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芸能の始原へ〜檜枝岐歌舞伎訪問記

令和3年5月12日・檜枝岐歌舞伎

三番叟・「義経千本桜・鳥居前」

(檜枝岐村・愛宕神祭礼奉納歌舞伎)


1)檜枝岐歌舞伎訪問の記

檜枝岐村(ひのえまたむら)は、福島県会津地方南西部に位置する、人口520人くらいの、小さな山村です。東京に住む者にとっては、日光のずっと奥の方にあると云った方が感覚的に分かりやすいかも知れませんね。登山シーズンには燧ケ岳(ひうちがたけ)や会津駒ケ岳・あるいは尾瀬沼の入り口として賑わいます。檜枝岐村では、270年くらいの歴史を持つ・役者から裏方までを村民だけで行なう地芝居が、親から子・子から孫へと、綿々と伝えられてきました。これが、いわゆる「檜枝岐歌舞伎」です。270年前と云うと大体寛延・宝暦年間頃に当たり、「仮名手本忠臣蔵」初演が寛延元年(1748)大坂竹本座のことですから、随分長く続いているわけです。檜枝岐歌舞伎は、毎年5月12日・8月18日の祭礼と・9月第1土曜日の、年3回上演されています。

地芝居については、吉之助は平成15年(2003)に山形県酒田市の黒森歌舞伎を見たことがあります(別稿「民俗芸能としての「鮓屋」」をご参照ください)が、その後は仕事が忙しかったこともあって、なかなか見る機会がありませんでした。実は檜枝岐訪問は、昨年春に計画していたことでした。ところが、昨年(令和2年・2020)は全国的なコロナ感染増で訪問を果たせませんでした。それで今回(令和3年5月頃)にはもうコロナは治まっているだろうと思って準備を進めていたところ、4月頃から俄かに東京周辺のコロナ情勢が怪しくなり緊急事態宣言発出の事態になってしまいました。これはどうしたものかと思案しましたが、5月檜枝岐歌舞伎は「感染対策をして宿泊者限定にて開催する」と決まったとのことで、こちらも5月連休中は不要不急の外出はせず・結果として約2週間の隔離期間を経て、ようやく懸案事項であった檜枝岐訪問を果したわけです。観光客を迎える檜枝岐村の方々もさぞかし不安であったことと思いますが、兎も角何事もなく愉しい旅行が出来て良かったです。

ところで、昨今のマスコミは檜枝岐歌舞伎や黒森歌舞伎などのことを「農村歌舞伎」或いは「地歌舞伎」と呼ぶことが少なくないと思います。歌舞伎のサイトだから・本稿ではそこのところもう少しはっきりさせておきたいのですが、正確にはこれらは「地芝居」と呼ぶのが、学問的には正しいようです。田舎の村落で上演されるものは「村芝居」、このうち村民が自ら出演して行なうものを「地芝居」、地域の外から来る劇団を呼んで行なうものを「買芝居」と呼びます。地芝居とは、木戸銭を取らず、日頃は農業などを営んで役者稼業をしていない村民たちによって行なわれる素人芝居のことです。その昔は「芝居」と云えば、それは歌舞伎のことでした。木戸銭を取らないと云うことは、純粋な意味においてそれが神に対するヴォランタリーな(自発的な)行為であることを意味します。

檜枝岐歌舞伎は地元の神様への奉納神事で、5月12日は地元の愛宕神社、8月18日は鎮守神への祭礼として行なわれるものです。(この稿つづく)

前日(11日)の檜枝岐村。幟が立ってムードを盛り上げています。

舞台がある村の鎮守さまの境内への参道は、きれいに整備されています。右手の「伝承館・千葉之家」に檜枝岐歌舞伎の史料が展示されています。

奉納として神様に捧げるものなので・舞台は鎮守さまに向かって建てられています。茅葺きの屋根の舞台は、明治26年に一度火災で焼失し、その後再建されたものです。建築様式としては、奥会津によく見られる曲屋(まがりや)造りの民家に似ているそうです。舞台の幅は5メートルくらいで、花道が設置されています。

舞台から見た客席側。半擂り鉢型に石段があって、そこから芝居を見ることが出来ます。古代ギリシアの円形劇場のようにも見えますね。写真奥に見えるのが鎮守さまです。

(R3・5・15)


2)地芝居の始原

地芝居は全国各地に少なからず残っていますが、地域の地理的・歴史的条件が異なるので、成り立ちに一般的なものを見出すことは出来ないかも知れません。檜枝岐歌舞伎に関しては、270年位前に、村人がお伊勢参りの帰路に江戸で見た歌舞伎を村に伝えて奉納神事として始めたものとされているそうです。江戸期には庶民・特に農民の移動は厳しいものがありました。しかし、伊勢参詣に関しては、ほとんどそれが許される風潮でした。参詣の名目で通行手形を発行してもられば、どこの道を通ってどこへ行っても、まずお咎めはなかったようです。したがって参詣を済ませた後、檜枝岐の村人も帰りに江戸の芝居を愉しんだと思います。そうやって芸能好きな者たちが見よう見まねで芝居を始めたのが、やがて好きが高じて浄瑠璃本を集めたり・義太夫を習ったりするようになり、さらに演技所作を研究して・衣装・鬢なども買い揃える、そのような経過を辿ったものでありましょうか。

