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カラヤンの録音(1988)

1988年4月:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率いて来日公演。


○1988年5月2日ライヴ−1

モーツアルト:交響曲第29番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(東京、サントリー・ホール)

しっとりと優美な演奏に仕上がりました。編成はやや大きめで弦も厚めに聞こえますが、ベルリン・フィルの弦の柔らかで優美なことは特筆すべきで、曲のすみずみまでが角がとれてまろやかです。それでいて甘ったるいようなところがなく・暖かで優雅なのです。無理な力を強いることなく・モーツアルトの古典的な格調を醸し出しています。 音楽が丸みを帯びて・ほんのりと赤く色付いているような感じがします。特に前半の第1・第2楽章が見事です。第2楽章は心持ち早めのテンポが流れるようではとても美しく感じます。後半もリズムがきつくなくて・表情が柔らかい軽やかな演奏になっています。 カラヤン晩年のモーツアルトは肩の力が抜けた感じでとても良いと思います。


○1988年5月2日ライヴー2

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(東京、サントリー・ホール)

84年8月ザルツブルクでのウィーン・フィルとの「悲愴」はカラヤンにしては珍しく感情が表に出た演奏でしたが、ここでの演奏は理知的コントロールの効いたカラヤン本来のスタイルに立ち返った印象を受けます。その解釈は70年代と基本的な変化はないように思われますが、若干異なるのはオケの制御の手綱を若干緩めているように思われることです。これはオケの統制力が弱まったということではなくて、オケを信頼し切って身を任せているというか・なにか暖かいものが演奏の奥底に流れているように感じられるのです。カラヤンの得意曲だけに晩年のカラヤンのそうした特徴が感じられて、忘れがたい印象を残します。


○1988年5月4日ライヴ

ベートーヴェン:交響曲第4番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(東京、サントリー・ホール)

全体にテンポをやや遅めにとった演奏ですが、構成がしっかりしていて造形にゆるみがない好演であると思います。特に第1楽章はリズムの持つ推進力を主体としてスケールが大きい演奏で優れていると感じます。それでいてわざとらしさがない自然な表情になっているのです。第2楽章も旋律の息を大きくとらえていて、ゆったりとおおらかな流れが好ましいと思います。ベルリン・。フィルのカラヤンの棒を余裕を以て受けて、両者にお互いを信じきったような安心感が感じられます。解釈としてはこれまでのカラヤンの解釈と大きな変化があるわけではないのですが、聴き終わった後の後味がとてもいいのです。これは晩年のカラヤンの至芸であると思います。


○1988年5月5日ライヴー1

モーツアルト:交響曲第39番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(東京、サントリー・ホール)

ベルリン・フィルの弦がしっとりとして、ウィーン・フィル顔負けの優美さです。カラヤンは無理な力をどこにも入れずにオケの自発性に任せたように導いていきます。旋律を柔らかく歌って、まろやかではあるが・甘ったるいところはなく、内側から暖かさがにじみ出るような不思議な魅力のあるモーツアルトに仕上がりました。第1楽章冒頭の不協和音でさえモーツアルトでは美しく響かねばならないということが、このカラヤンの演奏ではよく分かります。第2楽章も 心持ちテンポを早めに取り・優美で流れるような美しさです。 第3・第4楽章はリズムを強く押し出さないのが好ましいと思います。ちょっと小振りな感じもしますが、余計な力が入っていないのはやはり晩年のカラヤンにして可能な芸だと思います。


○1988年5月5日ライヴ−2

ブラームス:交響曲第1番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(東京、サントリー・ホール)

70年代の壮年期のカラヤンの・引き締まった造形とリズムの推進力を感じさせた演奏に比べると、ここでの演奏はフォルムの締め付けを若干緩めて・表現ベクトルを外に向ける方向に変化しているように思われます。従ってリズムの刻みを意識させずに、音楽の流れを重視する演奏になっています。そのせいかテンポは以前より遅めになあてきているようで、響きも柔らかく・内側から不思議な力を放っているように感じれます。これは晩年のカラヤンの演奏に共通した傾向です。カラヤンの得意曲だけに第1楽章や第4楽章はベルリン・フィルの合奏能力を生かしてスケールが大きいのですが、第2楽章の流れの豊かなゆったりした表現が印象に残ります。テンポの微妙な伸縮も従来よりはやや大きいように感じられますし、第4楽章終結部の最終音はいつもの倍くらいに引き伸ばして、かなり力の入った終わり方をするのもカラヤンにしては珍しく印象に残ります。


○1988年8月15日ライヴ−1

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲

アンネ・ゾフィー・ムター(ヴァイオリン独奏)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(ザルツブルク、ザルツブルク祝祭大劇場、ザルツブルク音楽祭)

