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歌舞伎の女形を考える為の三章


「女性というものは銀の皿だよ」とゲーテは言った。「そこへ我々男性が金の林檎を乗せるのさ。女性についての私の考えは、現実の女性の姿から抽象したものではない。それは、私に生まれつき備わっていたものだし、あるいは、ひとりでに私が抱くようになった考えなのだ。だから、私が作品のなかに描いた女性の性格は、すべて成功している。彼女たちは、みんな現実にお目にかかる女性よりも素晴らしいわけだ。」(エッカーマン:「ゲーテとの対話」・1828年10月22日)


1)女形のエグ味

このごろは「歌舞伎の女形は見た目がキレイでないとイヤだ」というような見方が多くなっているそうです。昭和12年頃の文章ですが、折口信夫は「この頃は女形が大層美しくなった」と言って、次のように書いています。

「女形に美しい女形と美しくない女形がある。立役・女形を通じて素顔の真に美しい人の出てきたのは明治以後で、家橘(十五代目羽左衛門)・栄三郎(六代目梅幸)のような美しい役者は今までなかったと市川新十郎が語っていたくらいである。これは明治時代の写真を見れば分かることで、これには写真技術の拙さという事もあろうけれど、一体に素顔の良くない女形が多かった。(八代目)岩井半四郎などは美しかったというけれども、どの程度だったかについては、多分に疑問が残ると思う。(中略)こんな連衆が昔の女形で、その他一般に女だか化け猫だか分からない汚い女形が多かった。」(折口信夫:「役者の一生」・折口信夫全集・芸能史篇)

三島由紀夫が初めて歌舞伎を見たのは13歳の時で、祖母と母に連れて行ってもらった昭和13年10月歌舞伎座の「忠臣蔵」でした。この時に三島が初めてみた女形は、「大序」での十二代目仁左衛門の顔世御前でした。少年三島は花道近くの桟敷でこれを見て、「花道から不思議な人が出てきた。それは傍から見るともう皺くちゃ顔で、これが忠臣蔵という大事件の原因になる美人とはとても想像も出来ない。それがいきなり声を出すのでびっくりして、よく男でこんな声が出るもんだと、ただただ呆気にとられてしまった」そうです。この時に三島は「歌舞伎には、なんともいえず不思議な味がある。くさやの干物みたいな、非常に臭いんだけれども、美味しい妙な味がある」子供心に感じたと後年語っています。(「国立劇場俳優養成所での特別講義」昭和45年)

十二代目仁左衛門のために書いておくと、彼は芸風は「冷たい」と言われましたが「美しい方」の女形だったろうと思います。しかし、初めて女形を見た少年・三島には、それでもビックリであったということなのでしょう。ここで少年・三島はただ見た目の美しさだけが「美」ではないんだということを、その鋭い感受性で直感したようです。「くさやの干物みたいな、非常に臭いんだけれども、美味しい妙な味がある」とは天才的な表現です。少年・三島は歌舞伎の女形の不思議な魅力をずばりと言い当てています。

 ところで、大まかな流れとしては「昔の女形は今の女形ほどには見た目の素顔がキレイでなかった 」ということは、写真を見ても確かに言えるようです。あるいは現代の感覚からするとキレイに見えない女形が多かったと言うべきでしょうか。男なのか女なのか・化け猫なのか・ひき蛙なのか分からんような女形が昔はたくさんいたようなのです。今はさすがにそこまでの方はいないようですが。

発声についても同じようなことが言えるようです。今の女形の発声は無理に咽喉を絞ってかん高い細い声を作ろうとしている感じですが、昔の女形の声よりはずっと「女っぽく」響く気がします。昔の女形・例えば五代目歌右衛門などの録音を聞きますと、昔の女形は自然な「男っぽい」声なのです。(参考にサイト写真館で「幕末の二人の名女形」を掲載しています。)

女性が着物を着た時に歩き方が美しく見せる技術は「内輪歩き」です。これはもともと歌舞伎の女形の技術で初代中村富十郎が編み出したものでした。当時の女性は男性と同じように外股で歩いていたのです。それ以前に歩き方に性別はあまりなかったのです。だから先行芸能の能・狂言では女形は外股で歩きます。富十郎の女形の内輪歩きを見て「美しい」と感じた女性たちがこぞって富十郎の身こなしを真似して内輪歩きが女性のなかに浸透していったわけです。