それにしても村人たちはなぜ地芝居をするようになったのか、地芝居を行なうことにどのような意味を見出していたのか、地芝居以前のことを想像してみたくなります。そう云えば、折口信夫はこんなことを書いています。

『舞台を建てて芝居をする。丸本歌舞伎をしたり、田舎廻りの役者から教えてもらったりすることもある。何故そういうものをするのか。村の青年が所在ない、空虚だから愉しみのためにするのではなく、もっと切実な理由がある。村々で念仏踊りをするが、もう少し内容のあるものをしようとする。念仏踊りが抽象的なので、死んだ或る人のためにする。対象が決った念仏踊りになって行く。そうして行ない始めた地狂言が、だんだん狂言の正本に載ってるもの、丸本に載っているものをするようになって行く。固有の芸は消えてしまって、本職の役者がすることを素人の人がするようになる。
その芝居が行なわれる時期はやはり念仏踊りから出ているので、お盆の時期が多い。芝居を捧げる対象は、近頃死んだ、去年のお盆の後に死んだ、新盆(あらぼん)の新仏の出て来ることを期待している。それを慰めるのに昔ならば新しい仏を慰める意志をはっきりさせるところだが、念仏踊りの表現が変って来て、特定の個人への慰めはせぬ。舞台に現れる人たちを、新仏に当てている。同じものだという風に考えて当てている。だから初秋の盆は、歌舞伎芝居にとって重要な関係を持っている。
見ようと思えば、現在の変形してしまった歌舞伎にも、念仏踊りの要素が見られる。歌舞伎はその後進歩し、ほぼ完全に狂言という位置に到達したわけだ。』
(折口信夫:「昭和23年度・芸能史・都民講座」、なお吉之助が文章の流れを若干整えました。)

折口信夫芸能史講義 戦後篇 上:池田彌三郎ノート

念仏踊りは、念仏を唱えながら踊る芸能みたいなものです。始まりは平安末頃ですが、踊られていた年代は長くて、近世まで続いています。念仏踊りの形態は様々です。それは形をいろいろ変えながら、上記折口の文章にもある通り、さらに内容のある・価値のあるものにしたいという芸術的意欲みたいなものから、次第に或るひとつの形へ極まって行くという過程を取ることがあったようです。歌舞伎芝居の始まりは、慶長8年(1603)京都・四条河原で出雲のお国が踊った「かぶき踊り」であるとされますが、これも実は念仏踊りの系統を引くものです。しかし、お国のかぶき踊りの、どこまでが従来の念仏踊りなのか、どこからがお国の創意に拠るものかは、分かりません。そこからも云えることは、慶長8年が歌舞伎が始まった年であるとしても、実はそれ以前に、念仏踊りが歌舞伎のために用意した長い歳月があったということです。

前日(11日)に檜枝岐村の歴史民俗博物館などを見学しました。檜枝岐の起源はとても古く、縄文時代の土器も出土するそうです。この村の姓は、「星」・「平野」・「橘」の3つの姓しかなく、このうち「星」は、延暦13年(794)紀州牟婁郡星の里の出身である藤原春晴なる人物がこの地に永住して「星」姓を名乗ったのが始まりだそうです。また「平野」姓も平家落人説が有力だそうです。村落の形が決って来たのは、平安末頃のようです。

ですから檜枝岐の芝居も、270年前・伊勢参りの帰路に村人が江戸で見た芝居を見よう真似で始めたのが端緒であったでしょうが、恐らくそれ以前から、檜枝岐にも、長い念仏踊りの歳月があったことでしょう。念仏踊りが次第に形を変えて芸能化していく。そのような素地があったところに、丸本にあるものをやるようになって、演目が固定化していくという流れであったかなと想像します。(これは吉之助の想像ですが。)代々の檜枝岐の村人たちの心の底に、深い鎮魂の念が地下水脈の如く流れていると云うことですね。(この稿つづく)

平安末期に高倉宮以仁王(もちひとおう)が中仙道を下り、尾瀬を経て檜枝岐に落ち延び、この泉で渇を癒したとの言い伝えがあり、この泉を「安宮清水(あんきゅうしみず)」と呼ぶそうです。以仁王は、平家追討の令旨(りょうじ)を全国に発したお方です。「平家物語」には治承4年(1180)山城国で戦死したとありますが、東国に落ち延びたという伝説もあるらしく、会津地方には以仁王にまつわる史跡がいくつかあるそうです。

深い山中にある檜枝岐村はかつて冷害に悩まされることが多く、凶作の年には餓死者が出ることもあり、赤ん坊を間引きせねばならないこともあったそうです。六地蔵は、そんな可哀そうな赤ん坊の霊を弔うために作られました。厳しい自然環境のもと、檜枝岐の村人たちは地芝居を綿々と守り続けて来たわけです。

