(TOP)          (戻る)

沈黙の言語

昭和57年10月ベルギー二十世紀バレエ団公演
「エロス・タナトス〜ベジャールのすべて」
ジョルジュ・ドン、パトリス・ツーロン、ショナ・ミルク他
振り付け:モーリス・ベジャール
(東京文化会館)

*本稿は昭和57年モーリス・ベジャールのバレエ来日公演の批評であり、歌舞伎と直接の関係はありません。しかし吉之助にとっては重要なテーマを含んでいるのでここに掲載します。


1)沈黙の言語

吉之助は子供の頃パントマイムが大嫌いでした。役者が何を表現したいのかよく分からず、不安で仕方なかったのです。今にして考えてみると、その不安の正体は自分が言葉という表現手段を奪われてしまうことへの恐怖であったような気がします。パントマイムの持つ息苦しさ、それは外界とのつながりと断れてしまった人間の苦しさでした。なぜならば人間とは基本的に音声としての言語にイメージを託し、その意志を伝えようとする動物だからです。マックス・ピカートは次のように言っています。「人間の本質ーそれは言葉だ。」いわば言葉を失った人間は死んだ人間にも等しいのです。だからパントマイムが苦しいのは死んだ人間が語ろうとしてもがいているからです。言葉を持たない彼らはその存在の証を動きに求めようとします。だから彼らは生きている人間以上に動き回る必要があるのです。彼らは何かを叫ぼうとしていたのです。だが幼い頃の吉之助はそのもがく姿におびえて彼らの叫びを聞き取ることができませんでした。

吉之助がパントマイムを落ち着いて芸として見ることができるようになったのは最近のことです。しかし昔の感覚は心の底に今もしっかり残っているのです。そしてバレエを見る時にも吉之助は同じことを考えてしまうのです。音楽が次第に高まっていき舞台がクライマックスを迎えるその時に、吉之助は踊り手が歌いだすことを心ひそかに願ってしまうのです。この高揚感を確実なものにするには、たった一声だけで良い、踊り手が何か意味のある言葉を叫ぶだけで死者は蘇ることができるのです。しかし踊り手が歌いだすことはありませんでした。感動は頂点を目指して駆け上がったまま、実現されることはなかったのです。

しかし結果としてみれば、バレエが芸術として成立するのはまさにその高揚感が現実のものとならないからに他なりません。なぜならば踊り手たちは本当はしゃべれるのにわざと黙って、言葉という表現手段を自ら封じ込める代わりに、沈黙の言語を語ろうとしているからです。沈黙の言語ーこれこそが死者の言葉です。もし踊り手が一言でもしゃべれば踊り手はその肉体を露呈してしまい、沈黙の言語はかき消されてしまうでしょう。そして踊り手はその仮面を剥ぎ取られ、実は観客と同じみすぼらしい生者であることを明かさざるを得なくなるのです。

しかし矛盾したことを言うようですが、やはり踊り手は生者たることを目指しているのです。そして観客に「こう叫んでくれたら・・・」と思わせておいて自らは決して叫ばないのです。その瞬間、死者たち(踊り手たち)はその身体から沈黙の言語を観客に向かって雄弁に語りはじめるのです。すなわち 吉之助はバレエというものの本質を生と死の境に見るのです。本来、死者は肉体を持たない、空間に浮遊するような霊的存在として理解されます。ところが言葉を捨てた動く死者とも言うべき踊り手たちは、死者が持っているはずのない肉体の動きにその表現手段を求める(これこそ最も現世的なもの!)という矛盾、これこそがバレエ芸術が自らに課した枷ではなかったでしょうか。

バレエの起源を専門的に考察したことはありませんが、吉之助はバレエを神や死者との対話から生まれた宗教的なものであると考えています。原始人が狩りや収穫のあとにただ喜んで歌い踊っているだけならば、それはまだ芸術とはいえません。観客に神や死者などの別の次元の存在が意識されて初めて踊りは芸術に昇華することができるのです。神や死者は人間に決して直接話しかけたりはしません。何かを媒体にしてそこに何かが存在するとただ感じさせるだけです。神や死者は踊りのなかに沈黙のメッセージを託すのです。