だとすると富十郎は内輪歩きによって現実の女性を「写実」に写したのではなくて、「女」の本質の何かを表徴的に提示したと言えます。女形の究極の目的は「女そっくりに見えること」では必ずしもないでしょう。それは「女」を表徴すること・「女の人生」を表徴することなのです。これは同じことを言っているようですが、必ずしもそうではありません。富十郎の場合はそれがピッタリはまってうまくいったわけですが、それは「女そっくり・見た目キレイ」といつも合致するものとは限りません。

なぜなら男がいくら修行して芸を積んでも「女そのもの」になることなど絶対に有り得ないからです。もともと女形は「女に似て非なるもの」なのです。それが女形の宿命なのです。だから女形が芸を磨けば磨くほど・「女」になろうとするほど、哀しいことにその自己矛盾が露呈する・「エグ味・苦味」が出てくるものなのではないでしょうか。そう考えますと、歌舞伎の女形が表現しようとしている(はずの)「女」の本質というのはますます解明し難い謎だという気がしてきます。一体、女形の表現する「女」というのは何なのであろうか、そういうことをつい考えてしまいます。

女形が目指すのは、見た目に「女そっくり」 に見えること ではなくて・観念としての「女」である・そういうものを女形は表徴として示すのである、というのも理屈としては分かる。見た目がキレイだというのは単に「素材」の問題なのでそれだけだったら「芸以前」であるというのも理屈では分かる。しかし、眼前に見えているもの(女形の姿)が決して美しくなくて・というより「醜悪」 にさえ感じられるとしたら、その人に「これを女形の美として受け入れろ」というのは生理的になかなか難しい話ではないでしょうか。

ところが、その一方で少年・三島のように「それが女形の魅力なのだ」と感覚的にワープしてしまって・それが「美しい」と直感で感じ取れる人もやはりいるわけです。美食家は甘味だけを旨いと思うわけではありません。苦味もエグ味も料理の味の大事な 構成要素なのです。女形の「見た目の醜悪さ・気持ち悪さ」というのはエグ味か苦味みたいなものなのではないでしょうか。

吉之助のような凡人は「顔が白く塗ってあるのは歌舞伎では美しいという約束になっているのだ」と思い込んで見ているうちに、気が付いたら女形のエグ味に慣れていたのですね。(笑) 吉之助が歌舞伎を見始めた時の歌右衛門・梅幸や国太郎その他の女形連中は 技芸として頂点にあっても容貌としてはすでに盛りを過ぎていたこともあるかも知れません。「女形のエグ味」を当然のものと思って見ていたせいか、吉之助の場合は女形の見た目が気になったことは全くありません。

「見た目の醜悪さ・気持ち悪さは芸によって隠されてしまう・芸が美しくなれば姿は美しくなるものだ」というのは、女形論にはよく出てくる文句です。「芸の力によって汚いものが美しくなる」か・・・なるほどね、そういうこともあるかも知れませんね。しかし、それだけならば月並みの「観念論・精神論」であって強い説得力は持たないと思います。「芸の力で美しくなる」などと言ってしまうと役者個人の芸の力量の問題に帰してしまって・歌舞伎の女形論にならないのではないでしょうか。

前掲の「役者の一生」で、折口信夫はこんなことも言っています。

『歌舞伎においては女形は女らしい女ではいけない。歌舞伎では立役にしてからが世間普通の男とはどこか違っている男なのであるから、そうした芝居の世界の男に相応した女でなければならず、現実の世界の女であってはならないのである』(前掲書 「役者の一生」)

別稿「女形の哀しみ」で書きました通り、歌舞伎は女優を奪われた時点で創成期の「写実」の志を曲げざるを得ませんでした。女形がその演技術のなかに「反写実」の要素をつねに孕む以上、男優もまた「男形」にならざるを得なかったのです。ご承知の通り「男形」なんて言葉は存在しませんけれど、しかし、歌舞伎の 男優にもそういう反写実の要素があるのだということを意識しておいて欲しいと思います。これが歌舞伎の本質なのです。それは相手役の・嘘の存在である女形を女に見せるために必要なことであったのです。折口信夫は歌舞伎の本質を感覚的にズバリと指摘しています。

歌舞伎のなかで「女形の美」というものはその構造のなかにしっかりと組み込まれて・位置付けられているのです。それによって「男優の美」も決められているのです。だから、女形を女優に取り替えてしまったとすれば、歌舞伎全体の「感覚の設計図(デッサン)」が狂ってしまうのです。それが、歌舞伎が女優の参加を容易に許さない真の理由だろうと思います。