5月の檜枝岐歌舞伎は、地元の愛宕神社の奉納神事として行なわれます。

(R3・5・18)


3)檜枝岐歌舞伎の「鳥居前」

全国の地芝居はそれぞれ独自の成り立ちを持っており、現行歌舞伎に見られない珍しい型を残しているところもあるようです。ただし、民間の伝承芸能というのは絶えず柔軟に形を変えていくというのも一つの特徴ではあるので、あまり学問的に型を見るのもどんなものかと思います。そこは気楽に楽しめば良いものだと思いますけれど、親から子・子から孫へと、村人たちは真剣に型を受け継ぎ・次代に受け渡して行くのが、地芝居なのです。その根底には、前項で述べた通り、芸好き・芝居好きと云うだけではない、はるかな先祖への鎮魂の念があるわけなのです。

地芝居は、特に戦後昭和の成長期に農村から都会へ人口流出が激しかった時代に、どこも存続が厳しい状況に置かれました。このため後継者不足により地芝居が続けられなくなったところが数多く出たようです。しかし、最近は、村起こし・観光資源の観点からも、地芝居が見直され復活する動きが出ているようです。全日本郷土芸能協会が平成23年(2011)に行なった調査に拠れば、全国に地芝居を行なう地域は195ヶ所あるそうです。

檜枝岐歌舞伎も、昭和35年(1960)には義太夫を語る方(竹本)がいなくなって、その後、録音したテープで公演を続けなければならぬ厳しい時代が続いたようです。しかし、平成23年(2011)・51年振りに、お隣りの南会津町出身の、若い仁太夫(ひとたゆう)さんの参画により、生(なま)の義太夫が復活して、現在に至っています。やはり義太夫狂言は、竹本が録音なのと、生の竹本であるのとでは大違いです。(なお仁太夫さんは三味線弾き語りです。地芝居での竹本はこの形式がほとんどであるようです。)檜枝岐歌舞伎は、今では江戸の昔の歌舞伎の雰囲気を偲ばせるものとして、はるばる遠方から舞台を見に来る観光客が増えているそうです。吉之助は偶然仁太夫さんとのご縁を得て、檜枝岐を訪れることになりましたが、芸能の遥か昔の始原について深く考える良い機会となりました。

檜枝岐の演目には、「一谷嫩軍記」の須磨浦・熊谷陣屋、「奥州安達原」三段目、「鎌倉三代記」、「絵本太功記」十段目など歌舞伎座でもおなじみの演目もありますが、「南山義民の碑」は檜枝岐のオリジナルの演目で、これは檜枝岐村出身の馬場霞堂によって書かれた全五段の義太夫狂言(初演は昭和8年・1933)だそうです。

今回の檜枝岐で吉之助が見たのは、「義経千本桜・鳥居前」でした。開幕に先立って、五穀豊穣を願う「三番叟」が舞われます。「鳥居前」の佐藤忠信の隈取の化粧などは江戸歌舞伎の影響を多少感じますけれど、忠信は江戸歌舞伎ほど狐の本性を見せて荒事風に暴れることはなく、そこはチラッと本性をほのめかすくらいです。丸本を大事にしたやり方のようです。特に幕切れは、忠信が、初音の鼓を持った静御前の後を追う時、思わず四つ足の風となって・狐の本性を現わす、静御前が様子が変だと思って振り返ると、忠信はサッと元の人間に戻る。これを三度繰り返して、花道から揚幕へ入って行くという珍しいやり方でした。これは現行の文楽と歌舞伎の中間を行く感じであるけれども、吉之助はこのやり方が何だかとても気に入りました。逸見の藤太が率いる捕り手を可愛い子供たちが勤めるなど、村人総出で芝居を作り上げる愉しみが伝わって来て、とても良い後味でありました。是非みなさまも、機会がありましたら、お近くの地芝居を見物してみたら如何でしょうか。

当日(12日)開演10分前の会場風景。山中5月の夜7時なので気温は12℃くらいでしたが、心配された天気も回復し・風もなかったので、寒さを感じずに見ることが出来ました。

狂言に先立って舞われる「三番叟」の舞台です。五穀豊穣を願う目出度い舞いです。

「義経千本桜・鳥居前」の開幕です。義経・静御前と弁慶ほか家来たち。

逸見の藤太と捕り手の登場。捕り手の子役たちが可愛い。

 

逃げようとする逸見の藤太を、忠信が妖術で引き戻す。

逸見の藤太を忠信が踏み殺す。

「鳥居前」幕切れ近く、静御前の後を追う忠信が、四つ足の風となって狐の本性をチラリと現わす。

静御前が振り向くと、忠信はサッと姿勢を変えて、元の人間の姿に戻る。

終演後の一同のご挨拶。中央が竹本の仁太夫さんです。

*写真は、令和3年5月11日・12日、吉之助の撮影です。

(R3・5・19)




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