つまりバレエとは、沈黙の言語の支配する死者の世界と汗と肉体の支配する生者の世界を両極として、その間で微妙な均衡を求められる芸なのです。そのなかで音楽は両者を結びつける架橋の役割を果します。あるいは神や死者を現世に呼び出す働きをしているとも言えましょうか。


2)声楽を使用することへの疑問

吉之助がここで「沈黙」にこだわるのは、今回のベルギー二十世紀バレエ団の公演「ベジャールのすべて(エロス・タナトス)」を見て、バレエ音楽として声楽入りの音楽を使うのはバレエの本義にもとるのではないかと思うからです。例えば今回のダンス・ナンバー「死者がわたしに語りかけるもの」では、マーラーの歌曲「トランペットが美しく鳴り響くところ」が使用されています。この曲は 吉之助の好きな曲のひとつなのですが死者の来訪をテーマにしています。戦死した若者の霊が恋人の家を訪ねてくるという悲しい物語です。舞台は美しく、音楽の持つ澄んだ情感を見事に表現しています。それでは何が不満かというと音楽に声楽が使われていることで、踊り手が歌わないことの意味が失われてしまうと感じるからです。このように声楽を背景にして踊る時、踊り手の肉体は沈黙の言語で語ることを止めてしまっているように感じられます。あるいはバレエが本来表現すべきはずの沈黙の言語が生者の言語でかき消されてしまっているというべきかも知れません。不思議な事だが、こうした声楽を使用したナンバーは見ていて気分的には楽なのです。吉之助がかつて感じたあの息苦しさがここでは薄らいでいるようです。

かつてベジャールは「ロミオとジュリエット」の最終場面ですべての登場人物を舞台に再登場させて、「戦いをやめて恋をせよ」と叫ばせました。また「ニジンスキー」の最終場面では主役が一本のバラを客席に向かって差し出し、「なにも恐れるものはない。すべては喜びだけだ。」と語らせたのでした。それがどれほどに新鮮な試みであったか、どれほどに観客に感銘を与えたのか、吉之助にも理解できます。その瞬間、踊り手は観客と同じ次元に降り立ち語りかけるのです。しかしそれは最終場面だから許されることなのです。最初から踊り手がしゃべってしまったら、観客は奴はまたしゃべるかも知れないと思い、無意識のうちに言葉による説明を求めてしまうでしょう。そうなったら踊り手はもはや沈黙の言語をしゃべることはあり得ません。

そうした失敗例だと吉之助が思うのは「アクア・アルタ」というイタリア歌謡を使った踊りです。ここでは踊り手はまず「アモレ・ミオ」と叫んで周囲の手拍子で踊りが始まります。その踊りは活気に満ち溢れているし、生の喜びを讃えているかのようですがそれだけです。それは安酒場で人々が浮かれ騒ぐのと同次元の踊りです。生を讃えていても、生そのものではありません。それは声楽を使用していることにも原因があると思いますが、最初に踊り手が叫ばなければ印象はだいぶ違ったものになったでしょう。同じように踊り手が叫ぶナンバーが今回のプログラムにいくつかありますが、それは常人には及びもつかない肉体の柔軟性と俊敏性を持ち人間以上の存在に変身してしまうかのような踊り手たちが、じつは我々と同じ人間でしかないという幻滅以外のなにものでもありません。

とはいえベジャールの振り付けは十分に刺激的です。声楽を使用しないストラビンスキーの「春の祭典」がそうです。舞台は男女の行為そのものをズバリ連想させるものにあふれています。しかしそれが実際のものとして、つまり猥褻なものとして観客に実感されないのは、(もちろんそう見えればバレエ芸術としてはまずいわけですが)踊り手が声を出さないからです。それは舞台がものを決して焼き尽くすことのない火で焼かれているようなものです。肉体が表現しているのもかかわらず、それは昇華されて肉体以上のものに変化しているからなのです。もし踊り手が声を出していれば、観客は踊り手の肉体を意識せざるを得ないでしょう。