2)歌舞伎の「男宝塚化」

三島由紀夫が面白いことを書いているので、この文章を材料に考えてみたいと思います。

「私のつねづね不思議に思っていることがある。今はむしょうに女が強くなって男性化した時代のように言われながら、女の顔自体は、昔に比べてだんだん男性的威厳を失ってきているのである。理想の美女は現代ではイタチか猫か少年の顔に近く、明治時代の女性のような、むしろ男性的威厳を帯びた顔はいなくなったか、少なくとも流行らなくなってしまったのである。確かに体格の良くなったことは驚くばかりだが、顔はますます小さくなる傾向にあり、髷の似合いそうな顔はひとつもない。女性が女性的であった時代に、却って、女形風な顔や美がもてはやされ、たくさん生存していたとはどういうことだろうか。」 (三島由紀夫:「捨てきれぬ異常の美〜女形は亡びるかどうか」・昭和38年8月)

 特に戦後において日本人の体格が大きく向上したことはよく言われることです。これには食生活(栄養の向上・米食からパン食へ)とか・生活事情(和室・畳の生活から洋室・椅子の生活へ)など様々な要因が考えられます。日本人の身長が高くなり手足が長くなって、相対的に顔が小さくなっています。例を挙げると何だか申し訳ない気もしますが、八代目幸四郎(初代白鸚)が花道に立った姿などは5頭身かと思うほどにどっしりとして安定感があってお顔が実に立派でありました。今の若手連中を見ているとなんだか頭をつまんで上に引っ張り上げたみたいに長くヒョローリとしてどこか安定感がないのですね、ジーパンは似合いそうですが。

同様なことが顔(容貌・骨相)においても言えるようです。現代人はあまり固い物を食べないので顎を遣わない、それで顎が小さく顔が細くなってキツネ顔になる傾向があるそうです。幕末・明治に撮られた写真などを見ると、当時の日本人の容貌は顎が張っていて全体に四角い感じがするし・鼻筋が ちょっと低い感じがします。全体に農民的な・武骨で土臭い感じがしますが、これは農耕民族としての特性が容貌にも自然と表れているということでしょうか。それと目付きが印象的に思われます。内に強固な意志を込めて、それを容易には表面に表さない強さがあるような気がします。こう感じるのは写真技術という問題もあるのかも知れませんが、食事や生活習慣が変わることで同じ民族でも容貌・体格はずいぶん変化するものなのだなあということを思います。

面白いのは幕末・明治の女性の骨相には三島が指摘しているように・男性的な骨ばった強さが見えることです。現代人の骨相は男も女も共に明治以前の日本人からすれば「男性的」な威厳・強さを失っているということが言えるかも知れません。明治天皇の崩御の時に殉死した乃木将軍夫妻がその当日に撮った写真に対して、フランスの哲学者ロラン・バルトが 次のように書いています。乃木夫人の顔は、バルトに 非常に強い印象を与えたようです。(写真館「明治の女、そして女形の描く女」に写真を載せましたからご参照ください。)

『すでに夫妻はやがて自殺すると決意している。覚悟は出来ている。その髭、その軍服、その華美 な礼装のなかに没して、将軍はほとんど顔を持っていない。だが、夫人は完全に顔を持っている。(中略)乃木将軍夫人は、死というものは感覚であること、死と感覚とは同時に相互を追い払うものであること、したがって、顔によってあろうと、死について語ってはならないと、そう思い定めているのである。』(ロラン・バルト:「表徴の帝国」 〜「書かれた顔」)

ここでバルトは、乃木将軍は公人としての乃木将軍に隠されてしまって「個」としての乃木希典の表情を持っていない・しかし、夫人・乃木静子の方はしっかりと「個」を持っていると言っています。ここでは乃木夫人は決して夫の従属物ではなくて・つまり夫に従って死ぬのではなくて、自分の意志で自害するという決意が見える・強固な意志を感じさせるのです。むしろ、乃木将軍の方が影が薄いような感じがします。何と言いますか・こういう時は女の方が腹が据わっているものですね。この乃木夫人に見られるような・明治の女性の容貌の男性的威厳・今の我々は「男性的」という表現をつい使ってしまうけれども(それより表現しようがないのだけれども)、こういうのが昔の「女」なのではないかなという気もして来ます。