ムターのヴァイオリンをカラヤンが大きく包み込むような形を予想していたら大違いで、両者の気迫がぶつかり合うように四つにがっぷり組んだ力演でした。全体にテンポは早めで・リズムは斬れており、音楽に推進力があります。その反面、ロシア的な香りや情感にはやや乏しい 面がありますが、色彩感はたっぷりです。第3楽章はリズムが斬れて荒々しいほどの迫力がありますが、熱してくるとリズムが早まる傾向が見えます。ムターのヴァイオリンはテクニックは十分で、男勝りに感じられるくらいに力がこもった演奏を聞かせます。低音が力強いのは素晴らしいのですが、力み過ぎで若干粗い表現になってしまった部分もあるようです。第2楽章などスッキリした味わいですが、もう少しテンポを遅くして歌わせた方が彼女の美点を生かせるような気がしますが。


○1988年8月15日ライヴー2

シューマン:交響曲第4番

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(ザルツブルク、ザルツブルク祝祭大劇場、ザルツブルク音楽祭)

この交響曲のロマン的な本質を大きく掴んだスケールの大きい演奏です。四つの楽章のバランスが緊密にとれていて・全体としては古典的な印象ですが、フォルムの締め付けをやや緩めて・オケの自発性を大事にしており、交響曲としての骨組みの太さと濃厚なロマンティシズムが調和した好演に仕上がりました。まず第1楽章がウィーン・フィルの低音の効いた響きが重厚で素晴らしいですが、細部の表情がふくよかで・しなやかな強さがあり・聴き応えがします。第2楽章もロマン性が粘らず重くならずに・程よい味わいを見せています。この辺にウィーン・フィルの良さが出ています。第3〜4楽章ではリズムをしっかりと刻んで・はやることなく・足を地面にじっくり踏みしめた深い音楽になっています。


○1988年9月30日ライヴ

ヴェルディ:レクイエム

ユリア・ヴァラディ(S)
フローレンス・フィーバー(A)
ヴィンソン・コール(T)
ジョン・トムリンソン(B)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン楽友協会合唱団
(ベルリン、ベルリン・フィルハーモニー・ホール、ベルリン芸術週間)

テンポは心持ち早めにとられ、劇的な振幅が大きく・感銘が深い演奏に仕上がっています。集中度が高く、最後まで聴き手をとらえて離しません。旋律が直線的にシャープに歌われ、カンタービレが生かされた・力強い表現になっています。独唱・合唱にも同じことが言えますが、言葉を大事にした歌唱が聴き手に強く迫ります。第2曲での荒々しい劇的表現ではベルリン・フィルの合奏力が威力を感じさせます。ベルリン・フィルの金管の咆哮はすさまじいほどです。いわゆるイタリアのオペラティックな表現とは異なり、ドイツ的な重く渋い印象ですが・交響詩的な密度を感じさせる名演だと思います。


○1988年10月−1

ブラームス:交響曲第3番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(ベルリン、フィルハーモニー・ホール、独グラモフォン・スタジオ録音)

カラヤン晩年のブラームスはフォルムを締め付けと若干緩めて・ゆったりとした余裕を感じさせます。全体の流れが重視されており、テンポ配分は申し分ありません。特に中間2楽章に柔和な表情があり、そこに余裕が感じられることが・この演奏を大きいものに感じさせています。 叙情味の勝った表現ですが、第3楽章も甘みを殺して・すっきりした表現です。両端楽章はリズムに推進力があって・スケールが大きく・相変わらず素晴らしく、フィナーレは余韻が残る美しい終わり方です。


○1988年10月ー2

ブラームス:交響曲第4番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(ベルリン、フィルハーモニー・ホール、独グラモフォン・スタジオ録音)

カラヤン最晩年のブラームスはいずれもそうですが・旋律を息長く取っているので・ゆったりした大きさが自然に出てくる感じです。実際のテンポよりゆっくり感じられるのはそのせいかと思います。豊穣な味わいのブラームスでカラヤン美学のひとつの到達点を見る思いがします。響きを十分に取った録音は艶やかで透明で・叙情味の勝ったカラヤンの行き方に似合っているように思います。全曲を通じてテンポ配分は申し分なく・一貫した流れを感じさせます。第1楽章はテンポをゆったり取った深みのある表現。第4楽章もスケール大きく・じっくり聴かせます。


○1988年10月22日ライヴ-1

ブラームス:交響曲第3番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(ベルリン、フィルハーモニー・ホール)

