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松井須磨子が歌う「カチューシャの唄」〜流行歌の誕生


本稿で紹介する音源は松井須磨子が歌う「カチューシャの唄」で、これは大正4年(1915)4月に東洋蓄音機(オリエント・レコード)のスタジオで録音されたもので(東洋蓄音機は、後に日本コロンビアに吸収合併)、日本における流行歌(歌謡曲)の第1号とも云われているものです。

「カチューシャの唄」は作詞は島村抱月、作曲中山晋平、もともと大正3年(1914)3月に帝国劇場での第3回芸術座公演「復活」五幕のなかの劇中歌でした。第1幕第2場でネフリュドフに「カチューシャ、お前もひとつ歌をお唄い、そしてお祈りをして願をかけようよ、お前の名前を入れた歌をお唄い」と即されて、カチューシャが「そうねえ、じゃあ唄いましょうか・・」と言って 、軽く手を拍ちながら唄った歌だそうです。

カチューシャかはいや/別れのつらさ
せめて淡雪とけぬ間と/神にねがひを(ララ)かけましょうか

中山晋平の作曲は難航したそうで、一か月かかっても旋律が浮かばず、舞台稽古の3日前に、歌詞のなかに(ララ)と云う囃子言葉を入れることを思い付いて、よくやく曲ができたそうです。なお「復活」の原作はレフ・トルストイの小説ですが、島村抱月は劇化に当たって原作小説の他、フランスで上演されたジョルジュ・バタイユの脚本なども参照したようです。 バタイユの脚本にカチューシャの劇中歌があって、抱月の歌詞にはこれとの類似が見えるそうです。

「カチューシャの唄」に対する観客の反応は初日から非常に良いもので、幕間には、廊下の壁に張り出した歌詞を見ようとする観客が押し寄せて、覚えたてのメロディを口ずさむ人、歌詞をノートにメモする人で黒山をなしたとのことです。旋律を完全に覚え込むため、連日帝劇に通った観客もいたそうで、「カチューシャの唄」はたちまち巷に広まりました。2〜3か月後には、東京の往来でこの唄をくちずさむ人があちこちにいたそうです。唄を最初に広めたたのは、主として当時の旧制高校生や大学生、つまり当時の若いインテリ層でした。これが評判になって翌年に「カチューシャの唄」はレコードとなり、松井須磨子は日本における「歌う女優」の第1号と 呼ばれるようになったわけです。

レコードで聞く松井須磨子の「カチューシャの唄」は、音程もあやふやだし御世辞にも上手とは云えないようです。しかし、こういう素人っぽいところが、かえって新鮮 に感じられたのでしょうねえ。これは当時の新劇のイメージとも重なって来るものかも知れません。

ところでレコードの「カチューシャの唄」には手拍子が入っていませんが、芝居のなかでの松井須磨子のカチューシャは、軽く手拍子を入れながらこの歌を唄ったのです。これがちょっと興味深い。曲は四分の一拍子ですが、須磨子の手拍子がどうやら二拍子っぽかったようで、それが民謡っぽい印象を醸し出したようです。福岡での巡業での新聞評では「両手を叩いて調子を取るのがちょうど「めでためでたの若松様よ」をやっているようで一種の滑稽を覚えた」と書かれています。これで須磨子の手拍子がどんな感じだったか想像が出来ます。一拍目にアクセントが入った民謡調の二拍子 なのです。また別の新聞評でも「「カチューシャ 可愛いや別れのつらさ 」という小唄を唄うところに感動を覚えた」という文章があって、ここでは「小唄」と書かれています。逆に云えば、そういう民謡的な受け取りをされたことで「カチューシャの唄」は世間に広まったと云うことなのです。

もしかしたら須磨子の手拍子は、中山晋平の「西洋のリード(歌曲)と日本の俗謡との中間を狙った」という意図から発しているのかも知れません。それならば中山の狙い通りだったということですね。「カチューシャの唄」を最初に広めたのは東京の学生でしたが、この旋律を全国的に広めたのは、巷の演歌師たちでした。西洋音楽は、こう云う形でいくらか邦楽的な味付けをされながら、庶民に次第に浸透していったわけです。

*本稿については、永嶺重敏著・「流行歌の誕生〜「カチューシャの唄」とその時代」を参考にしています。

永嶺重敏:流行歌の誕生―「カチューシャの唄」とその時代 (歴史文化ライブラリー)

(H30・4・10)


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