実は上記に引用したロラン・バルトの「表徴の帝国」の一章「書かれた顔」は、歌舞伎の女形について述べた文章です。バルトは女形の表徴の機能について考察し、「表徴」とはそこから意味を読み取られるべき符号であると言っています。そして間もなく自害する乃木夫人の写真を取り上げ、彼女の無表情が表徴するものは彼女の「死すべき定め」であり、それが彼女の女形が「女」を表徴するのと同じ「表徴の機能」だと言うのです。乃木夫人の写真で女形の表徴論を締めるロランの絶妙な論理展開・その鋭い直感力には驚嘆させられます。

しかし、バルトがここで論じているのはとりあえず「表徴の機能」そのものについてだけです。バルトはそれ以上はここでは論じていません。しかし、私はまったく逆のプロセスで、乃木夫人の写真から「表徴としての女」が暗示する「女の人生」(というか「運命」と言ってもいいかも知れません)を思いました。バルトという哲学者は、なかなかただ者ではありません。彼が偶然にこの一枚の写真を選んだように吉之助には思えないのです。

足がしっかりと地についていて武骨で意志強固な、昔の女形の表現していた「女」というのは、こういう感じであったのかも知れないと思います。だとすると、昔の女形が表現 した「女」というのは、今の我々が想像しているのとはずいぶん違っているのかも知れません。もしかしたら江戸時代の人々が当時の歌舞伎の女形(現代の我々からみれば「キレイ 」でなかった女形)に感じたものは、今の我々が感じているものより感覚的ズレがずっと少なかったのかも知れないということも想像できるようにも思われます。

これは「明治以前の女性はキレイじゃなかった」と言っているのではありません。美人とか綺麗 とかいう美的基準は時代によってずいぶんと変転するものですから。女形の描く「女」にしてもそうした時代それぞれが持つ美的基準と無縁のはずはないのです。しかし、現実世界での生身の女性と・歌舞伎の女形、それぞれの美の基準が時代の流れで変化していくなかで、両者にどういう関係が生じているのだろうかということは 実に難しい問題だと思います。これに「男」と「女」の美意識の変化も関連させていくとますます事は面倒になって、ますます分からなくなっていきます。

また、 三島が指摘するように・歌舞伎が同時代の演劇ではなくなってしまった現代に女形の美の基準自体が生活から遊離し始めているということも考えねばならないことです。先に引用した三島の文章を見ると、面白いことに・文章の論理がよじれていることに気がつくでしょう。現代は女性が男性化した時代であるが逆に女性の顔は男性的な容貌を失った・昔の女性の顔は男性的であったが 逆に女性は今よりすっと女性的であった(この辺には異論もありましょうが)・その昔に女形の美がもてはやされたというのはどういうことか、という流れになっています。(注:三島の文章が書かれた昭和30年代は、女形の衰退が盛んに言われていた時代でした。)泉下の三島からしてみると女性の行動がさらに男性化して・逆に男性的な 容貌を失ってしまった平成の世において、再び女形がもてはやされるようになったという事はさらに不思議なことでありましょう。

しかし、歌舞伎の女形に関して言えば、現代の女形は容貌の男性的威厳を失い・さらに女性化したとも言えるようです。こうした現象は「女形は見た目がキレイでないとイヤだ」という風潮と方向性で合致しているように思われますが、実はこれは美意識だけの問題ではなくて、さまざまな要素が複雑にからまった現象なのです。それは芝居の「嘘」というものを「嘘」として観客が素直に受け入れられなくなっていることを示しているのです。キレイな女形を求める声はじつは歌舞伎の「男宝塚」化の方向性を示しているように思われます。


3)女形の開き直り

「女の真似をする女形は、女形芸術の墓穴を自ら掘ってるものだと思う。女形の範はあくまで能の鬘物のシテにあるので、世にも高貴な美女の仮面を通して、神秘的な、暗い男の声が響いて来、美しい唐織の衣装の袖から、武骨な男の手が剥き出しになっているべきなのだ。ということは、女形の真骨頂は仮面劇にあるのであって、歌舞伎の女形といえども、変成男子の神秘感を失ってはならないのだ。(中略)男が女に化けているという芝居のウソの前提を、観客がもっと強く意識するようになれば、女形の将来は捨てたものではなく、また、女形自身も舞台の上で女形であること自体に、堂々たる男性的威厳を発揮することに努めれば、世間の目も変わってくるだろう。」(三島由紀夫:「捨てきれぬ異常の美〜女形は亡びるかどうか」・昭和38年8月)