構えをゆったり大きくとって、浪漫性豊かな演奏になっています。まさにブラームスの魅力を十二分に引き出した名演だと思います。これより以前のカラヤンのリズムを明確にとってフォルムを決めていくやり方も魅力的ですが、ここでは手綱さばきを若干緩めつつ、オーケストラの自発性を生かしながらその力量を遺憾なく発揮させている感があります。しかもリズムは深くしっかりと打ち込まれて・全体に緊張感がみなぎり推進力を失うことがありません。旋律にふくよかさと・艶がいっそう醸し出されています。第1楽章や第4楽章はその典型で、荒々しいほどのオケの咆哮もフォルムのなかにぴったりと収まっているのです。その一方、中間楽章においてはややテンポを速めに設定して、オケを抑え気味にしてさわやかな印象に仕上げたことが曲全体の構成からも非常に生きていると感じられます。晩年のカラヤンの至芸であると思います。


○1988年10月22日ライヴー2

ブラームス:交響曲第4番

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(ベルリン、フィルハーモニー・ホール)

同日の第3番と同じく、晩年のカラヤン/ベルリン・フィルの到達点を示す名演であると思います。特に第4番は形式(フォルム)のなかにブラームスが盛り込んだ情感が溢れんばかりで、その表現の抑制が難しいと思うのですが、カラヤンはオケの手綱さばきに余裕を持たせて・大きな構えのなかでオケを自在に泳がせる見事なコントロールを見せます。リズムがしっかりと深く打ち込まれて・旋律が伸びやかに歌いこまれています。第1楽章はテンポをやや速めに取ってあっさりと始まりますが、次第に表現がメランコリックに・濃厚になっていって、その情感は第4楽章において頂点に達ます。特に第4楽章パッサカリアの表現は形式の持つ緊張感のなかに濃厚なロマンティシズムを感じさせる素晴らしい出来です。この第4楽章が生きるのも中間楽章との関連がうまく有機的に構成されているからに違いありません。ベルリン・フィルの音色は透明感があって繊細ですが、同時に表現のダイナミクスも大きく、充実した演奏に仕上がりました。


○1988年11月

ブルックナー:交響曲第8番

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(ウィーン、楽友協会大ホール、独グラモフォン・スタジオ録音)

晩年のカラヤンの圧倒的な感動をもたらす超名演。まずその足取りがまったく乱れず整然としていて、リズムが深く打ち切れていることです。ブルックナーはこれでなければと言う真髄を見せつけます。次にウィーン・フィルの音色が渋く暗めで素晴らしいと思います。弦は柔らかく繊細で、金管の咆哮が派手過ぎることなく・いぶし銀のように渋く響きます。第1楽章冒頭から渋く落ち着いた響きに聴く者の身が引き締まる思いです。カラヤンは曲のすみずみにまで気を配り、各楽章が有機的に結び付けられ、緊張が途切れることがまったくありません。表現にあいまいなところがなく、音楽があるべき形で鳴り、あるべき方向に進んでいくという感じなのです。全楽章にわたって素晴らしいと思いますが、第2楽章など、リズムにまかせて躍動感を強調する指揮者が多いなかで、カラヤンはテンポをじっくりと取ってその重厚で巨大な音楽を自然に現出させており、実に説得力があります。第3楽章は静けさのなかに叙情性がゆったりと流れていきます。その旋律の絡み合いの美しさはカラヤンだけのものです。


○1988年12月4日ライヴ

プロコフィエフ:交響曲第1番「古典」

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(ベルリン、フィルハーモニー・ホール)

ハイドンのスタイルをとった擬古典主義的な作品ですが、このカラヤンの演奏ではリズムを滑らかにとって・艶っぽいロマン的な演奏になっているのが面白いところです。もうすこしリズムを硬めにとってキビキビした演奏の方がプロコフィエフらしいという気もしますが、この曲をプロコフィエフはわざとピアノを使わずに作曲したというようなエピソードを聴くと、リズムを前面に押し出したピアノ曲(たとえばトッカータや第7ソナタなど)を書いたプロコフィエフのイメージとは違うものをこの曲ではイメージせねばならないかなとも思います。その意味ではカラヤンのこの演奏はこの曲の一面に迫ったものではないかと思います。特に魅力的に感じるのは前半の2楽章です、リズムをちょっと遅めにとった弦の優美な響きが旋律を不思議なほど色っぽく感じさせます。


○1988年12月4日ライヴー2

ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(ベルリン、フィルハーモニー・ホール)

「運命」交響曲の出来は冒頭で決まると私は思っていますが、その点ではこの演奏の冒頭はやや気合に欠けるところがあるようです。ただ、このあとを続きけて聴いていると、どうもカラヤンはそれを意識的にしているようにも感じられました。音楽作りが柔らかく、響きが透明になっているためにそう感じられるのかも知れません。62年の演奏のようにリズムの持つ推進力を前面に押し出した演奏ではないのです。聴き手の好みによりますが、この第1楽章には若干の物足りなさがあるようです。しかし、第3楽章で抑えられていたものが第4楽章に至って爆発的に湧き上がり、クライマックスに流れ込んでいく・その表現力はやはり見事なものだと思います。


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