きいと思うのです。

能楽の成立した時期は中世末期で・戦国の世に足を踏み入れた時代でした。中央と地方の交易が盛んになり、農民・町人の生活は安定してきた時期でもあります。そのような生活の向上は民衆の意識を高め、神々の奉仕のためであった芸能を次第に自分たち民衆のものにしようとしたのです。そうやって生まれたのが田楽・猿楽 ですが、それも封建領主たちのなぐさめのための芸術として保護され・民衆の手から次第に離れていきます。

*左は「隅田川」の舞台

封建領主たちにとって最も好ましくないのは、民衆たちが人間的自覚に目覚めることでした。芸能を通じて民衆が現実を見つめ・社会的な意識を持ち始めることは、支配階級にとって危険なことでした。だから、支配階級は芸能を庇護し・その支配下に置くことで、能楽は消費的な文化の性格を植えつけられ高度に観念化し洗練され・高尚化し芸術化していきます。江戸期においては能楽は「式楽」として完全に体制のなかに組み込まれたものになります。そうやって能楽は庶民とは無縁な方向に発展していきました。そのような流れのなかでも芸術家としての自覚を持った世阿弥ら・能役者たちは表現の自由を勝ち取るために戦いを続けてきたのです。

このような見方は唯物史観的・階級闘争的理解のように思われるかも知れません。しかし、神のための芸能を民衆のものにしていこうとした世阿弥をはじめとする能楽師たちの方向性 は理解されるでしょう。

そう考えた時に、その抽象化されて観念的な・しかし悪く言えば退屈なほどに様式的な演技の裏側に押し込められた熱く渦巻く表現意欲のことを思わないわけにいきません。まさに能楽のオーラはそこから発せられるのではないでしょうか。だとすれば能というのは極めてバロック的な・しかして様式的な演劇なのかも知れません。

(H17・4・26)



 

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