三島由紀夫は能の女形と歌舞伎の女形とを混同しているようで、 吉之助は三島の意見に全面賛成ではないのです。しかし、「世にも高貴な美女の仮面を通して、神秘的な、暗い男の声が響いて来、美しい唐織の衣装の袖から、武骨な男の手が剥き出しになっているべきなのだ」という箇所にはちょっとショックを受けました。別稿「女形の哀しみ」で写実の志を曲げて反写実に生きなければならなかった歌舞伎の女形のことを書きました。もし歌舞伎の女形がこのような「開き直り」を見せていたとしたら、歌舞伎はもう少し違う方向に(今とは違った形に)進化したのではないかという気がします。

残念ながら歌舞伎の女形はそういう「開き直り」が完全には出来なかったと思います。「女のように見えなければいけない」とどこかで思ってしまった。初代芳沢あやめもそう思って「女になりきる」ことでそれを実現しようとしました。それは「写実・見たまま自然のままに演じるが良し」の概念がはるか昔の創成期の歌舞伎にもあったからだと思います。一旦そういう概念に染まってしまうと、役者にとっても・観客にとってもこれを振り払うことはなかなか難しいのです。

しかし、歌舞伎の女形は結果としては「女」を写実に表現するために「反写実」に生きなければならなかったのです。どのように努力して芸を磨いても男が「女そのもの」になることは絶対に不可能であったのです。女形の芸の提示するものは「女」という概念(「表徴」と言ってもよい)ではあるが、「女そのもの」ではなかったのです。そこに「女形の哀しみ」がありました。しかし、何事にも・生き抜いて行くためには、時には「開き直り」が必要なものではないでしょうか。

三島の言う「世にも高貴な美女の仮面を通して、神秘的な、暗い男の声が響いて来、美しい唐織の衣装の袖から、武骨な男の手が剥き出しになっている」ような男性的威厳を主張する開き直った女形・・・これはなかなかに魅惑的な想像ではあります。六代目歌右衛門 にも開き直ったようなところは確かにあったと思いますが、歌右衛門は十分に美しい役者であったから女形のエグ味を主張する必要はあまりなかったと思います。若い頃の芝翫時代の歌右衛門の写真をご覧あれ、その美しさ。別稿「三島由紀夫の歌舞伎観」をご参照いただければ、若き三島が若き歌右衛門に歌舞伎の未来を託した・その理由は十分に理解できましょう。

しかし、昭和38年の文章で三島が記した理想の女形像は、その先を行っています。その理想像は明らかに歌右衛門ではありません。これは三島の頭のなかで発展して・醸造されて育て上げられてきた「観念としての女形像」なのです。余談ですがこの文章が発表された時期は三島が武道へ 急速に傾斜していく時期とも一致していますし、三島が歌舞伎に失望して歌舞伎に距離を置き始めた時期とも一致しています。だから、ここでの「観念としての女形像」には現実のモデルはありません。そして、おそらく実現性は乏しいだろうとも思います。しかし、ここで吉之助が大事だと思うのは女形の「開き直り」のことです。この開き直りは重要だと思います。ホントは歌舞伎の女形ほど「嘘」の存在はないからです。

とりあえず「歌舞伎に女形は不要だ」という声は歌右衛門によって駆逐されたように思えます。次の段階は「女形のエグ味」を認知させる方向に女形は ぜひ行ってもらいたいものです。「女形のエグ味」を堂々と開き直って主張できる役者がいてもいいのではないかと思います。その開き直りのためにも、役者は「女形の宿命・哀しみ」を意識しなければならないと思っています。

(H15・6・8)

(参考文献)

折口信夫:「役者の一生」(かぶき讃 (中公文庫)に収録)

三島由紀夫:「捨てきれぬ異常の美〜女形は滅びるかどうか」(三島由紀夫全集)

ロラン・バルト:表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

渡辺保:女形の運命 (岩波現代文庫)

(注)冒頭に引用しましたゲーテの金の林檎の話は、ホメロスの詩劇「イーリアス」でトロイ戦争の遠因として出てくる・三美神が自分たちの誰が一番美しいかを互いに争うというお話から来ています。審判役に選ばれたトロイの王子パリスは、金の林檎をアフロデュテの銀の盆に乗せるのです。


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写真・岡本隆史c、協力・松竹、2013年5月、歌舞伎座、京鹿子娘二人道成寺

 

 

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