3)素材としての肉体

ベジャールの振り付けが伝統的なロマンチック・バレエと本質的に異なる点は、ロマンチック・バレエが肉体をより美しく情感豊かに見せようとするのに対し、ベジャールの場合はそのような技巧を虚飾として退けようとする点にあると言えるでしょう。だからベジャールは素材としての肉体美を強調しようとします。光線の具合によっては全裸にもみえてしまうようなレオタード姿には打ち抜きのコンクリート剥き出しの建築が素朴な力強さを感じさせるのと同じような驚きがあります。例えばフィナーレでのラヴェルの「ボレロ」では、今回はジョルジュ・ドンとショナ・ミルクという男女の踊り手によるダブル・キャストが組まれています。実は見る前には、同じ振り付けを男女で踊ってどうなるのかという疑問がありました。つまり男には男に、女には女にふさわしい振り付けがあるはずだという先入観です。

ところがその先入観はみごとに打ち砕かれたのでした。ミルクは女らしさを強調するような技巧はまったく使っていません、ドンと同じ振り付けで踊っているのです。それなのに彼女の踊りはドンのものと印象がまったく違います、別次元の完成された姿を見せているのです。ドンの踊りが邪教の神がその魔力で人々を平伏させてしまうような感じだとすれば、ミルクの踊りは神に仕える巫女がその祈りの力で人々を導くような感じです。こうした印象の違いがどこから来るのかというと、それはミルクの肉体が素材として女性であるからに過ぎないのです。素材が舞台の印象を決定的に左右するーこのことこそ、ことさらに技巧をこらして女らしさを強調するロマンチック・バレエとは一線を画することなのです。

別ナンバーにパトリス・ツーロンが女装してクライスラーの「美しいロスマリン」を踊るものがあります。男性が色とりどりのひらひらの衣装をつけることから、これがロマンチック・バレエへの風刺になっていることがわかります。ここでの振り付けは女性が踊ればまことに愛らしく楽しいものなのですが、それを男性が踊っているので奇妙なものになっているのです。ツーロンが見せる技巧は見事なものでそれ自体には人を笑わせる要素はまったくありません。つまりこの踊りがパロディーになってしまうのは伝統的な技巧や衣装が余計なイメージを漂わせているということです。ツーロンの男性としての肉体が、この踊りには別次元の世界を与えることができない。それを阻むものは何かという問題をベジャールは提示しているのです。

つまりロマンチック・バレエの技巧や衣装には性別があって、ベジャールには性別はないのです。ベジャールは振り付けに余計なイメージがまつわりつくことを避け、踊りそのものの本質をもう一度見つめなおしてみようと考えているのでしょう。さらにベジャールは素材としての肉体が重視するので、その舞台には主役は存在せず、すべての登場人物が同じ大きさで舞台に立ちます。このバレエ団にはジョルジュ・ドンという大スターがいるのですが、その彼が当たり役の「ボレロ」を踊る時でさえ、ドンが主役だとは必ずしも言えません。その他大勢の踊り手たちもまた主役なのです。

(参考文献)
マックス・ピカート:「沈黙の世界

モーリス・ベジャール:「ベジャール自伝」

(付記)当日のプログラムは以下のようでした。

春の祭典(ストラヴィンスキー)
ソナタ5番(バッハ)
イルミナシオン
ヘリオガバル
愛が私に語り掛けるもの(マーラー)
ラ・ミュエット
アダージョ(ベートーヴェン)
アクア・アルタ
ロメオとジュリエット(ベルリオーズ)
我が闘争

ボレロ(ラヴェル)

(H13・2・3)


 

 

 (TOP)         (戻る)